第2話 決意
二 決意
一九九八年八月十日。工藤成一はバリ島、ン・グラライ空港に降り立った。家族で三回、仕事で二回来たことがある。空港は丁子の匂いがした。入管で長い列に並んだ。列の脇には長い観光パンフレットの陳列棚がある。エステ、マリンスポーツ、レストランなどのパンフや雑誌が並んでいる。一時間ほど経ってようやく入管を通過し、荷物を取りにいく。次は税関。問題もなく通過し、両替をする。出口に向かう。出口を出ると湿気で顔がべたつき、汗も出始めた。
イダ・バグス・スパルサが出口で待っていた。温和な男である。ホテルオベロイに二回滞在したときに、知り合った。
「久しぶり。プトゥリやイダの様子を見に来たんだ。元気かい? 」
イダとの会話は英語である。
「ちょっと一服させてくれよ」
イダの車に乗る前にタバコを吸う。イダの車の中ではタバコは吸わない。
ン・グラライ空港をあとにして、空港近くのクタのホテルに向かう。途中、プトゥリの仕事具合を訊いた。驚いたことにイダもプトリの下で観光運転手として働いているらしい。工藤成一とイダは英語で喋る。
「客は来るのかい?」
「たまにね」
「給料は幾らだい?」
「ドル払いで十ドル」
千円か、と成一は思い、
「あとはチップか。どれくらいある?」
「今のところほとんどありません」
プトゥリはタバナンの宮殿の元王様の娘である。ホテルオベロイに勤めていて、退社。一年前に自分で旅行会社を起こした。
ジャカルタでの暴動でスハルト政権が倒れたというニュースは知っていた。しかしバリ島は観光客で溢れ、いつものバリ島のように思える。しかし輸入品は値上げする一方だとイダは言う。
バリ島も少しずつ車が多くなってきている。しかし信号はひとつない。相変わらず変わらない風景である。クバヤとサロンの女性が道路の端を頭に供物を乗せて歩いている。寺院に向かっているのだろう。バイクに妻と子供二人を乗せて走っている家族。運転する男は頭にウドゥンを被り、下はサロンに革サンダルである。バイクがやたらと多いのは変わっていない。
道に放り出された大木や石。オーストラリア人達が買っていくという。わざと古いように見せる。そんなものを好むのだと言う。クタは日本で言えば新宿あたりのような繁華街であった。ここにはホテルも多い。ホテルらしい門構えがないのは悪霊が入ってくるためにわざと道路に面して玄関を作らない。悪霊が侵入するのを防ぐのに、わざと玄関を奥まったところに作っていた。
ルピアの下落で観光旅行の絶好のチャンスが来たとプトゥリは思っているのだろうか。
「今日はもう遅いから明日は九時にピックアップしてくれよ。一番にプトゥリの事務所に行きたい。トゥバンだったね」
「クドウさん、何しにバリ島に来たのですか? 」
「・・・明日話すから」
プトゥリの事務所はどうやらうまくいってないようだった。プトゥリのようなお嬢様で、しかも高級好きな女性は高級なホテル、高級な旅行プランを売りに出しているのだろう。
成一はホテルのレストランで一人物思いに耽った。
さて、どうするか。バリ島で何をするか。一応頭の中には「観光雑誌作り」をぼんやり考えていた。六泊して帰る。リゾートで来ていたときのようにのんびりはできない。成一は何か事業を起こせないかと思って来ている。竹の楽器リンディックののんびりした音楽がかかっている。自分を知る者はイダとプトゥリしかこのバリ島にいない。イダは十ドルの基本給では結婚もできないことだろう。イダ・バグス・スパルサ。旧カースト制度では最上級の僧侶階級である。今もその意識は根強いが、インドネシアの独立で戦後、カースト制は法律上廃止された。しかし、イダは言う。「運転手しているのも修行のひとつ」。プトゥリは貴族階級であり、お姫様である。何度かプトゥリの父親がいる元宮殿に行ったことがある。成一が発行者である雑誌でバリ島の音楽を取材し、録音をしたとき、プトゥリの父親は昔タバナン地域の王だったときの人脈で、めったに聴けない神の楽器ガンバンや口琴を交えた演奏、女性が天に染み入るような声で歌うバリ島の伝統歌ギナダなどを取材、録音させてもらえる手配をしてくれた。成一は満足な取材することができた。プトゥリと彼女の父親のおかげだった。
