第4話 疾走

四 疾走


 工藤成一は日本に戻るとすぐに裁判が待っていた。一億円の支払い請求訴訟に成一は損害補償で逆に訴訟を起こし、受けて立った。印刷会社との裁判である。すでに二年目に入っている。パソコン編集が導入された初期だった。印刷会社はゲラ刷りを持ってきて、社員で校正のチェックを入れる。本当ならば、チェックした部分だけが正しく直っておればよかった。それが不思議なことにミスのところは訂正されているが、違うところにミスが出ていた。それを何度繰り返し、最終の決定を経て、テキストになったものが、正しいデータではなく、校正を重ねている最中のデータで印刷されていた。コンピュータ導入の初期によく起こった事故だとあとでわかった。この裁判も鬱陶しかった。

他に金策が必要だった。とりあえず、クレジットカードで自転車操業的なやりくりすると、翌月には分割分返済しなければならない。成一が四カード。妻が二カード持っていた。 

成一は別に持っていた家を売り、それを債務の返済に充てたが、契約書に書かれる金額を少し低くし、裏金でもらうというズルまでして生活費の確保を図った。著作権が売れることもあった。蔵書を売る。収集していた切手を売る。二台のうちの一台の大型車を売る。これまで集めたCDはフリーマーケットで売った。

 しばらくは生き延びることはできると思うと気持ちが軽くなる。

 最後の株主総会には一部の株主も来ていたが、来ない人たちもいた。手続きはちゃんとして、報告をきちんと行った。しかしながら、株主の中には工藤にお金を騙し取られたと言う人もいるという噂も聞こえてくる。ざまあみろ、という声も聞こえてきそうな気がする。成一の成功をやっかむ者もいたことが、失敗することになってわかった。それほど注目されていたのかもしれない。テレビや新聞や雑誌にもよく出た。データの圧縮技術。テープやCDの言語を自動的に四階層に分けていく。そんな初めてのCDを成一はスキップディスクと呼び、SDと呼んだ。これで言語学習の革命が起こるはずだった。また音楽の試聴盤を一枚に何千曲と入るはずだった。中小企業庁はこの技術を「新技術創造法」で支援した。大手の生命保険会社、銀行、県の産業支援公社も株主となった。それが躓いた時、金融自由化の嵐の中で、銀行は結局梯子を外した。

 月に一度大口債権者への状況報告と話し合いがある。ワラント債を引き受けた生保五社との話し合いがある。生保も合併が始まっていた。

 成一は気持ちの楽なときでも、憂鬱なときでも本を読んで暮らした。ひっそりと生きた。

 子供たちの進学も控えていた。娘は大学受験がある。息子は高校進学がある。そのお金も用意しなければならなかった。

 税務署からは電話がかかる。面談の申し込みがある。年金事務所からも面談の申し出が来てはそれに対応する。

 成一の周りにいた人たちは去って行った。ただ塾や外国人教師の派遣事業などは従業員たちが引き継いでくれたのが救いでもあった。しかし五十人くらいいた従業員のうち、どうしても雇いきれない人達が数人いた。その中には独立した者もいるし、最後の最後、成一が新規の事業を立ち上げるのを待つ社員もいた。

 津波の海水が低いところを目指してどこにでも入り込んでくる。隙間さえあれば海水は生き物のように入り込んでくる。そのひたひたと寄せてくる水がいつになったら終わるのか。次々と債務に関することが生活に入り込んでくる。

 ただ子供たちは陽気に、妻の祥子もあたふたすることもなかったのには救われる。パニックを起こす気質の妻だったら、さらに状況は悲惨なものになっていただろう。

バリ島から帰国してから二週間ほど経ったある日、ホルモン焼きをして食べたあと胃が痛んだ。その痛みは胃薬を飲んでも効かず、夜中になっても治まらず、これは病院行だと成一は思った。

 翌日、近くの病院に行くと、「慢性膵炎やな」と診断された。それに「高脂血症やな」とも診断された。成一は慌てた。慢性膵炎や高脂血症の知識がない。聞いたこともなかった。

「膵臓が悪いと胃が痛むように感じるんや」と医師は言う。また、食事療法しかない、という。高脂血症のための薬をもらって、すぐに書店に行って本を買った。慢性膵炎は不治の病、とあった。脂っこい食事は控える。医師が診断したものだから信じる他なかった。別の病院に行ってみようかとも思わなかった。食べる物は和食一辺倒となった。体重は減って行った。二週間に一度病院に通うことになった。成一はこれには驚いたが、ストレスも溜まっていたのだろうと思うと納得した。慢性膵炎と付き合うか、と成一らしい楽天的な性格はここでも発揮された。

