第7話 交渉

七 交渉


「オイルボトルとオイル取り皿は作っていただくとして、二階に昇ってみたくなる階段というのはできませんかねえ」

 成一がそう言うと、牛島の眼つきが変わった。穏やかに話していた牛島の脳に閃きが起こったようだった。

「レストラン&バーをやろうと思っているんです。店名も決まっています。「グランブルー、映画のタイトルなんですが。海をイメージしたレストランにしたいのです」

 そばで聞いているマキは「昇ってみたくなる階段」をイメージしてみた。思わず昇ってしまう。昇りたいと感じる階段とはどんな階段なのだろうと思う。

 牛島は瞬時にイメージが湧いたようだった。だから笑顔になった。

「どのくらいのサイズのレストランですか」

「百席ほどで結構広いんです。室内と屋外のあるレストラン&バーにしたいと思っています」

 バリ人が二人、その男についている。マキがインドネシア語に通訳してあげる。話の内容を聞いておいたほうがいいだろうと気を利かした。

 牛島は神経質そうでない。サラリーマン風でもない。青筋立てるような人ではなさそうだ。声が良い。

 牛島はにっこり笑って、

「いっそのことレストランもバーも全部ガラスにしてはどうですか。柱も壁もです。フロアーまでとは言いませんが」

 男は、ガラスで柱とか壁って危なくないんですか」

「全く危なくありませんよ。厚い平らなガラスを積み上げていくだけですから。光によって柱は変化して見えます。建築でやるのは初めてです。で予算はいくらくらいです? 」

「一千万円はかかると思っています」

「バリ島ではすごい金額ですね」

 牛島は成一より年上のように見える。二三上くらいか。太い脚をしている。ごつい職人のような手をしている。

「テーブルと椅子で以前から考えていることがあるんです。木のテーブルにパステルカラー、黄色とか空色とか白の生地で木の部分を全部無造作に巻いてしまうんです。そしてその布に樹脂を塗りこめるんです。そうして人力で磨く。白と空色を半々くらいにしてちょっと黄色の模様もでるようにします。波打つような、ちょうど白い波と空の風景を思い浮かべてください。そんな波模様のようにします。色の境は直線ではありません。白い波と空がまぜこぜになったようなイメージです。そして樹脂が乾いた後、人力で磨くのです。するとこれまでに見たことのない柄が浮かびあがってきます」

 成一は黙って聴いていて、

「わかりました。お任せします。昇ってみたくなる階段、上がってからの素敵なレストラン。牛島さんに任せます」

 マキは成一の即断に驚いた。速いこと・・・。

「彼はコンピャンと言います。建築士です。これからは彼を窓口にして進めてください。ぼくは日本とバリを行ったりきたりしていますので。どれくらいの工期が必要ですか」

「三ケ月でやりましょう。前金、途中でもう一回、出来上がって最後の支払いでいいですね」

「結構です。それでは明日お金を持参します。すぐに取り掛かってください」

「キッチンはオープンキッチンでお願いします。それに動きやすいようにお願いします。すぐにシェフを見つけますので、シェフの意見も取り入れてやってください」

 成一はコンピャンに、

「キッチンの設備の配置と効率的な動きができるようシェフと話し合い、牛島さんに報告してくれよ」

 さっさと成一は決めていくのだった。話が済んだと思ったのか、成一はマキに、

「あなたは?」は訊いた。

「この工房の雑用係です。田辺真希といいます」

牛島はにこにこして、

「英語、インドネシア語、それにバリ語もできるんですよ」

 当然成一は「なんでここにいるの」と思ったがそれは訊かなかった。

「妻が今日本に行ってましてね。すぐに戻るんですが」

「マキさんと呼べばいいのかな。マキちゃんの方がいいかな」

 すっと寄ってきた成一の言葉に思わず、「マキちゃんの方がいいです」と応えた。だって、ずいぶん歳もちがうもの、と思ったが口には出さなかった。

 成一は女性を呼び捨てにする感性がなかった。普通なら「マキさん」であった。ところが「マキちゃん」の方が似合っているような気がした。大きなサングラスをマキは頭に乗せていた。不愛想にも見えたが、茶目っ気もありそうだった。

