第3話 出会い

三 出会い


 マキの仕事にトラブルはなかった。簡単な英語と簡単なインドネシア語、それに簡単な日本語。ホテルで使う言葉は限られている。客と長々と話すわけではない。必要なことを案内するだけである。しかしながら人と接していると飽きることはない。一期一会の人ばかりで気楽である。鬱陶しい関係性が発生しない。

 夜はホテルの仕事が非番の時はココナッツ酒であるアラックを飲む。強い33度の蒸留酒である。それをミネラルウォーターで割る。バリ人の若者の多くもアルコール類を飲まない。それでもアラックという酒があるのだから、飲む人もいるのだろうと思う。酒まで飲む余裕が人々にないのかもしれなかったし、宗教上のこともあるのかもしれなかった。ウォッカ、テキーラ、バリ島だったらアラック。

 マキのいくところには必ず男が寄って来た。日本人女性と見るとお金があると思うのだろうか。ホテルの同僚から日本人女性がカモになってお金を剥ぎとられる話を聞いた。

「アナタ、カワイイネ。サーフィンやらない」

 若い男が声を掛けてくる。無視して歩いていくと、次の男がくる。仲間である。

「アイツ、ダメ。アレ、ジゴロね。アアイウノニヒッカカルト、イタイメニアウヨ」

マキは少々興味がある。ジゴロとは一体どんな人なのか。

女から金を巻き上げるジゴロ集団はロンボク島でデビューして、のちクタビーチに来るという。ジゴロ家族が集団を作っているという。彼らはジャワ人だとバリ人は言う。

マキはインドネシア語で、

「あなたたち、あたしがトンマな女に見える。目利きが足りないよ。フフフ」

 と笑って去ると、もう追ってこない。インドネシア語ができる女には近寄らないのがジゴロの鉄則かもしれなかった。

 どこへ行っても男が近づいてくる。

 マキは時々、観光客の来るバーでもアラックを飲む。娼婦もカウンターに座っている。

 馬鹿なタトゥーを腕に入れたオーストラリア人が近づいてくる。

「今晩どうだい」

 マキはジロリとその男を上から下まで見て、この男が何等級か判断する。

「あたしはあれじゃないの。ただの観光客。あっち、あっち」と娼婦の方に顔を向ける。

 そんなマキもついに好印象な男と出会ったのだった。

 それは休日のある日の午後、バイクのタイヤがパンクしたときだった。どうしていいかわからず、路上で困っていた時に、ミニトラックを運転していた男が車を止めた。

「どうしたんだい」

「パンクらしいの」

 すると男は周囲の人に声を掛けて、

「おおい、バイクを持ち上げてトラックに入れたい。手伝ってくれ!」

 と大声を出すと、人が突然現れてきて、さっさとマキのバイクをトラックに持ち上げて乗せた。

「君も乗れよ。バイク屋さんまで連れていくから」

 歯の綺麗な、笑顔が素敵な男性だった。マキよりも年下に見えた。

「家具を運んだ帰りなんだ」

「ありがとう。助かったわ」

「君はどこから来たんだい」

「日本」

「そうか。日本人か。日本人は肌も白いけど、君はそうでもないな」

「もう日焼けしてあなたと一緒になっちゃった。あなた名前は? 」

「ワヤン」

 バリ島での名前は最初にカーストの階層の名前がくる。次に何番目に生まれたのかがくる。五番目からは一番目に戻る。最初に生まれた子はWayan または Putu または Gede(Gedeは男性だけ)。二番目に生まれた子はMade または Kadek

三番目に生まれた子はNyoman または Komang、四番目に生まれた子はKetut

五番目以降は、また最初のWayan(Putu Gede)に戻っていく。バリ島にはフェミリーネームというのがない。

 旧カーストは名前に厳然と残っている。ブラフマ(ブラフマノ)階層(僧侶)、クシャトリア(クサトリオ)階層(王族の血筋)、ウエシャ(ウェシオ)階層(貴族の血筋)、スドロ階層(一般庶民)となっている。階級が同じものと結婚するのが慣例であるが、この頃はそれを破る若者も増えている。