 株主の一人が家を新築する計画らしく、成一は自宅を貸すことにした。家賃が入ってくる。競売にかかるまでまだ相当の日数があるはずだ。あるいは買いたい人も現れるかもしれない。成一の家族はもうひとつの町中にあって外国人社員の寮にしていた家に引っ越した。五万円という家賃はありがたかった。

 

 成一は倉庫からCDプレイヤーを探しだし、軽いものだったので二十台を航空便で送った。航空便であれば、来週には着くはずだった。様子を見てさらに二十台と送る予定にした。ホームページ「あれこれバリ島、発見・発掘」も製作に取り掛かっていた。ひと月もすれば完成することだろう。

会社設立のための書類とインドネシア在留許可証と労働ビザ取得のための書類を準備した。食事後、三時間ほど経ってから胃の辺りがシクシク痛む。食べるのを少量にすると、痛みもなかった。

オカからメールが入った。インターネットカフェのパソコンを使ったのだろう。パソコンもいずれ必要になるかと思った。イダは中古車のミニバンを探したらしかった。CDは来週にも出来上がるということだった。ランダの持っている植物は、学名をカシア・アラタ。英語ではゴールデンキャンドル。中国語では対葉豆ということだった。日本で成一はオカの情報を元に厚生省のホームページを検索すると、センナのような薬物指定ではなく、それ以外の植物で、輸入は可能だった。成一は次回のバリ島出張では二週間の予定を立てた。チケットを手配した。

ン・グラライ空港の出口にはイダが迎えに来ていた。むっと湿気がした。ミニバンがあった。この車で、二週間、徹底してホテル側を説得しようと成一は張り切った。少なくともバリ島にいる限り、面倒なことはない。

イメージ通りのCDが出来上がっていた。記念すべきバリ島で初めて登場する音楽CDである。

 オカがアポイントを取り、予定を立てる。イダが運転しホテルに向かう。ホテルのドラッグストアはホテルが直営でやっているところがほとんどだった。大型ホテルにはCDプレイヤーも持って行った。フロントのカウンターで音楽を流してほしいと提案した。すぐに木彫りのCDスタンドがあればいいと思うと、オカに連絡して、オカが手配した。バロンと人の足、亀の三種がサンプルで持ち込まれた。そのCDスタンドに出来上がったCDを置く。CDスタンドが欲しい客がいればそれも売ろうと成一は思った。

 百のホテルに販売の窓口ができたら、それは結構な商売になる。

 二週間は車に乗りっぱなしであった。オカとイダは日曜日も返上して、成一のいる間は仕事に集中してくれた。オダランという寺院の祝祭や冠婚葬祭もあったかもしれないが、成一はバリ島の事情は知らず、イダもオカも言わなかった。

 二週間で四十のホテルがCDを売ってくれることになった。バリ島のホテルのドラッグストアの担当者は日本人をぞんざいにあしらうことはしなかった。初めから「こんなもの売れるのかい」と否定的な担当者はほとんどいなかった。フォーシーズンでも、グランド・ハイアットでもスムースに交渉は進んだ。オカの事前の電話交渉でダメなところは初めからわかっていたことが無駄を省いてくれた。

「空港でも売ろうよ」

「町中の免税店でも売ろうよ」

 オカは積極的に成一が会えるように確実に手配した。

 元バリ政府の役人だったというチャンドラさんという男をイダが紹介してくれた。外国人法人や在留許可証等の手続をしてくれる人である。事務所らしきものは持っていないようだった。手続きは彼にまかせた。

「ぼくは明日帰るからこの営業を二人で続けてやってくれ。今度来るときはもう外国法人だ。堂々とやれる。イダは当面、経理もやってほしい」

「この木彫りを見てください」

 オカはバロンとランダ、ガルーダ三種の木彫りを成一に見せた。

「もっと小さく。裏面は平。ここにマグネットをつける」

「これ以上小さいのは作ったことがないというけれど」

「できるよ。あと一センチ小さくするばいいんだ。あと三センチも小さくできれば別の商品もできる。バッグに魔除けの飾りにするとかね。車にぶら下げるとかね。ホテルでは喜ぶはずだ。日本人は小さい物を喜ぶからね。マグネットのサンプルを渡しただろ。どうだった?」

「マグネットは手に入ります。仕入れ先がわかりました」

 オカも張り切っている。

 車の中ではイダがバリ島の精神的なことを多く語った。彼はそんな話が好きなのだ。敬虔なバリ・ヒンズーの教徒である。元僧侶階級だからそうなのか、イダはよく知っていた。  

「輪廻転生がある。豚になって転生はしたくない。虫になっても爬虫類になっても嫌だ。だから現世では悪いことはしない」

 イダがそう言うと、成一は「それは日本ではバチが当たる、っていうんだ。それでイダは輪廻転生を信じているのかい」

 イダは「当然です。うまくこの現世を生きることができたら、何世代かあとに私は生まれ変わってこの世に現れます」

「それはあくまで現実の楽しさ、苦しさの中で、善き生き方を奨励する方便みたいなものだろう。輪廻転生があって、虫になって生まれ変わりたくなければ、ちゃんと悪させずに生きろ、ということなんじゃないのか」