「どこに住んでいるんですか」

 と成一はマキの目を見て訊いた。

「ウブド近くの山の中、というよりジャングルの中の一軒家」

 とマキは答えた。

「へえ」と言ったキリ、成一は黙った。そして立ち上がって、「これからよろしくね」と言うと、牛島に向かって、

「マキちゃんをうちの方で働かせてもらえませんか」

 とマキのいる前で言った。

「それはマキの自由です。どうするマキ?」

「どうするって? 」

 一千万円の仕事を受注したのだから、この工房で奥さんがいれば上等だろうと成一は思ったのだった。

「工藤さん、急ぎすぎです。牛島さんと話し合いますので」

 と応えるのが精々だった。しかしこころは動いた。

「じゃあ、返事はまたあとで。電話ください」

 成一はレギャンの事務所の名刺をマキに渡した。

 成一については今日の会話の内容でしかわかることはなかった。すぐ決める。声が良い。無駄なことは言わない。ほんのりしている。あっけらかんとしている。知性的である。でも私の生きる原則は他人と適度な距離を置くことだ。

 工藤成一が帰ってから牛島と話をした。牛島の真意を聞いておきたかった。すでに奥さんの奈美恵さんがいる。私のような日本人は給料も高い。

「面白そうな人だから行ってみるのもいいんじゃないか」

 牛島にはもうマキはいてもいなくてもよいと思っているようだった。「マキがいなくて困る」とは一切口にしなかった。すでに頭の中はレストランのことで一杯のようである。

 マキにとって問題はひとつ。今住んでいる家から引っ越したくないことである。都会の喧騒、特にバイクの音とスピーカーからの大きな音楽にはうんざりする。漆黒の闇の中で星を見ていたい。月の動きを見ていたい。

 私は宇宙からやってきて海の中で生命体となった。そして海から川へ、川から陸へと進み、両生類、爬虫類、鳥類となって哺乳類となった。小さなネズミのような小哺乳類が生き延びて、ついには猿となり、アフリカ大陸でヒトとなった。そして偶然、奇跡のように私がいる。突然抱きしめ、泣きだし、死にたいといい、父への不平を口にする母がいる。また突然無視する母にはまたその上に父母がいる。その父母にも父母がいて、延々と人類の発生のところまでいく。今そう思っている。父や母に責任を問うのは無駄なことだ。私は意識的に両親から離れた。それが精神上よいと思ったからだった。

 住処はかけがえのないこころ静かな場所であった。けれど、もう出なくてはならないか。はっきり言ってみよう。ここから通いたいと。


 マキは翌日、成一に電話をした。

「牛島さんと話し合って、お世話になりたいと思いますが、私のこと何にも知らなくていいんですか」

 とやや不思議そうに聞くと、

「いいんだよ。人って、目を見ればわかるんだ。どんよりした目か意志のある目か。君は意志がある。そしてきっと賢い」

「はあ・・・。ところでウブドの近くに住んでいるんですが、できるだけ引っ越したくないんです」

「それは好きにしてくれていいよ。事故の確率は増えるけどね」

「そうですね」

 ここに居続けることと事故との比較なのか。マキは、

「それでは当面、ここに居させていただきます。仕事に支障をきたすようでしたらその時考えます」

「残業とかはないからね。十一時から七時まで働いてほしい」

「することは何ですか」

「ぼくの代わりだ。ぼくはバリ島には精々一週間程度いるくらいだ。当面は一ヶ月に一度来るけど、だんだんと二ヶ月に一度、三ケ月に一度くらいにしていくつもりだ。グランブルーの立ち上げ前は開店日から一週間が過ぎるまで、三ケ月はいるつもりなんだ」

 すっきりとした男だった。

「いつから働けばいいんですか」

「そっちの都合でいいよ」

「工藤さんはいつまでいるんですか」

「牛島さんがボトルと皿を納入するまでいるよ。ホテルはレギャンのアクエリアスホテルだ。そこでエステサロンもやっている。すぐ近くに雑貨屋もある。BBTの事務所は雑貨屋の奥にある。一度見に来いよ」

「わかりました。見に行きます。明日行ってもいいですか」

「いいよ」

「それではお願いします」

 マキは工藤の受けごたえにすっきりして電話を切った。牛島は成一からの注文であるボトルを製作していた。製作しながらレストランのことを考えているのだろう。柱を作る正方形の厚いガラス板をスタッフに造るよう指示していた。牛島もだんだんとインドネシア語を話しつつある。


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