第6話 上昇

六 上昇


 工藤成一が主になって行うバリ島での事業は順調だった。雑貨店、大型エステティックサロン、そして成一のBBTは対葉豆の大型ヒットで安定した。それでもお金は次々と出て行く。娘の奈緒子は大学に進学した。息子の隆は伊勢の高校に進学した。

 上山は毎日のように為替レートを気にしている。そして成一と話すのが楽しいらしく、毎日誘いの電話があり、喫茶店に行ったり、夜の食事に付き合ったりした。慎重に、慎重にというのが上山の性格であり、一人で事を起こすことがなく、リスクも半分にして臨む男だった。

 上山は成一の知識を羨んだ。上山の頭脳は明晰であったが、一介の不動産屋で終わろうと思っていない節があった。おそらくコンプレックスがあったのかもしれない。こよなく女性を愛した。そして「わしはいずれ女房に殺される」などと漏らすのであった。

 上山の奥さんは上山が躁うつ病であることを知っていた。怒りの表情で彼女が上山の目を見ると、両者とも同じ脳の部分がきっと反応しているのだろうと成一は思う。つまり人間の脳は伝染するにちがいないと上山の話を聞き、奥さんの話を聞くと思うのだった。

 成一に言わせれば、二人は成一には及ばない頭の回転力を持っていた。

 上山が自慢話をすると、奥さんは「耳にハエが入ってブンブンなっとる」と言う。滑稽であるが、上山の躁的な状態をそんな比喩で嗜めるのだった。

 奥さんとしてみれば成一と仲良く付き合うようになって躁的な状態に拍車がかかっているように思えたのだった。

 ある日、食事処で刺身をつまみながら、上山と成一は話に盛り上がっていた。歴史の話。女の話。

「わしは病気で入院なんてできんのや。あれは絶対介護なんかしてくれん。放っておかれる。死ね、死ね、と思とる」

 成一は笑いながら受け流すが、上山は真面目な顔して「ホンマやんな」と言う。

「上山さんがそんな思いで脳を働かせておくと、奥さんも同じ場所が働くのはサーモグラフィーでわかるんやで」

「そうかな。わしは毎日自律神経訓練法をやっとる。一時間はする。ヨーグルトみたいなのが溢れてきて身体の隅々までしたたり落ちていくイメージなんさ」

「自律神経には二種あって、ひとつは元気はつらつの交感神経。もうひとつは癒しの副交感神経。それがシーソーのようにギッコンバッタンと働いとる。内臓や白血球も知らんうちに自律神経に支配されとると聞くで」

「そうさ。それでわしは自律神経を調整しとるんや。わしには糖尿病もあるんや」

「贅沢病っていわれるけどな」

「贅沢はしとらんつもりやけどな。あれが恐ろしのとあれと飯食べると飯がまずいんや。外食が多なる」

 そんな話から、面白い話まで、酒の席でする。

「これ、上山さん。こんな案内状が来てな。能と狂言の案内なんや。こんなんゆったりした気分で見てみたいもんや。この前な、世阿弥という能を完成させた人が書いた『花伝書』という本を読んだんや。そこに『花はありて、年寄 と見ゆる公案、くはしく習うべし。ただ老木に花の咲かんがごとし』という言葉があってな。 『時分の花』と『まことの花』を分けて考えとるんさ。若い生命が持つ花。これは誰もが通過する。ところがな、『まことの花』という考え、ここが微妙なとこなんやけどな、自分という木の全体が枯れていくとしても、そこでひそやかに咲き続けている花。自分だけが持つ本質的な花があるというんさ。花がある、というのはええもんやなあ」

