第5話 ワルン

五 ワルン

 マキは牛島のガラス工房で働いている。働きながらバリ語を学習している。自分は外国人だからどの階級の言葉使いをすればいいのだろうと厄介に思うので、聞き取りさえできればよいと考えるようになった。ブラマナ (聖職者・司祭階級)、カサトリア (王族 ・ 武人)、ウェシア (貴族 ・ 商人) スードラ (平民)との関係で使い分けるのはマキのような立場ではできなかった。ガラス工芸に特に関心はなかった。牛島は自称芸術家であった。現にホテルのロビーなどに飾る大きなガラスは擦りガラスにしてある種の花びらのように開いて存在感を誇示した。マキは事務的な仕事を主にしていたが、時に、発注先に牛島やその弟子たちとトラックで運んで、ホテルロビーとの釣り合いを見ることがある。それは素晴らしいものであった。小物である瓶を作っても日本で見るどんな瓶よりも人のこころを掴むほどにセンスと工夫があり、正統な造形物があるとしたら、牛島はそれをわざと崩し、歪めたりして、釣り針のように見る者のこころを引っ掛けるものがあった。同じものと思えるものでもよく見ると違っている。さすがに国際コンクールで優勝したガラスの芸術家であった。

 牛島は作品作りに集中しているから、マキも気楽である。こんなに気楽でいいのだろうかというくらい気楽である。

 バリ人の悠長さにもすでに慣れていて楽なもんである。

「牛島さんから言われているからね。これ今日中に仕上げておいてよ」

「うん」

 仕上がっていなくてもきちんと定時には帰る。だから注文を受けても遅れることを計算して納期を決める。タクシーに乗って、ジンバランのジェンガラまでと言っても、「わかった」という。実はジェンガラ(陶器店のことだ)の場所を知らない。とりあえず、「わかった」と言い、とりあえず、ジンバランの方へ行く。おかしいなあ、道が違っているんじゃないの、と言えば、「わかった」と言う。戻って別の道に行く。それも違うんじゃないの、と言うと、「わかった」と言って、また別の道を行こうとする。そして最後に道端の人に訊く。可笑しくて笑ってしまう。怒る気にならない。あたしも、バリ人みたいになっているんじゃないのかしら、と思う時がある。


 夕方、数軒しかない村に戻ると七時になれば闇となる。星々は輝いている。月の光だけが闇の色を調節している。

 裸電球が一個あるだけの壁のない部屋である。簾はある。快適とはいかないが、不便はない。トイレは外にある。お尻を水と左手できれいにすることに慣れるまで時間がかかった。ついつい左手の匂いをクンクン嗅いでしまう。最初の頃は石鹸で洗っていたが、それもしなくなった。水で洗えばいいのだ。日本人はトイレットペーパーでお尻を拭く。それの方が汚いと今では思う。糞をつけて歩いているようなものだ。

 食事は三回とも仕事場と住まいの途中にあるワルンで食べる。コーヒーもそこで飲む。


ワルンは万屋(よろずや)だ。何でも売っている。菓子・果物・煙草・石鹸。そして食堂でもあり喫茶店でもある。マキはここに毎日行く。欠かさず行く。朝・昼・夕と三回は行く。毎日欠かさず行くところなんてこことトイレくらいのもんだ。