「当然、それもあるでしょう。前世のことを記憶している子供もいます」

「えっ、そうなの」

 こんな話をしながら車中は楽しく呑気なものだ。海岸沿いを走っていたらあたりはこれまで見たこともない紫色の空で染まっている。紫色に樹々のシルエットがある。どうしたらこんな空になるのだろう。

 家族でバリ島に移住、単身でバリ島に移住という考えは浮かばなかった。あくまで日本で暮らす。尾鷲には美味しいイワシやカレイ、エビ、カツオやメイチ鯛があった。磯の貝もあった。四季それぞれに旬の食べ物があった。これを手放すのは惜しく、成一にはできなかった。

 成一は乾燥した対葉豆をイダからもらい、これを持って、日本に帰った。

 この滞在から毎日、「ぼくのバリ日記」をバリに滞在するたびに書くことを始めた。記録としても役立つだろう。自分の有り様もわかることになるだろう。バリ島を訪れる人の役にも立つかもしれない。成一は帰国した。

 

 いずれは競売されるかもしれない自社ビルに成一は毎日通った。すると、証券会社の役員と部下の三人が成一の様子伺いに来た。わざわざ名古屋から来たのだから、これはどのような偶然なのだろう。その真意を聞いても、どうしてるのかなと思って、というだけであった。そしてまた、何かお手伝いできることはないか、とも言うのだった。スーツを着て、礼儀正しい人たちだった。

「対葉豆っていうんですけどね。これ、バリ島に湿地帯に自生しているんですよ。バリの人たちは解毒に使うっていうんですけどね」

 成一はイダが乾燥して渡してくれた対葉豆の葉を見せた。役員の浅田の目が輝いた。社員はメモを取る。ランダという悪の化身がこれを持って闘う劇の話もした。

「岐阜県に株式の上場を予定している会社があるんですよ。化粧品の原料を作る会社でしてね。その会社に分析を依頼しましょうか。その代わりってなんですが、これがこれまでにないもので、その会社が原料としてエキスにしたいとなったら、その会社に権利をあげてくれませんか。そういう条件ならやってくれると思いますな」

 文句があるはずはなかった。

「ぼくの方が輸出業者になればいいわけですからね。お願いしますよ。浅田さん」

 浅田さんは早速段取りをつけてくれた。

 成一は岐阜県のA社に浅田さんらと訪問した。社長らスタッフ一同で出迎えてくれた。久しぶりに仕事をしに来たという感覚がした。

 岐阜県のA社は、この植物の抗酸化度とか、解毒の作用、アトピー性皮膚炎の作用などを中心に分析する方針のようだった。そしてこの植物を扱っている化粧品原料供給の会社は日本にはないということだった。研究員もてきぱきとしていた。浅田の会社が幹事となって株式上場の支援をしている。ここで、面白いものでも出て来たら、会社の価値も上がる。結果は一ヶ月後にはでるので報告するということだった。

 アトピー性皮膚炎という言葉が出た時。事務員でまだ残っている女性がアトピーで悩んでいることを思い起こした。膝の裏が黒ずんでいるのを成一は知っていた。アトピーにいい物がでればとA社は思っているのだろう。

 残務の仕事をやっているだけで忙しくもない。その女性にこの葉っぱを煮て、膝の裏に塗ってみてくれないか、と頼むと、快く引き受けてくれた。気持ち悪い、などと言わない女性だった。彼女はお茶のようにして自ら飲んでも見た。それを一ヶ月続けよう、ということになった。

 また裁判の打ち合わせがあり、また債権者との面談があった。相変わらず同じ返事をするだけだった。七十三キロあった体重が今は六十五キロまで減っていた。食べる制限をしているからなのだろう。衣類が合わなくなった。ズボンなどは買わなければならなかった。このお金さえ惜しんだ。とにかく、あるお金は運転資金に充てたかった。一本のズボンを買うより、五枚のCDを作る方がお金を生む。

 次にバリ島に行くときは資本金も持って行かなければならない。

引っ越した家の裏に成一の会社でアルバイトをしてくれた千佐という女性が家族と住んでいた。ある国会議員の議員事務所で事務の仕事をしていて、尾鷲に戻ったということで、彼女はお父さんが作る木工品の展示販売をしていた。店で客を待つ間、成一の会社の仕事をアルバイトで手伝ってくれた。成一の会社は千佐の木工所には毎月数十台の特殊な机をオーダーしていた。自社ビルに引っ越したときもすべてのテーブルや棚などは千佐の木工所が行った。