 成一がそんなことを言うと、

「工藤さん、あんたに百万円やろ。これ本気やで。それで能を見に行って来い。明日金持ってくで」

 成一はポカンとして、酒の席だからと明日になれば上山の言ったことは忘れているだろうと思った。だから、「あはは、冗談を」と言ってそのことに期待も何もなかった。

 話を続けた。

「これ、室町時代の初期の人やで。人間の有り様を言い当てとると思うわ。芸事の話なんやろけど、ぼくは能なんてやってことないから、文学のように読んだわ」

「あんたえらいなあ。借金で窮しとるのに、そんな本を読んどるとはな」

「嫌味に聞こえるけどな」

「いやいや嫌味らあじゃないで。あんたと飲む酒は楽しい。勉強にもなる」

 翌日の午前中、上山は本当に百万円持ってやってきた。

 おかげで、成一夫婦は京都までその能を観に行ったのだった。途中で居眠りをしてしまうのであるが、目を覚ますと写真のように舞台と舞い手が目に飛び込んでくる。瞬間、瞬間が目に焼き付く。能楽堂は異次元の世界であった。幽玄とはこんな雰囲気を言うのだろうかと思うが、成一は舞う人の歩き方や鼓を打つ人の姿勢に関心を寄せた。美しい姿勢でなければ幽玄さえも表現できないのではないか。

 しばらく経って、上山に、「どうして百万円くれたのか」と率直に訊いてみた。

「あんたへの憐れみじゃないで。わしはな、ケチなんや。そのケチの自分が好きじゃないんや。あの時な、ポンとお金を出してやりたかったんや。そんなん初めてや。なんにも考えんとポンとな。そういうこと一回してみたかったんや」

 なるほど、と成一は納得した。現実的には百万円は助かる。


 上山と上山の息子雅彦と話し合っているときに、成一はかねてからやってみたかったレストランの提案をした。ウエヤーマの中にBBTの本部がある、その隣にホテルがあって、そのホテルの右一棟の一回部分を借り受け、エステサロンがある。このホテルにはレギャン通りに面した、昔やっていたレストランのスペースが二階にあった。成一の常宿であり、ここのオーナーや息子たちともすっかり親しくなっていた。

 三人で資金を出し合って、百席ほどのレストランを作ることが決定した。しかし、問題が残る。二階のレストランは不利である。


 バリ島に行くと、様々なことを知る。イダにいちいち何か、何のためかと理由を訊く。

 村と村との境界に割れ門がある。普通だったら入口と解釈すればいいのだが、日本にはそのようなものはないから、なぜそんな割れ門を作るのだと訊く。イダは、その門はハーモニーを表しているんだ、と答える。調和。善と悪の調和。人と人の調和。

 イダ・バグス・スパルサは成一の右腕となっている。ところが成一がバリ島にいない間に黙って結婚していた。イダ・アユであった。

 イダの中にこだわりがあったのだろう。旧カースト制ではイダ・バグスはイダ・アユを見つけなければならなかった。戦後廃止されたカースト制は未だイダの中に残っている。イダは旧首都のシガラジャで生まれて育った。長男であった。弟が一人いる。その長男であるイダが新首都のデンパサールのイダ・アユとの縁談に応じた。イダ・アユは小学校の教師をしていた。最高僧侶であるプダンダになる勉強もしていた。そのイダ・アユは一人娘だったからイダがイダ・アユの家に住むことになったらしい。

「養子になったということかい」

「うん?ようし? 」

「そう。イダ・アユの家に戸籍を移して、イダ・アユの親の子になること」

「コセキ?」

「そう。戸籍というのは結婚して夫婦になると新しい家族の戸籍簿が作られる。結婚すると日本では女性は普通男の家の姓を名のり、男の家の一員となるんだ。男が女の家に入るということもある。これが養子だよ」

「バリにはそんな制度はありません。ファミリーネームというのがないから。私の場合はどうなんでしょう」

「じゃあ、誰が奥さんの家の財産を相続するの? 」

「うちの場合は私の妻です。当然です」

 時々、デンパサールのイダの家に寄ることがあるが、そこでは豚が飼われていた。普通なのだそうだ。大きくなると売る。副収入になるそうだ。

 イダの家でコーヒーをいただいて、イダの義父とイダと三人で話していたときに、

「そう言えば、クドウさん、膵臓が悪いって言っていましたね」

 と成一に行って、バリ語で義父となにやら話し始めた。

「お義父さんが、予約の確認をしますので、まだ予約できそうだったら、バリアンに行きましょう」

 バリアン。雑貨店の「ウエヤーマ」でちょっとした現金の盗難事件があった。犯人を見つけなければまた起きるかもしれないと思った成一は盗難事件が起こったことをスタッフ全員に告げた。成一は犯人捜しをする勢いだった。するとイダが、