タバナンの宮殿では観光客用に団体客を相手に宮殿パーティーも催していた。宮殿には日本の元首相の写真なども飾ってあった。宮殿パーティーが開かれると村人も総出で手伝うようだった。楽器演奏。花びらを振り撒きながらの出迎えの踊り。子豚を丸ごと焼いたバビグリンを棒に吊るして恭しく二人で運んでくる。食事が終わると、少女たちのレゴンダンス。仮面劇。憑依した男たちのファイアダンス。剣を胸に突いても血も出ずに幕は閉じるのだった。村人たちもダンスが始まると周囲から見物していた。成一は正直この松明と闇、化粧をして着飾ったバリの女性の衣装。その女性たちが客に花びらを撒く趣向。元王の威厳と厳粛に始まり、徐々にこころを解放させていく演出に感心した。
プトゥリはこの宮殿のパーティーも売り物にしたいらしかった。
生来、楽天家である成一は、紫色に染まるプールサイドと立ち並ぶ椰子の木の風景を見て、おれも修行中なのかもしれない。どんな試練にも、どうにか耐えていくしかないと思っている。成一には悲壮感のようなものはなかった。
ホテルの中にある店も点検してまわった。何が売られているか。いくらぐらいか。まだまとまりのない頭の中だった。七日の間で何か啓示のような、ピンと来るものが落ちてくるものだろうか。そういう点では成一は自信家であった。
翌日、緑で溢れ、小鳥が囀る中で朝食を取った。朝の涼しさは成一にゆったりとしたそこにある自然に包まれている安らぎのようなものを与えた。
イダが九時ちょうどにピックアップに来た。イダは普通のスラックスに襟シャツ姿だった。プトゥリには前もって連絡してある。
「イダ、君は十ドルでやっていけないだろう。どうするんだ」
「プトゥリがドイツへ行き、営業をかけ、フランスに行き、オベロイの滞在客だった人をあてに営業をしてきたのです」
「効果は? 」
「まだありません。毎日暇」
「従業員は何人いるんだい? 」
「三人」
「不安か? 」
「結婚できない、ハハハ」
イダは敬虔なヒンズー教信者である。まだヒンズー以前のバリ島の伝統宗教も強く意識し、まぜこぜになったバリヒンズーに何の疑いもない。剣で胸を刺しても人間のなせる精神は剣をも通さないものであると思っている。彼は元首都であったシガラジャ出身である。シガラジャには多くの若者を食わせる力はもうないのである。戦後の新しい首都デンパサールに各地方から若者が働きに出る。イダもその一人である。
イダは村の行事がある度に必ずシガラジャに帰って行事に参加する。バリ島は寺院の行事や共同体村落の行事も多いし、冠婚葬祭もある。仕事よりも優先事項である。プトゥリのような事務所なら精々二人の従業員でいいはずが、だれかれと行事で休むため、代わりのスタッフが要るのである。シガラジャの高校でイダは成績が二番だった。一番になれたものが大学へ無料で進学できた。彼は大学進学をあきらめて、デンパサールへ働きに出た。弟も同じであった。
成一はイダを信用していた。イダの方が温和であったから相性が合ったのかもしれない。何も難しいことを言い合わなくても、考えや宗教や思想が違っても相性というのは飛び越えて人と人を結びつけるものだ。
成一には信心というものがなかった。しかし好奇心が強く、イダが運転している時にも車窓から、あれはなんだ、なんのためにやっているのだ、巨木信仰もヒンズー教なのか、いろいろな質問をする。イダはそんな話が好きで、成一には一生懸命になって説明した。
「久しぶり。プトゥリ」
ガランとした事務所にイダの他、男性と女性が二人いた。プトゥリの部屋は別にあった。社長を気取っているのだろう。