成一の会社が窮地に陥り、休業となってから、千佐は時々心配して電話も寄越してくれた。成一はありのままのことを話し、百万円の見せ金が預金通帳に記載されていることが必要なのだ、と詳細に話をすると、

「私、貯金あるから百万円なら貸してあげるよ。見せ金だからすぐに戻ってくるんでしょ」

 そう言って、翌日百万円を持って来た。

「助かる。すまない。ありがとう」

「ちゃんと持ってきてね」

 にっこり笑ってお金を成一に手渡した。

 津波の水はここでは勾配のある坂道だったのかもしれない。水はここでは止まったと思うと水は低いところを探して行くのだった。蒸発してしまうということはなかった。

 胃の痛みも治まることはなかった。

 運命を切り拓くというのでもなかった。雇われて生きることができないから、思いついたことをやっているだけだった。

 オカからは報告が入った。獲得ホテル数は六十になっていた。空港の店。町中の免税店に今度行ってほしい、ということだった。マグネット用の木彫りもサイズが小さくなったということだった。

 成一はバリ島の店でマグネット商品を見たことがなかった。でも問屋はある。不思議だった。どこかで使っているのだろう。小さいサイズの木彫りが可能となればバロンもランダもガルーダも土産物にできるということである。そしてそれは売れればすぐに真似されるということでもあった。模倣品が出てくるまでの勝負だと思った。


 今度のバリ島行きでだいたいのことが決まる。空港の店、大型免税店、ウブドに数多くあるホテルとの交渉。バリ・ブックツリーという外国法人の株式会社の設立。なんとかいくらかでも稼ぎたい。


 CDは各ホテルに一種五枚。二種で合計十枚を委託販売する。そして次にバリ島の土産物としてバロンなどの木彫りマグネットを提案する。

「ミスタークドウは面白いものを提案してくる。どんどん提案してほしい。日本の人はアイデアがいいですね」

 にこやかにそんな感想をホテルの担当者から言われると嬉しい。空港の店も交渉が成立した。ブックツリーの専用の棚を作るからそこに売れると思うものを置いてみないか、という提案もあり、それを受けた。大型免税店では発注の数が多かった。しかも買い取りであった。

 木彫りマグネットを試作してくれているウブドの近くの村にイダとオカとで出かけた。村人の多くが木彫りの職人の村である。工房には明かりがなかったから夜が明けて、陽が沈む前、目が正確に見える時まで仕事をするのだろう。

 マデというその職人はようやく成一が思うサイズにまで作れるようになった。普段は大型の仮面を作っている。

「こんなの初めてだよ。売れるのかい」

 マデはどうやってマグネットを使うのかわからない。マデの村には冷蔵庫もないし、鉄のものがない。バリ人が氷を食べないのと同じである。

「飛ぶように売れるさ。だから村の他の職人にも作れるようにしてほしい」

「とりあえず幾つ作ればいいんだい。各千個」

「ひゃあ、三千個か」

「ホテルで一日十個売れれば三日でなくなってしまう」

「一ヶ月かかるよ」

「だから分業体制を作ってくれよ」

 まだ本気にしていないのはわかる。それは当然だ。まず結果を出すことである。

 成一の十日間の間、さらに三十のホテルのドラッグストアとの委託販売が成立した。百まであと十店である。

 チャンドラさんの指示に従って、銀行口座を作り、資本金を入れ、通帳をコピーした。日本のように複雑さがない。会社が設立され、成一は在留許可証と労働ビザを得た。自由にインドネシアで働ける代わりに、出国のときは約一万円の税金を納めなければならなかった。

 マグネットがいくつでも出来次第、ホテルに持っていくよう、指示をした。一個の製作費が二千ルピアだったから八千ルピアで売り出そう。これだったら、観光客も買いやすいだろう。ブックツリーのロゴが入ったパラフィンに入れて、それを籠に入れて置くようにしよう、と指示をした。小さな紙片に説明も英語と日本語で入れる。

 胃が痛んでも成一は必死であった。バリ島にいるときだけは邁進することができた。これほど商売が楽とは。日本人であるならどこでも入っていけた。ビジネス相手は歓迎してくれた。

 戦後、バリ島をリゾートの島にしようとスカルノ大統領。続いてスハルト大統領の政策に日本が後押しした。サヌールに巨大なホテルが誕生した。日本の資金で建てられたものだと言う。オランダに支配されていたのを日本軍が追い払ってくれた、と人々は言う。どこまで本当かわからないが、日本人に対して友好的なのは概ね日本軍に悪感情を持たなかった人が多かったのだろう。それとも優秀な軍人がいたのだろうか。そんな歴史もあるようだった。


 日本に帰ると、また裁判の打ち合わせがあり、県と金融団との面談があった。その金融団の中には成一が結婚したての頃、隣に住んでいた証券会社の知り合いもいた。気まずかった。