「クドウさん、バリアンに私が行ってきますから」

 と全員がいる中で提案した。あとで、その真意を訊くと、

「バリアンに行くとみんなの前で言うと盗んだ犯人も震え上がってしまいます。二度としないでしょう。虫になって生まれ変わりたくないでしょうからね」

 ああ、そういうことか。輪廻転生はそういう風にも使われるのだった。積極的に犯人捜しはせず、盗ったもののこころに任せる。以後、盗難は一度も起こらなかった。そんな事情もあり、占いを一切信じていない成一はイダの義父の強い勧めもあって、夕方の八時に予約を取ってくれた。イダの義父はお供え物も用意してくれ、成一はなんとなく、せっかく誘ってくれるのだからと期待するでもなく、バリアンを一度見てみたいくらいの好奇心でキンタマーニ山近くのバリアンの家に向かった。スハルト元大統領がこのバリアンを尊崇しているということだった。だからそこまでの良い道路はスハルト元大統領によって作られたということだった。

 成一の体重は五十八キロまで落ちていた。一七三センチ身長からすると痩せていると思える。体重減少は慢性膵臓炎と診断されてから食事に気をつけるようにしてから始まった。

 車で二時間ほど走っただろうか。バリアンの家の玄関は普通の民家と変わらず、門扉があり、その中に入っていくと、広い庭と屋根だけがあって、壁のない広いガゼボであった。そこで静かに人は順番が来るのを待っている。イダに促されて、お供えを前方にある棕櫚でできた塔の前に置いた。作法がわからないので、手を合わせた。待合室に雑誌があるわけでもなくテレビがあるわけでもない。ただ黙って待つのである。その光景は今の日本ではすでにないものであった。

 バリアンと向い合う時がきた。イダは成一が慢性膵炎であることを告げてくれた。バリアンは黒毛に白い物が混じっているが、まだ五十代のように見えた。愛想笑いをするのでもない。威張っている風にも見えなかった。するとバリアンはマントラのようなものを唱え始めた。それが終わると、画用紙のようなものを取り出し、

「あなたの家の門は鉄でできている」と言って、家の位置を素早く描いた。成一はこれにはびっくりした。成一の家の門はアコーディオンのような鉄の動く柵だった。家をペンで指し、「この方向に鉄と関係した女性があなたを恨んでいる女性がいる。その女性はカーリーヘアをしている。こころあたりはないか」とバリアンが成一に尋ねた。

 初め、素材の鉄と関係しているとばかり成一は思って、記憶をたどったが、心当たりはなかったが、「五鉄」という魚屋の名前が浮かんだ。その方向に「五鉄」の店があった。そして五鉄の家族の住まいは成一の家の隣にあった。カーリーヘア。ああ、あの奥さんか。

 七、八年前に、成一の敷地と五鉄の敷地の境目に樹木の垣根をしていた。その垣根から虫が入ってくるという苦情をその奥さんの妹から聞かされた。成一の家は前に広い庭があった。五鉄の家は成一の庭の部分に居間があり、必ず、居間にいる家族が目に入るのだった。

 虫が入ってきて迷惑をしていると聞いたので、成一は百万円ばかりで、垣根を取り払い、高いブロック塀を作った。五鉄の居間がすっかり見えなくなるまで積み上げて、左官屋さんがまだ積むのかというところを成一はまだ積む、虫が入れないまで積む、と言って工事を続けていた。そこへ、カーリーヘアの奥さんが、もうこれ以上は止めてほしいと嘆願してきた。東からの陽がその居間には当たらなくなったと思う。

