07.ヒッグス粒子

 自動筆記で書いたラブレターを入れた鞄を抱えたまま、十文字ミコはヒッグス粒子にぶつかった。

 ここで彼女の前方不注意をとがめるのは、酷というものだろう。ヒッグス場を構成する存在として、1964年に存在が予言されていたヒッグス粒子は、物質を構成する最小の単位である素粒子の一つであり、その大きさは分子よりも原子よりも陽子よりも小さく、ミコが目の前のヒッグス粒子に気づかなかったのは無理もないことだと言える。

 この二者の衝突は、宇宙史的な大事件となった。

 ミコとぶつかったヒッグス粒子が、砕けて割れたのだ。ミコは素粒子を生身で破壊した、宇宙最初の生命体となった。

 物理宇宙の因果性に反して、この現象は共時性の広がりをもった。ミコが素粒子を破壊したのと、ほぼ時を同じくして、宇宙の至るところでヒッグス粒子が無機物有機物問わずに、あらゆる物質と衝突、破砕した。

 同時多発的。シンクロニシティ。そのような言葉で語られる、因果を越えた力が働いたのだ。その現象は止まらなかった。

 ミコの事件から、わずか180秒ほどで、宇宙全体からヒッグス粒子は消滅した。

 起こるべくして起こったと思うしかない、あまりに突然の宇宙終焉だった。

 素粒子に質量を与えていたヒッグス粒子が消滅した今、宇宙からは人類が認識していた、ありとあらゆる物質が素粒子へと砕け散った。もちろん、十文字ミコも、鏡マイコも、彼女たちが通っていた中学校も消失した。

 すべての物質が質量ゼロの素粒子となり、光速で宇宙を直進した。

 ビッグバン直後の、原初の宇宙へと回帰したのだ。

 ただし、今度はヒッグス粒子のように、ヒッグス場を構成し、素粒子に質量を与える性質をもった素粒子は対象性の破れからは生まれなかった。宇宙は長い間、質量のない状態のまま存在を続けた。生命体どころか、岩の塊、水素や鉄すら今の宇宙には出現しない。

 質量のない宇宙で、増え続けたのは「情報」だった。

 情報は原初宇宙の誕生直後から出現し、質量宇宙の登場からその終焉を過ぎた今に至るまで、この宇宙内での密度を上げていた。物質的にとらえることのできないこれらの宇宙的情報を、人類はついに観測することなく滅んでしまったが、そんなこととは無関係に、情報は今の宇宙で繁栄を続けた。

 質量宇宙が終わり、情報宇宙が始まった。

 情報宇宙の情報たちは、時間と空間という最小構成単位を持っていた。これらは、宇宙が膨張を続ける限りは無限に増加するパラメータであり、宇宙の膨張が収縮に変化しない限りは、情報宇宙は安泰と言えた。

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