 ある日、H保険会社から電話があった。どうしても東京に来てほしいという。東京に行くのはいいがお金の都合がつかないと応える。大事な話で、あなたにとってもいい話だからなんとしてでも出て来られないか、と言う。優しい声をした男だった。しかたなく、家にある物を売って、お金を都合した。古典文学全集。夏目漱石全集。石川啄木全集。太宰治全集などなどを売り払った。

 東京のH保険会社の一室で担当者の話を聞いた。耳を疑う話だった。

「この二千万円のワラント債を五万円で買ってください。私たちにも都合がいいんです」

 静かに、諭すように担当者は言った。

「もしもこの最初の事例がでると、他の保険会社も右に倣うと思いますよ。どうです」

 成一に異論があるはずもなかった。合計一億円が消えるのである。状況は変わるというのはこういうことか。思えば、借金というのは会計上の帳簿に載っているだけの紙の上の数字であった。成一も消したいが債権者側だって消したいのだ。買い取りの契約書にサインした。母印でもいいと言うので、母音を押した。翌日、母親に話をして五万円借りた。両親には迷惑をかけたくなかったのとプライドもあったことで、ほとんどのことは言わずにやり過ごしてきたが、ここになって親に援助してもらった。すぐに五万円をH保険会社に送った。

 他の保険会社に成一は買い取りの手紙を書いた。回答期限を設けて書いたが、返事はなかった。どうやら保険会社は合併問題でそんなことにかまっておれないらしい。結局、催促は来なくなって買い取り契約書の締結もなく、一億円が消えてしまったのだった。

 そうか。借金とは紙の上のことか、だったら借金で悩むこともない。買いとればいいのだ。この観念の中での結論は成一の重い荷物を軽くするように思えた。

 憲法では生存権というものを認めていた。だから借金苦で自殺をすることはない。まして一家心中などするべきではない。けれど、時々ニュースで借金苦による一家心中の事件が報じられる。成一はその心情はわからなかった。妻、子供まで殺す心性というのは日本人だけに特別にあるものなのだろうか。妻は黙々と手伝ってくれる。子供たちは明るい。へこたれないことこそが一番ではないかと思うのだった。


 対葉豆分析の返事が来た。抗酸化作用があり、解毒にもよいことがデータで明らかになった。ただ化粧品原料会社のA社では扱うには湿疹がでる恐れが万が一にもあるので、扱うのを見送るという返事だった。

「湿疹? それはどのくらいの割合で出るのですか」

「ほとんどでないと言っていいと思いますが、化粧品原料の基準が厳しくて。今事故は出せないということで、決まりました。それに原料をインドネシアから運ぶとなると、わりに合わないかもしれません。工藤さんが健康食品、お茶にしたらどうですか。ウーロン茶と混ぜればいかがですか。それはいいと思いますよ」

「だって、湿疹の問題があるじゃないですか」

「厚生省はこの植物の分析をしていますよ」

「そうなんですか。健康食品で扱って結構なんですよ」

 アトピーの女子社員の黒ずんだ膝裏の皮膚が日増しに改善されていくのがわかった。女子社員は便が柔らかくなることも成一に告げた。便秘で悩む母親にも試してみた。すると便秘が改善した。

 センナという便秘の医薬品として販売される植物がある。この葉っぱは製薬会社でないと扱えないが、センナの茎はだれでも扱えた。そのセンナの茎で便秘によく、スリムになる健康食品が日本でバカ売れして長者番付に躍り出たニュースは成一も知っていた。対葉豆は日本語ではハネセンナという。センナの親戚みたいなものだ。ところが医薬品の原料からは除外されていたのはセンナほど強力ではないということらしい。

 バリ島では人々はサラダに入れて食べるときもあるとオカが言っていた。成一は決心した。これをバリ島でお茶にして売ろう。アトピー性皮膚炎で悩む人は多い。お茶にはウーロン茶と混ぜる。袋のデザインは千佐に頼んだ。快く引き受けてくれた。

 CDが売れて、マグネットの種類が増え、それは勢いを増して売れた。利益があり、次の運転資金に回す分から残った分を引き出し、成一は未払いのある税務署に七十万ほどを持って出かけた。すると税務署は、

「もう工藤さんの払うべき税金はありません」

 と言う。また耳を疑った。

「工藤さんから取れるものは何もない、ということで処理され、それが決済されましたので、書類もありません」

「いえ、受け取ってください」

「いえ、受け取れません」

 奇妙な会話であった。しかたなく、成一はそのお金を持ったまま税務署を後にした。またひとつ肩の荷を降ろした。この時が潮目の変わる時だったことに成一はまだ気がついていなかった。