 成一は、「こころ当たりがある」と答えた。バリアンはさらに別の方向をペンで指し、

「あなたは小さい頃、ここで」と言ってペンを止め、「ここで、間違った呪いをしている」  

 と言った。成一は、あっと思った。「びわこや」。ここはびわこやだ。母に連れられて、寝小便をするのでと女性の祈祷師になにやら呪いをしてもらったのを覚えている。布地を売っていた女性はいつの間にか、祈祷師になっていたことをはっきり覚えている。弁の立つ人であった。

「この呪いが間違っている」

 イダの通訳で、

「恨みと間違った呪いは消すことができるのでしょうか」

「できる。来週の土曜日、それを浄化するから、来なさい」

 と言った。

 その日はそれでお布施をして帰った。それにしても不思議な話だった。門の鉄は当たった。それと関連付けた「五鉄の恨み」に論理性はない。「恨んでいる」というのも本当のことだろうか。成一は確かに大きく自慢話をする気の強い五鉄の奥さんを感じの良い人だとは思ってはいなかった。五鉄の娘たちを成一は勉強を教えたこともある。

「恨んでいる・・・」

 もしそうならどうすればいいのだろう。ブロック塀を作ったことを謝り、撤去すればいいのだろうか。バリアンに誘導されていくように、その恨みのことを考えた。

 そして土曜日が来た。

 上半身の衣類を脱ぎ、サルンを巻き、頭にはウダンを巻かされた。額には水で濡れた米粒を付けられた。バリアンがマントラを唱え、イダの指示に従って、手のひらを両手で器のようにすると、バリアンは聖水を入れた。それを成一は飲み干した。すると草の葉っぱのようなものをバリアンは手のひらに入れ、それも食べろと言う。頭にも、上半身にも聖水が撒かれた。恨みと偽の呪いを解く儀式はこうして終わった。こんなことで慢性膵炎が治るかと思ったのだった。


 成一はレストラン立ち上げの準備でバリ島に来ていた。いよいよここが正念場だと思っている。二階という不利な条件。ここに客を寄せるにはどうすればよいか。事務所でも、ホテルの部屋でも考えた。何か特別な階段。昇ってみたくなる階段ができればいいのではないか。レストランの名前は決まっていた。「グラン・ブルー」。かつて見て感動した映画だった。主人公たちは寡黙にどれだけ潜水の距離を伸ばせるのか闘っていた。その全体の映像と海。そして生物の誕生の場所のようなところに潜り続けて消えてしまうエンディング。何度も見た。

 ウエヤマにいるとき、日本人のミコさんという両替屋さんが現れた。外見はバリ人である。肌も茶色くなっている。生意気な物言いをするが人が好さそうだった。ミコさんは両替する必要はないか、というのである。成一はいつもクタセンターで両替するのであるが、面倒なことでもあった。両替はお願いすることにして、次回は最低でも一千万円を両替するので、と告げると、ミコさんは大喜びで興奮した。この頃は飛行機内に一千万円を持ち込んでも別にどうってことはなかったのである。

 そのミコさんから牛島誠というガラス工芸家がバリ島に住んでいると聞いた。その牛島誠はバリガラスというものを作って、面白いガラス瓶などを作っていると言う。

「なんでも国際ガラス工芸展で優勝しているそうよ」

 ミコさんはすっかりバリ人の色をしている。

「両替屋するにも資格というか認可みたいなものが要るんだろ」

「もちろん。潜りも多いけどね。うちはスミニャックに店があるの」

「エステサロンのオイル瓶やオイル取り皿なんか注文すれば牛島さんは作ってくれるのかな」

「工房があるから行ってみたら。バダンパイよ」

 彼女は牛島とも取引しているのだろう。電話番号を教えてくれた。


 オカとコンピャンを連れてバダンパイに向かった。砂利浜が続き、ハイビスカスの種類で、海辺に咲くという黄色いワルーの花が群れている。この花を擦って、頭に刷り込むと禿にならないのだ、とオカは言う。そう言えばバリ島で頭の禿げた男をほとんど見ていないと成一は思った。海辺の近くに牛島の工房があった。かなり大掛かりな工房だった。

 背が高く、一重で小さい目をした女性が出迎えてくれた。小さな目を大きく見開いて、にっこりと笑った。


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