 めったにバリ人は最後の個人名を言わず、生まれた順の名前を使う。

 車を運転するワヤンは下心もなさそうだった。

「インドネシア語、上手いね。働いているのかい」

「そう。ホテルで」

「ホテル? 上等だね。なんてホテル」

「メリアバリ」

「いいホテルじゃないか」

「ホテルで家具は要らないかい?」

「あたしは担当じゃないから」

「バリでは家具店をよく目にするだろ。ジャワで作ったものをバリで塗装したり、組み立てたりするんだけどね。バリには材木加工をするところはないんだ」

「そうなの? 」

「デザインを送って、その通り作ってもらって、こっちで仕上げる。観光客の多いバリの強みだね。この前は日本の御神輿をつくったよ」

「へえ、日本に行ったことがあるの? 」

「あるよ。御神輿を見に行った。東京だったね。御神輿を作る業者が少なく、順番待ちなんだって」

「それでできたの? 」

「当たり前さ。木材をしっかり乾燥させてね。日本は秋から冬、乾燥するからね。ひび割れしたら困るだろう。うちの信用にも関わるしね」

 車はバイク店の前に着き、ワヤンは店の男に声を掛け、バイクをミニトラックの荷台から降ろした。すぐに修理に取り掛かってくれるということだった。

 ワヤンは家具店の名刺を出して、「クロボカンのここで店をやっている。二代目だけどね。また縁があったら」と言って車に乗り込み、去って行った。

 ああいう男はいいな、とマキは思った。

 バイクは十五分もすれば修理された。またバイクに乗って、日本の観光客が残していった古本を集めた本屋に行った。そこで、日本の小説や実用書を買う。残していくものは推理小説が多かった。マキは当面読む本を三冊買い、アパートに戻った。シャワーを浴びて、

すっきりした。日焼けがそのまま茶色になって定着していることに今更ながら認識した。

 単調な仕事、ルーティーンの仕事をしているといくらバリ島と言っても時が過ぎるのが速い。ゆっくり歩くのも身についてしまっている。怒ることもない。この地球の赤道付近では遠心力で吹き飛ばされないために日本とは違った強い重力が働くのかもしれない。それだけでもしんどいのかもしれなかった。だから、喧嘩をしたり、ひたすら働いたりすることを自然に避けているのかもしれない。夜の海に映える月。月から一条の光が降りてきて海をスポットライトのように照らす。光があたる海面は揺れて、煌いている。不思議な模様の海面は美しかった。アパートの女連れに誘われて、村の宴を見に行ったことがあった。ジョゲットという踊りを面白く可笑しく踊った。まだテレビが普及しておらず、村人の楽しみはジョゲット団が来て、踊ったり、ケチャを真似したりすること。それに多くの夜はスナックがあるわけでもパチンコ店があるわけでもなく、娯楽というものがなかったから、もっぱらセックスが娯楽であるようだった。

 ホテルで時々会話をする上司の女性がいる。マキより年上で、しかもスラバヤ出身である。スラバヤは東ジャワでの大都市である。

「インドネシア人の女の子で三十過ぎて独身ってまだあんまり多くないよねぇ。周囲の圧力はない?」

「まああるかな。でもアタシの場合はバリ島といった離れたところに働きに行っている言わばキャリアウーマンだからね。それにスラバヤは都会だからそういう女性も結構たくさんいるのよ」

 ヴェロニカは色白でポチャポチャした一見華僑と白人とのハーフかと思わせるような容貌で始終ニコニコと微笑んで色んなことを説明してくれた。

 このホテルがオープンする直前スラバヤで華僑のここのオーナーと出会いサブマネージャーとして招かれバリ島に来た。オーナーはアメリカの有名ホテルに経営を委託しているということだった。

「結婚まで考えるようなボーフレンドもいないし、このままひとつのところでくすぶっているより自分を試すチャンスかも知れないしね。即OKしたの。始めのうちは下宿とホテルの往復だけで毎日が流れ、友達もなく思い出すのは末っ子の自分をいつも可愛がってくれた母のこと。すぐに重度のホームシックにかかり仕事が終るとひとり下宿先でメソメソ、週末となれば飛行機でスラバヤまで帰るといった日々だったわ。給料は全部飛行機代に消えちゃって、ばかみたい。彼氏に会いに毎週末帰るんじゃなく母親に会いに、よ。もう大人だっていうのに呆れるでしょ?」