スーツ姿のプトゥリは明るい調子で、成一を歓待した。相変わらずスタイルが良い。ロングヘアも艶々としている。プトゥリは、自分の旅行会社は高級旅行会社なのだと自慢げに語った。現地旅行会社は観光客をもてなす側である。プトゥリには送り出す側との提携営業をするか、ツアーではなく、グループか個人で来る客をバリ島で捉まえるしかなかったはずである。ヨーロッパという漠然とした先進地域を好んだプトゥリはヨーロッパ客を獲得したいと思っているようだった。
バリ島に来る観光客で一番多いのがオーストラリア客。二番目が日本人客であった。ヨーロッパから観光客は来ていたが、ほんの少数と言ってよかった。それがなぜ、ドイツ、フランス? と成一は首を傾げた。
「プトゥリ、イダを貸してくれないか」
単刀直入に成一はプトゥリの目を見て言った。
「バリで何かやってみたいと思っている。イダの給料も聞いた。チップが無ければ十ドルではやっていけないよ」
「具体的に何をしたいの?」
「ちょっと考えていることがある。それができるかどうかは調べてみないとわからない。しかし人がいないと調べもできない。決めることもできない。それにイダとは相性がいい。車の運転手ならいくらでも探せるだろ。いざとなれば外注すればいいんだから。プトゥリが基本給払って抱え込む必要はない」
「まあね。で、どのくらいの期間?」
「半年はどうどうだろう。そのとき君の会社がどうしてもイダが必要というのなら、イダにはここに帰ってもらう」
「いいわ。私からイダに言う?」
「それの方がいいと思う。できるだけ君の力にもなるよ」
スレンダーで美人。プトゥリは噂によるとバリ島で初めて離婚した女性だという。兄は銀行を経営している。
「ぼくは日本とバリ島を行ったり来たりする。日本では「あれこれバリ島、発見・発掘」というホームページを作る。そこにはあらゆるバリ島の情報を載せる。それは僕がつくる。宮殿のパーティーも宣伝するし、受付もする。結婚式もやったらどうだい?」
「結婚式? それはいいアイデアね」
「でも結婚式の写真がないとだめだな。見本の写真がいるね」
「それはなんとかするわ」
「あと宮殿の場所。アクセス。宮殿の歴史。結婚式の順序。着付け。披露宴の内容。食事の内容。時刻に料金、営業日・・・のデータが欲しい。ぼくのほうはプトゥリから提示のある料金に二十%上乗せする。日本では結婚式はお金がかかる。バリ島だったら新婚旅行もできて結婚式もたいへんな安上がりになる。きっと来ると思うよ」
「わかった」
話はすんなり決まった。プトゥリはイダを呼んだ。
「イダ、今日からクドウさんの仕事を手伝って。ここはいいから。給料も労働条件もクドウさんと決めて」
イダは驚いたようだが、プトゥリに、
「それでいいのだったら、そうしますが」
と言って、成一の方を見た。成一はすでにバリ島でする第一番目の仕事を決めていた。それは今日の朝の光の中で思いついたものだった。
イダがプトゥリの部屋を出て行った。
「ありがとう。プトゥリ」
「私も苦しいから。イダはいい人だから」
「わかっているよ。イダに失望はさせないよ」
成一はプトゥリの部屋を出ると、事務所にいた男が、
「私、イダ・バグス・オカと言います。私もミスター・クドウと一緒に働かせてください」
ハンサムである。濃い顔をしている。目に強さもある。必死の売り込みである。イダと同じ境遇なのだろう。彼は事務所で客からの電話を取って、手配をする担当としてプトゥリに雇われていた。困ったことになった。
「プトゥリは困るんじゃないか。二人もスタッフが抜けたんじゃあ」
「いえ、プトゥリなら代わりはいつでも探せますから」
プトゥリも仕事が無かったとしても、十ドルぽっきりではなく、もう少しあげればいいのに、と成一は思うのだが、プトゥリはお姫様気分で、十ドルが当たり前、良い客が来るようになればいっぱいチップをもらえるのだから、という風に思っているらしかった。