ここのオバが侮れない。毎日来る常連客のコーヒーの好みを覚えない。覚える気などない。さらさらない。

だから毎朝「砂糖は入れずにミルク(これがまたコンデンスミルク)は少ォ~しね」と注文する。いちいち言う。そして毎日「砂糖は大量・ミルクは入れ忘れる。

文句を言うと「まぁ、この子は細かいこと言うねぇ。だったら自分で作んな」と職務を放りなげる。だから毎朝自分で作ったコーヒーを飲む。

その変に置いてある剥き出しの菓子に手を伸ばす。何だかところどころ青い毛の水玉模様になっている。

「やめときぃ。それ二日前のだよ。よく見てごらんよ、カビが生えてんでしょ。何でもよく見なきゃだめだよ」

んなもん置いとくな。 それでは・・・と果物に手を伸ばす。

「あれま この子は・・・朝から果物なんて食べるもんじゃないよ」

 んでは・・・とまずいチョコレートもどきを・・・。

「虫歯になるんだからね! 」


昼。

弁当を買いに出向く。昼時は忙しい。オバは一人で店を切り盛りしている。

皿に盛った飯を差し出す。条件反射で受け取る。

オバにまとわりつく飼い犬を足で蹴りながらあごで向こうに座っている客を指す。

だからマキが運ぶ。戻る途中テーブルの上にあるピーナツをひとつかみガメる。

ナマケモノなのか向上心がないのか他のモノは料理できないのかおかずは毎日同じ。

そして「また、食材が値上がりしたんだよ。今日から値上がりするからね」と毎日言う。

でも値段も量も毎日同じ。言ってみるだけ。でもたまに量をけちる。朝、あの後つくったらしい甘い生菓子をおまけに入れてくれる。ご飯の上におかずと一緒に乗せてくれる。

どうだ、とばかりニカッと笑う。マキの足を踏んでいる。


夕方。

夕涼みに行く。氷水を注文する。

「甘くしないでね」

「甘くない氷水はおいしくないから甘いのにしなさい」という。

器の半分程もシロップを入れる。

アリが二、三匹浮かんだピンク色の毒々しい氷水が出てくる。

「オバ、アリが入ってるよ」

「まぁ、この子は。 何でも口に入れる前によく見なきゃだめだよ」

あんたがよく見ろ。

「氷追加してよ。 溶けちゃったよ」

「冷たいものは体によくないんだよ。 冷えて後で骨が痛くなるんだからね」

払う。

コーヒーを自分で作ろうが、ウェートレスをさせられようが、注文を却下されようが、アリ入りの氷水を出されようが払う。毎日値段が違う。だから毎日聞く。いちいち聞く。

「・・・と昼のピーナッツ一掴み分ね」と手を差し出す。あなどれない。

「ねぇ、あんたのその髪飾り好きなんだよぉ。 あたしゃ一つも持ってないんだよぉ。ちょーだいよぉぅ」

毎日言う。甘えた声で言う。

「わかった、わかった。明日ね」

毎日そう答える。

ワルンを後に歩き出した背後からオバは叫ぶ。毎日叫ぶ。

「こらぁ~っ、早食いは良くないんだからね! お腹痛くなるんだからねっ! 何でもよぉく噛んでゆっくり食べるんだよ!それとねっ、明日から値上げするからね! 」

オバ、また明日ね。


 こんな調子である。マキはしょうがねえな、と思いながら、この二年半を過ごしてきたが、もう慣れてしまっている。

 お金のなさそうな女。バリに批判的でない女。なんだかひとりぽっちな女と見られているようだ。


 仕事場で牛島は、出来上がった作品(作品とよばなければならないのだ)をマキに見せる。

「どうだい?」

 擦りガラスの表面は白っぽいが奥からは薄緑色が浮き出ている。聖火台のようでもあるが、違う。大型花瓶のようなものなの、と思って、

「これは花瓶ですか」

 と訊くと、

「なんでもいいんだ」

 とムッとした顔をする。なんでムッとするの。ああ、そうか、芸術なんだった。どうとらえようといいんだった。失敬!

 こんな大きな作品の注文は滅多にないので、牛島は、皿だの、コップだのも作る。生きていくためにはしょうがない。それでも都はるみの演歌が独特のはるみ節のように、牛島節がある。牛島のグラスでアラックを飲むととても美味しい。口当たりがよいのか、薄緑色の透明感がいいのかわからない。

 注文を聞いて、それを伝えて、毎日の経費や入金を帳簿に書き入れる。通訳をすることもある。給料の計算もする。大将は牛島である。すべては牛島が決める。コップの注文が多いと牛島はムッとする。ときどき、ひにくれて、そんなのお断りだ、と怒る。マキに怒ったってしかないのに。しぶしぶ作る。それでも牛島節が入っている。ひとつとして同じものがない。

 牛島は村落共同体の儀式には出席しない。マキが行く。バリの伝統衣装クバヤも様になってきた。

 時に牛島と長話をし、牛島の知識や考え方の一片も知った。

「頭で考えるんじゃないんだ。手だ。手で考えるんだ。手が勝手に動いてしまう。そこまで行くには毎日、毎日作り続けることが必要なんだ」

 実感がないけれど、作るというのはそういうことなのかしら、とマキは記憶に収めた。

「日本ではガラス工芸家が多すぎて、しかも経済が停滞している。バブルが弾けて以降、ぼくらが作るようなものは売れなくなったんだ。絵画もそう。陶芸もそう。要らない物だと言えばそうだからね。絶対に必要なものじゃない。ぼくらは消費の動向で運命も決まってしまう。その点、バリ島はサービス産業の島だ。工房さえあればいくらでも作れるからね」

「聞いたことがあるんだけど、靴メーカーの社員がアフリカに視察に行って、アフリカでは靴を履いてないから売れません、と報告するのと、靴を履いていないから巨大なマーケットがあります、と報告するのとでは会社のその後が違ってきますよね。ネガティブとポジティブと言ってもいいのかしら。牛島さんはきっと後者の判断をして実行する人なんですね」 

「マキちゃんは靴の話をしたけどね、アメリカのニューイングランドに池の氷を熱帯のキューバに持っていったら売れるんじゃないか、と知恵を絞って持っていった男がいるんだ。名前は忘れちゃったなあ。資本を導入してね。キューバに早々と代理店も作ってね。ところが氷を知らないキューバの人々は見向きもしなかった。彼は倒産もしたけど、粘りに粘って、ついに氷が長持ちする方法も考えついて、とうとう氷というものの実用性をわからせ、中南米やインドにまで運ぶようになった。そういう人っているんだね」

「わたしなんか、ちょっと先のことが読めてしまうと尻込みしてしまう。牛島さんはバイタリティーがありますよ」

 牛島は穏やかな時もあった。だが、仕事中にバリのスタッフにイライラし、罵倒することもあった。そしてバリ人スタッフについて愚痴をこぼすこともあった。どこかで下に見ているところがあった。 

芸術家ってそんなものなのかしら。

安穏とした生活が一変したのは牛島の奥さんが来てからであった。牛島が大将だったのが奥さんに代わりつつある。面倒なことだった。それに奥さんは几帳面でもあった。凡庸な振りをしてそのくせ神経質だった。マキの仕事も奪われていった。どうするかな、とマキは思った。

ハイビスカスは毎日咲いていた。ブーゲンビリヤも咲き狂ったようである。海辺には黄色いワルーの花が咲いている。

 すると男が欲しくなった。何かこころの芯が燃え始めている。危ない衝動がある。

 そんなときに工藤成一が現れた。そしてニューヨークでは飛行機が高層ビルに突っ込んだ。


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