 マキは自分と正反対。それも極端と極端の正反対であることに驚いた。マキは遠く離れれば離れるほど母の影が薄れて気楽となった。

ヴェロニカはそれほど母親が好きでも、無駄なお金を流出しながらもバリ島に居続けるのはなぜなのだろうと思う。

「ここにずっといるのが不思議だと思っているでしょ。居続けるのはやはり仕事が面白いからなの」

確かにゴージャスなホテルの顔に常に笑みを絶やさない彼女は適任なのだろうし仕事が楽しいから自然と朗らかなサービスを客に提供できるのだろう。彼女にはバリ人の女性と違う自らのサービス精神があった。

「最近は一緒に『ナイトクラビング』する友達も出来、毎週末こそ帰らなくはなったけれど、それでも一ヶ月に一度は恋しい母親の元に帰るのよ」

 彼女はいずれ結婚したいと言った。異なる民族の男性に惹かれるようで、ジャワの男には興味はないと言う。華僑もだめだと言う。

「バリの男~ ? 冗談でしょう? だめだめ、だめ! 使い物にならないよ。 怒られたことが無く甘やかされて育ってきているから気に食わないことがあるとすぐ切れる。周囲からちやほやとされるのを当然と思っているから女性を手伝わない。

彼達がしていることってなに? えっ? 日がな一日女の子のケツを追いまわしているかボーっと座っているか、寝ているだけ。ちょっとした困難にも弱いもんだから仕事もすぐ辞める。怠け者が多く働くことに意欲的でない。あんなのと結婚したら最後よ。全てが女の背にかかるわ。だってヒモ的生活が彼らの夢なのよ」

厳しい・・・でも.が当たっているかもとマキも思う。

「ただひとつの才能は女に甘えることね」

彼女のバリ男性を見る目はかなり厳しい。

「私はねぇ、日本人男性と付き合いたいの。結婚前提にね」

「なんでなんでぇ~」

「やさしくて女性を立ててくれそうでしょ? 色白だし。もちろんリッチだし」

「あぁ、そうゆうことね」

マキは皆が皆リッチではねぇぞぉ。 しかもやさしいぃ? 女を立てるぅ? そりゃ色白だけどなぁ。こっちでしょっちゅうやっている日本のドラマを鵜呑みにしているな、こりゃ。

「最近スラバヤでは日本人男性人気あるんだよぉ。日本人男性と結婚したいっていう娘いっぱいいるんだからぁ」

マキはいろいろ諭してはみたけれど「それでもやっぱり付き合ってみたぁい」と言う。

 三十を過ぎた上司のヴェロニカである。「で、あなたはどうなの?」とは聞いてこないのには助かった。タイアがパンクしたとき助けてくれたワヤンの笑顔が思い浮かんだ。あの人はどうなんだろう・・・。

 熱帯地域のバリ島ではあるがバイクに乗ると長袖やカーディガンのようなものが要る。身体は寒さに敏感になっている。バリ人が氷を口にしないのもわかるようになっている。

 わたしの身体もだんだんとバリ人みたいになってくるのかしら。日本人が色白なのは観光客くらいのものだわ、と思う。

 

 時々は日本料理店にも行く。日本料理というよりは日本風料理である。刺身は食べないことにしていた。なんだか生だと食あたりしそうな感じがする。よく行く店のオーナーは日本人で、こぢんまりとしたオシャレで、着物の帯をインテリアのデザインに使っていた。

「姉に誘われて、バリ島に来たのよ。姉はジャカルタで絹織物のデザインをしているの。成功しているわ。私は不運。だって到着した翌日、ルピアの大暴落よ。三千万円が五百万円にもならないのよ。それで、店作って今は一文無し」

 マキにはちょっとここの料理は高い。しかしジェンガラの陶器は日本にはないどこか厚ぼったい作りであるが、色も形も日本人の発想にはないようなオシャレ感があった。重いコーヒーカップも存在感があった。