「それはぼくからの申し出はできない。気まずくならず、喧嘩にならず、ちゃんと話を自分でしてくれるならね」
成一はこのオカも雇っていいと思った。これからすることに必ず二人の男が必要だ。イダは温厚で静かであるが、オカはその反対で要領よく口調もややきつかった。目にも強気の輝きがあった。
成一の新たな運命がカチッとひとつ前に動いたのだった。
太陽が激しく照る外に三人で出た。外は行き交うバイクの音と排気ガスで充満している。
隣のカフェに入った。
成一はするべきことをすでにしっかりと頭の中で整理していた。二人は成一がどんなプランを言うのだろうか、そして自分たちはいくらもらえるのだろうかと複雑な心境だっただろう。
「バリ島には音楽を録音するスタジオはあるかい」
「スタジオ? わかりません」
オカはイダに知っているか、とバリ語で言っているらしい。
「まず、オカ、ちょっと調べてほしい。今から、電話番号帳で。待っているから。それがないとスタートできない。音楽CDを作りたいんだ」
不愛想な女性がコーヒーを運んで来た。飲みながらオカが来るのを待った。バリのコーヒーはまずい。香りというものがない。それに上澄みを飲むのだ。
「あるよ。住所もわかった。電話をしてみたよ。有名なバリの流行歌手スギタがやっているようです」
まだ出会ったばかりなのだろうか、緊張した面持ちでオカが報告した。
「そうか。それはラッキーだ。伝統音楽のリンディックとグンデールをCDにして、ホテルのドラッグストアで売りたい。ガムランのようなガチャガチャするのではなく、癒されるような音楽だ。ついては、バリ島で一番の演奏グループを探し、スタジオで録音する。そしてそれをCDにする。ホテルで売っているのはカセットテープばっかりだ。CDを見ない。
「町中にはちょっとはあるけどね」
「バリもCDの時代がすぐに来る」
「とりあえず二種の音楽を千枚ずつ作ってホテルで売る。ホテルとのパイプができたらまた新しい何かを提案する。どうだい、この考えは? 」
「いいですね」
「イダはどう思う? 」
「わからないけどやりますよ」
「それじゃあ、早速オカは一番のグンデール奏者、とリンディック奏者を探し、説得しスタジオを確保、日程を調整してほしい。ぼくのいる間がいい。彼らの都合のつく時間帯でいい。六日以内だ。イダは中古の車を買って来てくれ、ミニのワゴン車がいい」
「とりあえずはぼくのサヌールの家を事務所にするといいですよ」
オカは調子がよい。
「CDのカバーデザインはパソコンで送るから。スタジオに聞けば、大量コピーをし、パッケージ化してくれるところはわかるだろう。ぼくは録音が終わったらすぐに帰る。
給料は一人とりあえず百万ルピア。約百ドルだ。いいかい? 」
二人は頷いた。これが行けるとなったら、給料は上げるつもりだった。
「支払いはルピアがいいかい、円? それともドル? 」
二人とも「「ルピアにしてください」とやる気がでたような顔で答えた。
「よし、それじゃあ、車を買うまではプトゥリの車を借りよう。ぼくがリース料を払っておく。これからかかる電話料はオカに払えばいいね。イダは経理もやってくれ。かかった経費の領収証保存とノートに支出と収入のメモを書けばいいだけだ。様子を見て事務所を借りる」
イダとオカは早速演奏者グループを探しに出た。たぶんアテはあるのだ。そこで、了解をもらえれば、スタジオを予約する手筈である。成一はクタとレギャンの通りを歩いてみることにした。ミュージックショップがある。ほとんどと言っていいくらいテープである。数種類外国のCDが置いてあった。四店を見たがバリ島の音楽CDはなかった。
日本の日常から離れると、一切日本でのことを考えなくてよい。これは有り難かった。考えることが一つであると言っていい。カバーデザインにはバリ島の花模様の帯を入れよう。地の色は真っ白にしよう。ホテルで視聴ができるようにCDプレイヤーを置こう。在庫で相当数あったはずだ。因縁のCDプレイヤー。一枚のCDで十六時間かかるはずだったのに、十二時間で止まってしまう。大手電機メーカーのこのミスは成一の会社を休業に追い込む切掛けとなった。百台やそこら不良品があるはずだった。七十分の音楽CDをかけるのは何の問題もない。