 大きな資本はない。自転車操業の中で、ちびちびと利益を得ていくしかない。

 バリ島に行くと、対葉豆はイダの一家とオカの一家が採集して、これを洗い、乾燥させ、ホーロクで煎る。それにウーロン茶七、対葉豆三の割合で百グラムにして除湿剤とともにセロファン袋に入れる。バリ島で売るなら「便秘」と書こうが「アトピー」と書こうがかまわなかった。日本では効用を書くことは禁止されていた。これもホテルで売る。

 成一は日本の健康雑誌や週刊誌に手紙を送った。すでに便秘によいことは十数人からの結果を得て、感想文ももらっていた。写真も容易してある。

 すると、週刊B社から取材の依頼があった。バリ島まで取材に行くということだった。

 日程の打ち合わせをした。成一もバリ島に出かける予定だったからである。

 尾鷲でひっそりと暮らしている間に、「あれこれバリ島、発見・発掘」は完成した。できる限りのバリ島情報を入れていく。

 そんなある日、元株主で、上場を期待して三千万円を出資した上山さんと道で偶然会った。成一はきまりが悪い。コーヒーを飲まないかと誘われた。喫茶店で現在の状況を説明した。

「わしはな、工藤さんの潔さが気に入ったんや。あのS社と話し合うときのあんたの態度とかな、最後の株主総会での言い訳のない態度はりっぱやったで。わしはむしろ失敗したこれからのあんたに期待する」

 成一は恐縮するばかりであった。

「わしは不動産だけを尾鷲の中でやっとるだけの小っちゃい人間や。用心に用心を重ねて生きてきたで。あんたの話を聞いとると痛快や。話を聞いとると、あんたそろそろ事務所がいるんと違うんか。それやったらわしに店を持たせてくれんかな」

「店?  バリ島にかな」

「わしも、海外あたりに店でももって楽しみたいがな。あんたさえよければ作ってくれんかな。わしではどうにもならん」

 渡りに船とはこのことを言うのだ。成一はそろそろ事務所が欲しかった。上山の店を作ってあげれば、それを管理しつつ店の裏で自分の仕事がやりやすくなる。本拠地ができる。またBBTがホテルに卸すもののアンテナショップにもなる。

「雑貨屋しかあかんで。他のことは今のところできん。ぼくにバリ島で使える時間が無いんさ」

「それでええで。わしもバリ島に時々行けるな」

 上山はすでに決心しているようだった。上山にとってみれば、ほんの小遣いでできることなのだろう。

 成一は承知した。そしてまた尾鷲にも小さな店らしきもの、そこでBBTの仕事ができる場所を探そうと考えた。

 勢いがついてきているように思われた。借金を返す、または買い戻すのも加速するかもしれない。とりあえずは友人の宮田の家が担保に入っているのを競売に欠けて、競り落とすことがこの二、三年の目標となる。これを成すことができれば成一にとって一大安心事だった。彼を裏切りたくない。窮地に落しいれた彼とは木炭の再利用と木酢液の利用を開発する別会社を作ったことがあり、会社は順調に成長していった。本業の塾や出版業が多忙になるに連れ、その会社の代表取締役を成一は降りて、本業の役員から彼に降りてもらった。退職金代わりというほどでもないが、仲の良い彼との関係を切り離した方が社員の嫉妬や彼への批判も躱せる。彼が保証人になってくれたものは迷惑をかけない。成一はそう決めていたから破産申請をしなかった。

 多孔質で無機質の木炭。それをどこへでも移動して製炭ができる炭窯。林業技術賞をもらった製炭炉は宮田の上司である常務の応援があって宮田が開発したものだった。完成してから、さてこの製炭炉をどうやって売るか、その販売方法について彼がいた会社は方法がわからなかった。彼らは海林組合長に相談した。森林組合長はいろいろな活動で地方新聞紙上を賑やかせていた、この地方では注目の人物だった。組合長から成一に雨の降る日電話があった。数人でその製炭炉を見に出かけた。その時に木炭という物質をいろいろな角度から見てみるというプレゼンテーションを彼はした。ハキハキとした青年で、胸も厚く張っていた。成一は一目惚れしたと言っていいだろう。その自信に満ちた話しぶりと態度によって、この製炭炉が売れるアイデアを練ろうと思ったのだった。とりあえず、林業家、製材業者などが集まり会費五万円で協会を作った。「炭は調味料。燃えやすく、始末も簡単、バーベキュー用の紀州ひのき炭」と袋に刷り込み、バーベキュー用の炭を販売することにした。このような袋も成一の会社が作り出した。しかしながら組合長運営の協会ではやれることも限られていた。会員の各人はそれぞれの仕事がある。しかも中には「炭なんて売れるものか。まして火持ちのせん炭らって」と考える人達もいた。結局、組合長もそれ以上のことはできないということで、成一にこのあとをやってくれないか、と頼んだのだった。協会の会費を株にするということで、成一は資金を出して、株式会社を作ったのだった。