「バリ島で一儲けなんてできるのかしら。円にすると小さな額よね」

 オーナーの美枝子さんはそういうとカウンターで頬杖をついてため息混じりに言う。「マキさんだったわね。あなたはどうしてバリ島に来たの」

 マキは会う人会う人が訊くこの質問には、正直に、「日本から遠いところで暮らしたかったの。オーストラリアでもフィージーでも良かったんだけど、バリ島に来てしまったのね。バリ島が嫌なところだったら、次はジャワ島に行ってたかも知れないわ」

「どうして日本から遠いところで暮らしたいと思ったの」

「どうしてなのかなあ。ほら、外国で暮らしてみたいってあるじゃないの」

「そうね。私もそうだものね」

 オーナーの美枝子さんはそれ以上詮索しなかった。バリ島で暮らしている大方の日本人は日本を振り捨ててきているらしいことはマキも知っていた。

「美枝子さんはなぜバリ島に来たの?」ということから始まる深い詮索をマキはしなかった。聞いてもしかたがない。もうすでにここにいて、生きているのだから。人それぞれには事情というものがある。

「美枝子さんは今女盛りって感じよね。艶っぽいなんて言われない?」

「誰に?」

「お客さんに」

「ここに来るのは観光客じゃなくて、バリ島に住んでいる日本人が多いかな。特別な客の接待で使う人が多いのよ。こんな店でもね。いい人もいるわよ。でもね、私はあんまり接客しないの。ほとんど客とお話することはないわ。マキさんのような一人で来る女性だとわかったら出てくるけどね。お金すっちゃったから帰るにも帰れない。本当は日本とバリを行ったり来たりしたかったのよね。ここの利息知っている? 定期貯金で年利14%よ。利息は普通貯金に入って、それが10%よ。三千万円あったら五年でいくらに増えると思う? 」

マキにはピンと来なかったが、こういう狙いでくる人もいるのか、とぼんやりと思う。

「お肌は手入れしなくてはダメよ。紫外線きついから。あなた若いからか、無頓着そうだけど、ダメよ。バリにいる日本人を見ているとみな茶色くなっている。あれ、シミになるわよ」

 この女性と特に話すこともないのだが、時々そばが食べたくなる。髪をきちんと整えて、高級そうな洋服を着た美枝子さんはアテが外れてここに退屈そうにいる。

「ホテルの客にうちの店も紹介してね」

 そうだった。こんな店があるよ、というのもコンセルジュの仕事だった。気が利かないといったらありゃしない、とマキは内心で舌を出した。


 十月に入るとバリ島は雨期に入る。雨期と言っても毎日雨が降るわけではない。朝方、夕方、真夜中に降ったり、突然スコールが来てはあと青空になったりする。雨期の特徴は湿気である。黴が生える。黴は感染症を起こす場合もあるから、結構真面目にマキは黴の掃除をする。アパートは壁があるので、黴も生えやすい。

 フード付きのレイコンコートを着てバイクで出勤する。

ホテルのロビーでデスクに座っていると、ヴェロニカがやってきて、

「マキ、ほら、あいつ昨日やりすぎ」

 顎でベルボーイのグデを差す。

「疲れ切っているわね。ジャムー、プレゼントしてあげようかな」

 ヴェロニカはニンマリ笑って、今日の新規のグループ客到着の予定表をマキに渡した。

 ジャムーとはインドネシアの漢方薬みたいなものである。ジャムー売りが夕方町中を回っている。西洋のドリンクよりもジャムーで作ったドリンクの方が精力剤としては効き目が良いと言われている。

マキのバリ島での生活は概ね良好である。

 十一月に入って、偶然家具店のワヤンと逢った。バイクで走っていると、後ろから、呼びかけの声がした。すると後ろの車はマキのバイクを追い抜き、止まれ、止まれと手で合図する。バイクを止めると、車から出てきたのは笑顔のワヤンだった。マキはどうもと多分日本風に小さな礼をして、パッチリと愛嬌のある丸い目を作っておどけて見せた。本当は自分にもこんな剽軽さはあるのだ。不良していた頃は仲間に時々剽軽さを見せた。