短パンと上が裸で歩く白人。日本人らしきTシャツの男女。韓国人や台湾人と必ず区別がつくのは髪型やファッションや持ち物のデザインだ。様々な観光客がレギャン通りを歩いている。小さくて小綺麗な店が延々と両側に並んでいる。店に入って買い物をすると、時間がかかる。いくらだい、と訊くと、ふっかけてくる。成一は店の売り子が言った料金の三割を提示する。すると相手は値段を下げてくる。成一はとりあえず「ノー」と言う。おそらく定価は半分のはずだ。半分の値で売っても儲かるのだと推定する。要らないから帰ろうとすると、「待って、待って」と引き留め、半額の値を言ってくる。それでも帰ろうとすると、「わかった。それでいいよ」と向こうは折れる。成一の方も顔の表情を見る。限度に来たときに顔つきが変わる。そこで、ちょっとプラスして承諾を迫る。こういうやりとりが面倒でしかたがなかった。雑貨店、衣料店はほとんど値札が付いていない。ミュージックショップは値札が貼ってあった。値切ることもできない。成一は日本円にして二千五百円くらいで売ってみようと思っている。音楽CDは日本では二千八百円か三千円。二千五百円くらいなら日本人には安く感じるだろう。フランスやイタリアの客も安く感じるだろうと判断する。ホテル側に三割。買取りならば五割を渡そうと算段している。
きっとうまくいく。一点の不安もない。こういう時はうまくいくものだということを成一は体験上知っている。一抹の不安があれば事は上手く運ばない。その不安の箇所が大きくなって大きな穴のようになってくる。そしてやがて失敗する。
パダン料理のワルンに入り、ナシチャンプルを食べた。蒸しご飯の周りに好きなおかずを指さして、盛ってもらう。七千ルピア。日本円で七十円ほどだ。五千ルピアほどだったのが七千ルピアになっているからインフレが進行しているのだろう。どうやって味をつけるのか牛肉を粉砕したようなものに、ウコンやなにか香辛料でグツグツ似たものなのだろう。なんと呼ぶのかわからないが、これが旨い。魚一匹揚げたものも、鶏肉にタレを塗って焼いたもの、シャカンクンという青菜。一緒に甘茶を飲む。「テ」と呼んでいるらしく、成一も「テ」というと、その甘茶がボトルで出てくる。
バリ人は腹が減った時に食べると聞いている。だから地元の人を相手にするワルンにはいつも客がいる。持ち帰りする客も多い。
自信家の成一だった。会社で負った借金は二億七千万円だった。身軽になるには破産をするという方法もあったが、友人一人に保証人になってもらっているものもその中にはあった。破産すれば彼に迷惑が及ぶことになる。これは辛くてできないことだった。
常に新しいものを開発しては会社を伸ばしてきた。会社を休業する株主総会を開き、休業の登記をした。
周囲がドタバタしている時でさえ、成一は神戸で起こった中学生による連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇事件)の少年Aに衝撃を受け、その家族や生い立ちに興味を持った。関連記事を読みに図書館に行ったりした。前々年には阪神淡路大震災が起こって一瞬で大都会が崩壊した。
大企業のミス。それを責めなかった過剰な自信。株式上場の一歩手前で、窮地に陥った。政府はベンチャー企業支援策を行ったが、金融業界は金融自由化の混乱でそれどころではなかった。一九九五年から一九九七年は成一には徐々にずれていた社会の断層が地震となって現れ、中学生の精神にも大きく断層が軋んだ事件のように思われ、それはそのまま自分が経営してきた会社でも同じことが言えそうであった。大手電機会社の生産ミス。次いで、若い社員による開発商品の納期遅れミス。それ以後の成一の力不足。銀行と大手電機会社は救済で動いていたが、結局、大手電機会社が逃げた。銀行は債権をすぐにオランダの債権回収会社に売った。