 この頃の成一は夢中になって木炭の再利用を普及させようと精力的であった。彼も全国を飛び回り、森林組合などにプレゼンテーションをしに行く。彼は成一の会社に移った。常務も了解してのことだった。

木炭を作るときに木酢液がでる。成一はある日、寿司屋で警察の署長がムカデに刺されたと言って、顔を腫らしているのを見た。蛇は煙を嫌う。ムカデも蛇のようなものではないか。煙が液になったものが木酢液である。この中の成分にムカデが嫌うものが入っていないか。

 ムカデ博士を探した。東京の高校にムカデを研究する教師がいた。その教師はムカデを殺さない、単なる忌避剤を作るのなら教えると言ってくれた。ムカデシャットという商品名にして売り出した。新聞記事でも紹介され、飛ぶように売れた。しかし春と夏にだけ売れる季節商品である。成一は次に「ネコシャット」を開発した。これなら季節を問わず売れるだろうと思ったのだった。ヒントはテレビ報道番組の「ニュースステーション」だった。 

久米宏は猫が幼稚園などの砂場に来て糞をする、その糞の中には妊婦が注意しなければならないトキソプラズマという菌がいる、と言い、猫が近寄らない三鷹の保健所がその装置を開発したと紹介していた。

翌日、三鷹の保健所に電話した。保健所の担当員はその道具の設計図を送ってくれた。それは木がブランコのようになったもので、猫の通り道にそれを置くと、猫はそれを避けるようになるというものだった。猫の行動を成一はビデオに撮ってみた。すると猫は最初、その仕掛けに注意して引き返すが、何度目かにはその仕掛けの前でトンと飛び降り、また上がって仕掛けの後ろに行き、いつもの猫道を歩くのだった。

 猫は砂場を荒らす。庭で糞をする。車の上で寝る。そんな猫を寄せ付けないようにするには木酢液の匂いがいいのではないか。猫の鼻あたりのところから臭気がでてくるような容器を作り、そこに木酢液を入れて実験した。新聞社の記者にそれを言うと、商品見本があるだけなのに、「ニャンと猫が嫌うネコシャット」という見出しで東海版で報道した。電話が殺到した。臨時電話を何台も設置した。まだコンピュータで注文できる時代ではなかったのである。NHKが実験を取材したいと申し込みがあった。三重県で放送され、すぐに全国でも放送された。NHKの実験番組「トライ&トライ」でも実験してくれた。雑誌でも幾つかの猫よけ商品を並べ、実験をし、ネコシャットは五つ星を取ったのだった。

 テレビや新聞や週刊誌に出ることが多くなった。世間の人はこのような成功話によって成一の名前は成一を知らない人まで知るようになった。移動式の製炭炉もよく売れた。間伐材を木炭にする。やがて全国のどこにでも木炭の商品がでるようになった。

 大阪の川筋を歩いて木炭業者を調査した時、平均年齢が八十にもなり、木炭はガスに代わり、衰退の一途で、ほんの少量の「紀州備長炭」だけが鰻などを焼くのに使われている程度だった。それが湿気吸着材や、音の遮断材、臭気の吸着材に使われるようになった。粉炭は石鹸にまで使われた。川の汚染浄化にも使われた。特に杉や檜の炭は多孔質であったから、注目された。

 彼とは別々の仕事をするようになったが、彼との仲は永久に続けたかった。だから絶対に彼の家や事業まで犠牲にすることはできなかった。

 その切迫感がバリ島に行かせた最大の動機だと言ってよかった。また子供たちを普通のように大学まで行かせる。これも成一の前に進む推進力となった。もちろん、資本金が少なくて済み、再生するぞという成一の楽観的な気質も原因としてあっただろう。


 翌日、上山さんの店の事業計画書を作った。外国法人にするためである。役員には成一も請われて名を連ねた。すべての書類を整えた。

 二ヶ月後くらいにはバリ島に行けることを上山は喜んだ。イダとオカにレギャン通りの一等地を借りる店舗はないか調べさせた。するとすぐに見つかった。三年契約であるという。三百万円と手続き料その他のお金を上山から預かり、成一はバリ島に向かった。

 余裕を持ってバリ島に到着したのは久しぶりのことだった。

 契約を済まし、会社手続きをチャンドラさんにお願いし、上山の店舗に必要なレイアウトをし、備品などを買った。看板もできた。店名を「ウエヤーマ」とした。そして「るるぶ」「マップル」「地球の歩き方」などの日本の旅行雑誌に案内状を書いた。