「君の名前聞いてなかった」

 相変わらず笑顔である。こんなにずっと笑顔でいられるのかしら、とマキは一瞬思ったが、

「マキ、よろしく。この前はありがとう」

「バリは長いの?」

「まだ半年。それでも黒っこげ」

「そうなの。じゃあ、まだまだバリのことは知らないね」

「うん、知らない」

 本では相当読んでいるからある面ではこの男より知っているかもしれない。実感はないけど。

「明日、僕のバンジャールでジョゲットが来るけど行かない?」

 おっと、ナンパか、と思い、おいおいジョゲットに出て、オレには日本人の彼女がいるんだぞ、と見せ、そのあとどこかへってか、とマキは勘ぐった。あまり勘ぐることのないマキなのにこの時はなぜか勘ぐった。

 バリの男と付き合うのは面倒だと思う。強固な村の慣習がある。家族を大事にし、男の子が生まれることを願う。バリ人の中には仏教徒もいるにはいるが少ない。ほとんどはヒンズー教である。ジャワ島から来ている人達はイスラム教であるが五%ほどのものだ。

 娯楽のないバリ人の生活は質素である。

 この男と仲良くなってどうなるというのだ。印象のいい男だ。だが、とマキは立ち止まる。毎日セックスというのも嫌だ。

「ジョゲットねえ。私はいけないわ。明日は夜の勤務なのよ」

「そうか。残念だ。そうだあそこでコーヒーでも飲まないか」

「ごめんね。ちょっと急いでいるの」

 マキは断った。もちろん急いでいるというのは嘘である。バイクに乗って、マキは「じゃあね」と剽軽な笑顔を作って行ってしまった。

 バリ人じゃなければな。私は家族って必要だとは思わないし、信じる宗教もない。共同体も息苦しいものだと思っている。たぶん、ワヤンの自意識と私の自意識は違う。私の方が自意識は強い。そう思う。没個性を日本人に対しても思ったものだったが、バリ島では没個性であらねばならない雰囲気が強い。バリ島は好きだけれど、私はバリ島には縛られない。そもそも前提が違うのだ。

 

「恋に落ちてしまったらもうどうしようもないのよ」

 ミコさんは白々と煙草を吹かせて言った。彼女は「出前両替屋」をやっている。阪神淡路大震災があって、賃貸マンションが液状化現象で傾き、翌日にはすべての現金を持ってバリ島に来た。地震のあとの片づけもしなかった。ミコさんもバリ人に見えるほど白さがなくなっている。

 美枝子さんの店内である。

「すごいよ。惚れてしまった女の弱みというのは。なにせ、圧倒的にお金持っているのは日本人の方なんだから。なんでも買ってあげたくなっちゃうし」

「そうなんだ。本気で好きになっちゃうのかな。遊びなのかな」

「バリ人が純朴に見えるんじゃないの。素朴というか。女の方は働き過ぎる日本人男性についていけないんじゃないの。あるいは薄汚れて見える。男がフィリピン女性のバーに駆け込むのと同じよ。みなフィリピンの女性はすれてない、と言っていたものよ。ジゴロはあくどいわよ。すべてをもらってから離婚する。獲れるものがないと分かれば、殴る、蹴る。そうして離婚に仕向ける。バリ人はそれはしないけどね」

「ふ~ん。ミコさんはバリ人を好きになったことがあるの」

 ミコさんは薄っすらと笑って、

「まだない。たぶん恋しない」

「たぶん、私もない。でも、遊びとわかってやるのなら、やる。ただし一晩だけ。それ以上はない」

 と言ってペロッと舌を出した。

「あなた言うわねえ」

 ミコさんはバリ島に来て、アルバイトで大学の日本語講師を一年して、それから両替店をスミニャックに開いた。店で待っていても客は来ない。日本人観光客をキャッチして両替をする。だんだんと電話で依頼が来るようになり、バイクで空港やホテルまで出前する。空港やホテルの両替店より有利に両替する。

経済動向を見る。この時が買い、売りと判断する。三人のジャワ人達を雇っていた。近所の人たちからはお金持ちだと思われている。ルピアの大暴落も経験した。苦しかったが、なんとか持ちこたえた。だからせっせと出前をして積極的に営業しなければならない。マキはミコさんとも仲良く話はしたが、いつも距離を置き、一緒に遊ぶということはなかった。ミコさんはバリ人を馬鹿にしきっていた。ジャワ人の方がよく働くし、気も利く、と言う。