少年の母親も一緒に少年院に入ることができる制度があったら、と成一はしきりに思ったのだった。この頃から日本社会は精神的な殺傷事件が多くなってきた。
自分の明日もわからない成一であるが、考えてもしかたがなかったし、差し押さえを逃れようとか画策もすることなく、すべて成一が持てる財産を処分し、丸裸になる。そこから再出発するしかなかった。債権者との話し合いの場には必ず出席する。「無いものは無い」と宣言する。譲渡禁止の株式をヤクザめいた男に売る者もいた。小指のない男がインテリぶって、株式の買い取りを迫ってきても成一は平気だった。俎板の鯉とはこんなことを言うのか、と「好きにしてくれ、煮ろと焼こうとなんでもよい。好きにしてくれ」と映画のセリフのようなことを言った。開き直るとその男は「気に入った」とか言って帰って行った。無いことは強い武器だと思った。
成一には著作物があったので、これを必要とする人が出て来て、成一は要望がある度に売った。それを生活費にあてた。高校生の娘と中学生の息子にはそんな会社の事情や生活の事情は一切言わなかった。噂は子供らの耳にも入っただろうが、これまでの方針通り、大学へ進ませる意思には変わりはなかった。
次のアクションを起こせるまで、しばらく日数がかかったが、少ない資金で事業を始められるのはバリ島しかないと思い始めたのは夏になってからであった。
ヘッドハンターの仲介会社から社長職を求めている会社があると紹介もあったが、雇われることがすでにできない人間になっていた。想像するだけで、頭を下げられない自分が、無理な挙措と精神を維持することはできない。成一は覚悟して事業を起こすしかないと思ったのだった。
イダはこんな事情は当然知らない。
イダはひとまず安心した。クドウのことはよく知っているつもりだった。毎年二回バリ島にリゾートに来る人。日本人はお金持ち。クドウさんは日本で会社を経営しているらしい。
イダに縁談が来ていた。イダ・バグスはバリ島の旧カースト制では最上位である。今は階級の違うものとも結婚はできる。しかし、慣習としてイダ・バグスはイダ・アユを嫁にもらうのが当然のことと思っている。しかい数少ないイダの階級から同じ階級の女性を探すというのは困難なことであった。十ドルでは結婚はできない。しかし、約二百ドルとなれば違ってくる。
オカを乗せて、ウブド方面にグンデールの名手を訪ねる途中で、二人は黙ってあの日本人、ミスター・クドウと一緒にやろうと思ったのだった。成功するか? なるようになるさ。
グンデールとは青銅楽器と笛の三人演奏である。繊細な音が響く。リンディックは竹楽器の二人演奏である。グンデールもリンディックもよくバリ島のホテルで出迎えのときなどに演奏されている。グンデールやリンディックの音を聴くだけでバリ島が思い起こされるほど特徴がある。西洋にはない音階で、終わりがないように思える。演奏すれば永久に初めから終わりがつながってまた回っていくという感じである。
グンデールの演奏者アグンの家を尋ね、尋ねて、ようやく探し当てた。気楽なものだった。バリの民家には必ず人をもてなす床がある。アグンと三人で座り、
「クタのスタジオで演奏してもらい録音したいんだ」
オカがそういうと、
「いいよ」
「ギャラはいくらだい? 」
「百五十万ルピアでどうだい? 」[
クドウがその値でOKするかどうか、ちょっとオカは考えたが、自分で即決した」
「イダ、いいだろう。おれは十分安いと思うよ」
「そうだね」
「よし決まった。それでアグンさん、リンディックのベスト奏者を紹介してもらえないか」
「いいよ。おれが選べばいいんだね」
「それでいいよ」
「スタジオの予定もあるだろうから、十四日か十五日で調整するよ。演奏曲名も書いておいてくれるかい。合計で七十分くらいになるように」