 事務所ができたことで、「ウエヤーマ」の従業員を三名募集した。BBTの方では経理専門にイダ・アユを雇った。イダの紹介で、夫は警察官をしていた。

 オカが兄のコンピャンを連れてきて雇ってもらえないか、と頼んできた。建築士の資格を持っている。デザインもできた。なぜ建築士がBBTにと思ったが理由は聞かなかった。目に正直さがあった。電話が付き、FAXやパソコンも入った。「あれこれバリ島、発見・発掘」でも紹介した。

 上山がバリ島を初めて訪問したとき、彼は貯金通帳を作った。そこに三千万円というお金を振り込んだらどうかと提案した。定期の利息で14%。その利息は普通口座に移り、そこでは10%という利息であった。複利のようなものだ。五年も預けておけば倍になる。上山はこの案を喜んだ。成一は株式で損をかけた上山の分を取り戻してやると決めていた。 

お金のあるものはお金を増やせるものだ。自分に利するほうに感情は流れる。人とはそんなものかと今の自分を見て苦く思うのだった。バリ島に店を持つことは上山のプライドもくすぐった。上山は尾鷲の酒場に飲みに行くと、バリ島で店をやっていると自慢そうに知り合いの客に言うのだった。

 週刊新潮の「よろず医者いらず」の執筆を担当しているルポライターが来た。彼の質問に受け答えし、対葉豆が自生しているところも案内した。そして記事は二週間後には掲載された。その記事が載ると別の健康雑誌社二社から特集を組ませてほしいという依頼があった。

 今度は「ウエヤーマ」で対葉豆を買ったという女性から電話があり、バリ島への社員旅行があるので、社長が工藤さんと会いたい、という依頼があった。その会社はエステ用品を扱う商社だった。便秘用のお茶を作りたい。それを大手エステ店などにOEMで卸したい。対葉豆について詳しく聞き、雑誌の記事を見せ、一回分でどれほどの量を使うのか、その応用方法にはどんなことがあるかを詳しく説明した。植田という社長は百キロを注文した。原料渡しである。原料をティーパックにする工場に送るのである。関税手続きが必要で時に検査もあるので、一度は尾鷲の事務所に送り、そこから工場に送るという手筈で話がまとまった。百キロで百万円という値も了承してくれた。

 半年後には「ウエヤーマ」の店も旅行雑誌に掲載された。「ウエヤーマ」にはこれまで以上に客が集まることになった。面白い商品を探す。それに日本語での説明もポップで入れた。大胸筋に効果があると謳われているジャムーも仕入れては、「胸が大きくなるジャムー」などと日本語でポップに書いて女性客の気を引いた。日本では規制が厳しいこともバリ島では緩やかであり、何の問題もなかった。「ウエヤーマ」は大流行りした。上山は当然喜んだ。そして成一は再び上山から信用を得た。

 こうやってBBTの事業とウエヤーマの事業は軌道に乗り成長した。BBTの社員は六名になっていた。ホテルでのマグネットやCDも売れ続けた。そして新しいアイデア商品も持ち込んだ。成一はバリ島の香り花から精油を取り、香水を作ることもした。ココナッツオイルもバージンオイルを瓶に入れた。銀のペンダントもコンピャンがデザインして作った。それはバリの昔の文字をデザイン化したものだった。金の繭でランプも作った。裸電球を入れると、まさにベッドサイドランプやスタンドランプ、店の吊ランプ、壁掛けランプは上品な美しさとなって光を抑制した。ウエヤーマで売れるとわかるとその商品をホテルに持ち込む。

成一が開発した商品は三年が勝負であると思っていた。必ず模倣品が出てくる。

 上山の次男が「エステティックサロン」を開きたいという申し出が上山からあった。これも引き受けた。エステテシャンを十六人採用し、成一は日本語を教えた。言語を覚えるには身体を通して覚えさせるのがよい。これも昔成一が作った英語の教授法理論のひとつだったから、それを日本語に置き換えるだけでよかった。一ケ月で事前講習を終え、店のレイアウトや備品はBBTから納入した。建築士のコンピャンが活躍した。

 会社を作りたいという問い合わせがあるとそれの手続き代行を行った。結婚式の問い合わせがあると手配した。映画のロケがあると機材の用意やロケ地との交渉を行った。対葉豆は月に一度百キロの注文が来るようになり、ホテルや店でも売れた。

 疾走した三年が過ぎた。三年は失敗なくやってきた。成一は五十一歳になっていた。

 社内で使う言葉を英語にする。成一は現地の言葉を一切覚えなかった。わかる言葉が入ってくると面倒であった。言葉は関係性を作るものでもある。それはストレスともなろうと考えた。おそらく成一が少なくともバリ島でストレスを感じなかったのはこのことが功を奏したのだろう。

 ここまでが大まかに書き連ねた成一の仕事の経緯である。

 成一は、人生は十勝九敗であればいいと思っているところがある。四十七歳で手痛い一敗であったが、最後に一勝して死にたいものだと思っている。


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