 この年の十一月は例年になくほっそりとした雨が朝から晩まで降り続いた。ミコさんは

「知り合いの息子が結婚式するというのね。毎日雨なの。絶対無理だと思ったわ。結婚式は家の庭でするでしょ。どうしてこんな雨の時期に結婚式なんかするのかって、訊いたの。そしたらね、大丈夫って言うのよ。知り合いもみなそう言うの。息子の家はお金持ちだから、雲を動かす祈祷師を何人も呼べるんだって。へえっ、てなもので、いよいよ結婚式になったの。私も行ったわ。正午に始まるのよ。そうしたらね、正午になったらぴったり雨が止んだのよ。さすがにそこだけ青空にならなかったけどね。とにかく雨が止んだ。そして結婚式が終わるとまた降り始めた」

「へえ、そんなことがあるんだ。どういうことなんだろうね。偶然なのか。祈祷師だけが気象予報を知っているのか。まだ科学でわからないことっていっぱいあるだろうからね」

 マキはそういう神秘的なことにあまり関心はなかった。血液型でギャギャー騒ぐ女たちにうんざりすることがある。共通の話題のないときの端緒になるひとつの話題なのだろうが。

「バリ人は病院よりもバリアンだからね」

 ミコさんはバリアンに行ったときの話を始めた。

「私は興味本位で行ってみたの。クルンクンだったかな。普通の家よ。お供え物を持っていって、広場のような庭で待つの。順番待ちをしている時、それは静かなの。でもね、バリアンと話をしている人達の会話は聞こえるの。わざと聞かせて、精神教育をしているみたい」

「ミコさんは何を相談したの? 」

「相談することもあんまりなかったのよ。興味本位だから。でもね、私の将来はどうなるかって訊いたの。髭を伸ばした老バリアンはしばらく私を見て、それからあれはマントラなのかな。何かを唱え始めてね。あなたは川で裸になって泳いでいる。川の水は清浄だから安心しなさいって」

「そうなの」

 マキはそれを聞いても驚かない。ミコさんの話を聞いて、バリアンは家族や村で諍いを起こさないようにするひとつの装置。バリアンは教育者でもあり医者でもあるような装置なのかしら、と思った。バリアンに言及した本を読んだことがあるが、バリアンは薬草のことも知り、予知能力ももつ、という風には説明されていたが、マキの解釈のようなことは誰も書いていなかった。バリ人の慣習として書かれている。

 ミコさんの話に乗らないマキは煙草を吸って、沈黙に浸った。

山の神にも地下の悪霊にも女たちがお供えして、その供えの準備をするのが女たちの家庭の仕事みたいで、どこにでも悪霊を追い払うガードマンみたいな石彫があって、満月と新月には祈って、寺院の祭事は頻繁にあって、悪霊が入らないように門の工夫をしている。  

バリ島は神々の島と旅行雑誌には書いてある。米は一年で三度は獲れる。果物も野菜も豊富にある。日本のようにまぶしすぎるコンビニもない。娯楽場もない。闇が深い。そこで人間が息づいている。ウブドの方に行けばインドネシアが話せない人が多い。バリ語を使っている。バリ語も覚えてみようかしら、とマキは思う。言語を習得するのは相変わらず苦ではない。簡素化されたインドネシア語よりもカーストの制度が残るバリ語は難しいらしかった。ウブドはマキが住むアパートからは一時間のところ、ホテルからは一時間半はかかる。山間にある。芸術の村とも呼ばれている。バリ島の神髄があるところだと言われ、ウブドで暮らす外国人も多い。ヨガ、癒しのエステもある。