「わかった」
「それじゃあ、また連絡するから、電話番号を交換しておこうよ」
オカはてきぱきとしている。
「クタのスタジオに行くか」
「そうしよう」
イダとオカはスタジオを尋ね、十四日でも十五日でもスタジオが空いていることを確認した。また、流行歌手でこのスタジオのオーナーでもあるスギタがディレクターを引き受けてくれると言う。そう言えば、演奏ミスを逃すことがあってはいけなかった。スタジオ料は二百ドルと決まり、このスタジオからシンガポールにデジタルテープを送り、CDにするということだった。話は全く速かった。
成一はオカから報告を聞き、バリ島の人々のあけすけな気軽さに感心した。すべて了解して、オカは家に帰り、日程の時間の調整をする。スタジオのパンフレットにはメールアドレスも載っていた。デザインのやりとりも容易そうだった。
成一はホテルのカフェでひとり考えた。
写真が必要である。曲名と演奏時間の表記が必要である。演奏者グループとその名前。それに発売元の社名が必要である。バリ島のホテルにはンブルンブルという竹竿に長い直角三角形の幟が立てられている。これがなんだか気持ちがいい。この赤、黄、青の三つの幟をデザイン化して、とりあえずの会社名はバリ・ブック・ツリー、そうだBBTとしようと決めた。本の好きなおれだ。カフェを出て、部屋に行き、電話で友人のミサコにデザイン案を連絡した。
「三本の幟が揺らめくように。その下に book tree と入れてほしい。幾つか作って、そっち行ってから決めるから。とりあえず幟の写真を送るから」
インターネットカフェに出向き、ミサコに写真を送った。一枚の写真を送るのに相当時間がかかった。
オカから電話があった。録音は十四日、一時からということだった。
成一は帰国したらホームページを作ろうと考えている。ポータルサイトにしたい。バリの情報を満載したおおがかりなもの。旅行客の最初のゲートになるようなもの。その中で、バリに来るたびに「ぼくのバリ日記」を書こうと思っている。掲示板も作る。ホテルやレジャーの案内。航空機発着。バリ島で流行しているものも案内する。バリ島の伝統芸能。結婚式の案内。トランスポーテーションの案内。観光ツアーの案内。
録音までまだ二日ある。イダを連れてゆっくりとバリ島を見ておきたかった。これまでのような観光客の目でなく、ビジネスの目で見てみる。
バリ島の絵画もこれまでなんとなく見ていたものだが、調べると、最も古い、金色を豊富に使ったカマサン・スタイルの絵。バリの農村生活の人々やバリ島伝統の善の象徴バロンなども入り混じって細密画にしたようなバトゥアン・スタイルの絵。ウブド・スタイルでは、淡い色彩で、村人の生活がいきいきと描写されている。熱帯の花々と鳥を描いたプンゴセカン・スタイル、ポップアーティス風のヤングアーティストスタイルの絵などがある。個々の画家に独自風があるとは思えないが、外国人画家が入ってくることで、それを模倣し、それを重ねていくうちに伝統的なものと融合していく。稚拙な絵ばかりだと成一は思ったが、バリ島の香りも濃密な村の風景も上半身裸の人々の姿も、これぞバリ島というアピール度は相当高かった。
成一は家具作りや木彫り、銀細工、石彫なども見て回った。石も多種多様にあった。すべて見るものは「あれこれバリ島、発見・発掘」に反映させる考えだった。写真を撮り、メモを取った。
翌日は午前中の二時間ほど、ホテルのビーチから釣り船に乗って、手釣りをした。鯛を三匹釣った。他の魚の名前はわからない。
バリ島には様々な伝統的な芸能もあった。仮面劇があり、善の象徴バロンと悪の象徴ランダが闘う舞踊劇もあった。男性の声だけで、円陣を組んでコーラスをし、円の中では女性が躍る「ケチャダンス」もあった。圧巻は「レゴンダンス」であった。クルクルと回り、目をキロッと右へ左へと寄せては舞う少女たち。それらは夜に演じるものであった。
「ティルタ・サリ」という有名グループが行う舞踊劇を見に行った。バロンもランダもヒンズー教が入ってくる以前からあるいわば獅子舞の獅子のような顔をしている。ランダには牙がある。善なるバロンと悪なるランダは永遠に戦う。
成一はランダが手に持っている植物に目が行った。何だろう。何のために持つのだろう。武器であるならば剣でいいではないか。イダに尋ねた。
「デチュという植物で、解毒の植物だそうです。そう言えば湿地帯によく自生しています」
「解毒? なんでランダが解毒の植物を持って、バロンに向かっていくんだい。むしろ毒があるのはランダの方じゃないか。どういう複雑な論理なんだ」
「う~ん。よくわからない。何も考えずに見てきたから。サヌールの村ではランダを祀る。悪さをしないようにとランダの機嫌をとって祀るところもあります」
「ふ~ん。すると悪が善をなすわけかい」
「悪さをしないように祈る。ケチャのサルン、格子状に黒と白の部分があって、混じるとこが灰色。あれはポーレンと言います。人間には善の白と悪の黒があって、善も悪となり、悪も善となることを意味しています」
イダはこういう話が好きである。
「その話では植物の理解はできないな。あれは武器なんだろうね。善がもつ毒を抜いてしまうものなのかな。それとも自分を守るものなのかな」
成一は即断が速かった。
「イダ、君はあの植物を自生しているところから少し採ってきてくれないか。そしてオカは大学か図書館に行って、その植物について調べてほしい」
成一はバロンの顔、ランダの顔、ガルーダという炎のように光り輝き熱を発する神鳥。これは神の乗り物である。ガルダだったかガルラだったか奈良のどこかの寺で守護神としてみたことがある。街中の雑貨店には大きな仮面がどこにでも売っていた。この時、すでに成一の頭にはあるアイデアが浮かんでいた。
グンデールとリンディックの録音はスムースに行われた。演奏者たちは何の緊張もしないし、ほとんど失敗しなかった。ディレクターを務めてくれたスギタはしっかりと音を聴いて、わずかな失敗にも妥協しなかった。そんなことが三度あっただけである。
グンデールはバリ島の森や川、小鳥の囀り、朝の光、夕暮れの色彩を繊細に奏でたし、リンディックはのんびりとした心地良さを十分に演奏した。成一もしっかり聴き、CDにする曲順を決めた。
「オカは例の植物についてもっと詳しいことを調べてほしい。英語であればなおさらいい。ぼくはこの植物を乾燥させて持って帰る。そして日本でも調べる。それと、イダとオカ、バロン、ランダ、ガルーダ、王子とお姫様の木彫りをマグネットにしたいので、木彫りの村に行って、試作させてほしい。小さいのは作ったことがないだろうが、五ゼンチサイズのものだ。五センチ以内で作れなくても諦めさせるな。絶対できる。マグネット、わかるだろう。鉄板にくっつくやつ。気楽なお土産物にしたい。冷蔵庫のある家ならそこにメモなんかを貼るだろうからさ」
「知らないな。冷蔵庫はないものね」
「磁石だよ。鉄にくっつくやつ。丸い磁石がいい」
「探してみるよ」
「なかったら日本から送るよ」
「CDのデータはスギタさんに送る。彼がすべてをやってくれる手筈だから、できたら、また来るから。そこからが本格的なスタートだ。百のホテルと取引ができるようにしよう。オカはアポ取り。ぼくとイダがホテルに行って交渉する。それに会社にしようと思っている。その手続きもしたいので、手続きできる人も探しておいてほしい。ああ、それとCDプレイヤーを送るから。望むホテルがあったら試聴できるようにしたい」
成一は予定どおり夜中の便でバリ島を発った。帰りは名古屋まで七時間である。ひと眠りしたらもう名古屋に着いている。そしてまた尾鷲で憂鬱な日常が始まる。
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