 日本人客が入ってくると、ミコさんはそれまでの態度を変えて、頭が働き始めたようだった。たぶん切掛けがあれば「両替いたしますよ」と営業するのだろう。


 オーストラリアの観光客がマキのデスクに来る。英語で、

「アタのバッグを作っている村があるよね」

「テガナン村のことですか」

「そうそう。あそこはダブルイカットでも有名だって旅行雑誌に書いてあるけど、タクシーでどれくらいかかる? 」

「三時間くらいですかね」

「そこへ行ったら作っているところも見えるの」

「見えますよ。あそこはバリ・アガと言って、バリ島先住民の村なんです。村に入るには入場料も必要です。二万ルピア」

アタとは細い蔓である。この細さがバッグを作るのにちょうどよい。ロンボクやジャワのアタは蔓が太過ぎる。バリ島の人気商品である。

「タクシーを呼びますか。トランスポーテーションもありますよ」

「どのくらいかかるのかな? 」

「どちらも、それは交渉してください。六時間か七時間で、六十万ルピアくらいだと思いますよ。必ず前もって交渉してから乗ってくださいね」

 バリ島にもメータータクシーが登場している。ところがメーターを入れず走るタクシーが多く、ぼったくる者もいる。とにかくここでは「交渉」なのだ。

 マキは波風なく、平穏にそうやって契約の二年間を過ごした。三年目に入るところで、ウブドに住みたいという思いが強くなってきた。

 都合よく出会ったのは牛島誠というガラス工芸家であった。彼はバリ島に移住してガラス製造工房を建設するためにマキが務めるホテルに滞在していた。

 五十代に見えた。バリ島にはホテルが多い。ここにガラス作品を売り込めるのではないかと思ったことと、彼の作風がきっとバリ島のホテルなどには合うはずだと考えたらしかった。しかもバリ島ではガラス製品というものがなく、ひとつの工房もなかった。ガラス製品があるとすればそれは外国から輸入されたものである。ビールのジョッキやバーのグラス類。ほとんどの家ではガラスは使わなかったから、ガラス製法が発達しなかったと牛島誠はマキのデスクの前に座って言った。

「ここで緑のバリガラスを作り、名産にしたい」

 太い腕と指、それに太い太腿に太いふくらはぎをした男だった。行動力のある中年男性だった。芸術家だと自分のことを思っていた。なにかの世界ガラス工芸展で優勝した経験も持っているらしかった。

 毎日借地を探しているらしかった。そしてついにバタンバイに二十年の契約で広い土地を借りる交渉が成立したということだった。

「妻はここが軌道に乗ったら来ることになっている。ぼくはバリ島で自分の工場をもって集中して作品作りがしたい。生活用品ね、グラスとかガラス板、そんなものは作らない。芸術をやりたい」

 頑固一徹そうな顔にも見える。それは才能というものの顔かしら、とマキは思う。

 自分の仕事が終わろうとしていたとき、マキはプールサイド近くのカフェで牛島がいるのを見た。

「お寛ぎですか。よかったですね。工房の土地が見つかって」

「ありがとう。すぐに取りかかるつもりだ。忙しいの? 座らないかい」

「はい、ありがとうございます。私のシフトはちょうど終わりですので、デスクを整理してきます。すぐ片付きます。それからでもいいですか」

 マキは丁重に言った。デスクに次の担当の者への引き継ぎ事項を書き、整理をして、牛島のいるカフェに戻った。

「あらゆる人間の文化の中で一番用途があり、一番革命的だったのがガラスなんだ」

 マキはガラスのことなど考えたこともなかったがこういう話がとても好きだ。牛島は続けた。

「ガラスの発祥の歴史を言えば長くなりすぎる。自然現象で生まれた。リビア砂漠だ。それが二酸化ケイ素だとわかるのはずっと後のことだよ。ガラスから産まれるものはなんだい」

「瓶類、窓ガラス」

「ハハハ、それは当たり前すぎる回答だね。あるだろ。瓶類も窓ガラスも重要なことだけど、他には?」

「えっ、他に、ですか。私はビー玉とかビールグラスしか思い浮かびませんけど、ステンドグラスも窓ガラスですよね」

「ふふふ、それが面白いんだな。千四百年代になって、ガラスの裏をスズと水銀の合金で覆うんだ。それでピカピカの鏡ができたんだ。それはイタリアのフィレンチェでのことで、ほとんどの世界の人間は自分の顔なんて知らなかったんだよ。だからそれまでは美術の世界では自画像というのはないんだよ。水に揺らめく薄っすらとした自分の顔を見るくらいだったんだろうね。当然、紫式部もね、小野小町もね、自分の顔は知らなかった

 ガラスはね、眼鏡、顕微鏡、望遠鏡、車、テレビ、電球、携帯、光ファイバー、太陽光パネルと進化していくけどね。ぼくは鏡が一番興味深かった。だって、自分の顔が見えるということはどういう意識が生まれると思う?」

「こころの中で革命が起きた?」

「ハハハ、そうだ。自分と他人の違いがはっきりする。自分の手や足は見えても顔が見えるというのは訳が違う。自分という意識が格段に上がった。そう思う。他人の顔は見えていたのが自分の顔も見えるようになった。すごいことだ」

「なるほど。そんなこと思いもしませんでした」

「まあ、ガラスの利用法はいろいろとあるんだけどね。ぼくのしたいのはガラスで造形物を作ることなんだ。飾りだね」

「二酸化ケイ素はバリ島にはあるんですか」

「ないよ。輸入するしかない」

「バリ人を雇われるんですか」

「もちろんさ。バリ人は初めてガラスを作る技術を手にするはずだ」

 バリ島でガラス窓を見ないのもそういうことだったのか。そうか。昔の人は自分の顔を知らなかったのか。イヤリングをしても見えなかったのか、自分を可愛らしく見せる技もなかったのか。それは奇妙な世界だ。五臓六腑が見えないのと同じだったのか。肛門が見えないのと頭が見えない。顔も見えない。それが見えるようになるということは哲学的にはどういうことを意味するのだろう。自我の発生? そうなの。誰か教えて。バリ人が没個性に見えるのも鏡の歴史が短いからなの。

 マキはそんなことを思いながら、喋り続ける牛島の声が遠くで聞こえるような気がした。

「君はインドネシア語ができるのかい」

 マキは我に返ったように、

「あっ、はい。でもバリ語はできません」

「みんなインドネシア語を喋るんじゃないのかい」

「ホテルの人はみなインドネシア語を話しますが、一歩外に出ればバリ語を使っています。都会ではインドネシア語を話す人がほとんどになってきましたが」

「でも、私、バリ語覚えるのに時間はかかりませんよ」

「ほう、どうしてだい? 」

「私、外国語を覚えるのは得意なんです」

 あら、自慢してしまった。そんなこと言ったことないのに。マキはしかし堂々としていた。あったりまえじゃないの、という顔つきもした。

「そうか。それじゃあウチで働かないか。ホテルは正社員じゃないんだろ」

「もうすぐ契約の更改です。ホテル側は一応すでに更改する意思があるようです」


マキは知性の魔法にかかったように契約更新を止め、牛島の工房で働くことにした。バリ島の奥地に住居を求めた。工房は海岸近くにあるが、マキはジャングルの山間の一軒家を探した。そういう生活をしたかった。アパートは煩かった。借家はすぐに見つかった。月三十万ルピアを一年分払った。家主は五年分と言ったが、粘り強い交渉で一年前払いにしてもらった。ここから牛島の工房に通うことになる。

 牛島の指示のもと工房の立ち上がりを手伝った。のんびりとしたバリ島の大工さんは予定より二ケ月も遅れて完成した。牛島は急かせるのだが、どうにもならない。ガラス製作に興味があったわけではない。デンパサールという都会から出たかったこともあった。牛島の知性に接することも栄養分だと思った。それにバリ語を獲得してしまうこと。バリ語はカースト制そのものの言語である。バリ語の敬語は三種類に分けられ、話す相手との身分差によってそれぞれ使い分ける。日本語も複雑であるがバリ語はそれ以上である。動詞に限らず名詞にも、全く異なる単語が多くあり、使い分けが難しい。しかも、それを間違えると大変な失礼になるとされる。このため、若いバリ人らは、普段接しない身分の相手とはバリ語で話すのを避けて、あえてインドネシア語を使う。この傾向はインドネシア語教育によってますます高まっている。

 マキはとうとうバリ島の奥、深いところに来たことを喜んだ。都会はもういい。空気も悪いわ。鼻毛も伸びるわ。セックスも、う~ん、要らないわ。



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