うんぷてんぷ

本木周一

第1話

一 離れる

 

 田辺真希。二十六歳。ここでは真希をマキと記すことにする。それのほうがこの人物にぴったりとする感覚がある。バリ島の東海岸にあるバダンパイに仕事場があるので、そこからバイクで二十分の山間の一軒家を借りて住んでいる。日本のように台風が来ないから熱帯の雨期の雨さえしのげればよい。つまり家に屋根さえあればよく、壁は要らない。マキはそれで十分だし、家を快適なものにしたいと思ったことはない。家は数軒寄り添うように建った中の一軒家だった。共同の広場に通じる細いでこぼこの一本道以外はジャングルの草や低木や高木が生い茂っている。近隣の人はマンゴスチンやランブータンのような美味しい果物も育てているが、主に海岸に出て塩作りの労働をしていた。

 マキの両親は北海道にいる。父は有名な銀行の支店長をしている。母も健在である。小さい頃から引っ越しが多かったが、いつの間にか父が単身赴任するようになり、中学生になってからはマキと母のミチコは札幌にいるようになった。どうやらマキの両親は北海道の札幌が終の棲家になるはずだ。

マキは一人っ子だった。マキは小学生の頃は優等生だったが、中学に入って一種の不良となった。煙草を吸ってみたりした。親の言うことは無視した。高校にはなんとか入ったが、勉強もしなかったし、本ばっかり読んでいる高校生だった。他愛のない会話をするだけの友達は数人いたが、それ以上の付き合いはしたことがなく、生意気にも一人であれこれ考えるのが好きだった。人をあんまり信用していなかった。人の脳の中はわからない。マキの脳もどのように働いているか、人は知るはずもない。そんな風に考えていた。

高校を卒業すると就職先も決まらないまま東京に出た。とにかく親元を離れたかった。

 東京で安いアパートを借りる。安いアパートは探せばあるものだ。三万円。これなら暮らせる。

 アルバイトなどは職を選ばなかったらいくらでもある。マキはそうして二十二歳になるまで、自由に暮らしていた。自由と言っても、母が時々様子を見に来ては小言を言った。

 自分でも驚いたことだが、マキはこの五年の間で英語力が上達した。聞き取りもでき、話せるようにもなっていた。中高生の頃から英語だけは成績がよかった。語学というのは面白かった。マキの場合、英語の単語を覚えることも苦痛ではなく、ラジオの英語ニュースを聴いていてもわからない語彙はあるが、それは調べればいいだけで、ひとつやふたつ知らない単語が出てきても文脈から意味を推定することができた。スイスイと頭の中に入ってきては忘れることなく、そしてそれを次には使うことができた。マキは語学の能力が他の人に比べてあるとは思っていなかった。他人の脳がわからないように。ただ英語は日本語と違って、べったりと心情的ではないと思った。ひどく論理的と思ったし、とても平等性があると思った。相手と自分、第三者がはっきりしていたし、目的語もしっかりしていた。映画を見る。会話を覚える。英語を使って話もしたくなると、六本木あたりに出向き、外国人が集まる明るい能天気なバーに出向く。別人格になったような気にもなる。

ほっそりとして背は一六〇センチ。キリッとした美人ではなく、小さな目をし、小さな鼻で細面の顔に髪はいつもショートだった。  

 初めてセックスをしたのもそんなバーで偶然男から声を掛けられて、断る理由もなく、やる気満々の三十代らしき男と流れの中で起こったことだった。痛かっただけだった。その男は今度からは痛くないよ、とマキの髪の毛を撫でながら言ったのだった。しばらくその男と夜のバーで会い、セックスをして別れる。その男は嫌いではないけれど、好きというものでもなかった。英語の練習のためでもあった。セックスの練習のためでもあった。

その男はニューヨークのビジネスマンで、豊富な語彙と言い回しで、バーのカウンター席でもベッドの上でも饒舌にいろいろな分野のことを喋った。

マキは決して自分の内面のことや自分の育ち、背景などについては一切話さなかった。

 甘えることもしなかった。ある社会問題について、どう考えるか。興味をもつニュースについてどう反応するか。アメリカ人というのはどうして戦争好きなのか、そんな話題に持ち込んで男に喋らせ、ベッドの上で煙草を吸いながら考えたりした。三ヶ月程で彼はニューヨークに帰って行ったが、彼が話した内容は書物にすれば十冊くらいに相当するのではないだろうかと思う。アキの英語耳は大方の内容を聞き分けるようになった。ただ外国語の向上能力の限界は母国語をどのくらい扱えるのかという能力の限界と同じであった。つまり自分がどれほど難しい日本語の文が読め、話せるのかがそのまま英語力となるのだった。だからマキは哲学の本なども読んだ。難しい経済の本も読んだ。文学評論も読んだ。

 バーに行けば男を見分け、マキから誘うこともあれば、偶然気が合うのか、向こうから声を掛けてくることもあった。四十代の頭の禿げた男も、五十代のぶよぶよした男とも付き合った。男たちは時にお金もくれた。英語の勉強をさせてもらい、自分のヴァギナを使わせるだけでお金もくれるのだからこれはなんだろうとは思ったが、自分は体を売っているとは思わなかった。バーではやがてマキはコールガールだと思われるようになっていた。どう思われようともなんとも思わなかった。

しかしながらマキは自分の英語力を生かして英語が使える仕事につくことなど思いもしなかった。同じ作業だけを繰り返す機械部品のチェックのアルバイトで十分生活はできるし、本は図書館で借りればいい。夜になれば時々お金も入る。体を売るという感じは持ったことがない。マキは付き合う男の素性のようなものは敏感に把握することができた。変態野郎かどうか、カウンターからチェックしていれば分かる。

二十二歳になった時、マキはもっと遠くへ離れたいと思った。青魚のように遠くに行きたい。行くわ。そして行った。オーストラリア。一番遠いところ。オーストラリアをぶらぶらしていたら、砂と灌木とハエとトカゲとカンガルーの大陸にすぐに飽いてしまって、島に渡りたくなった。オーストラリアからティモール島、フローレス島などを経由してインドネシアのバリ島。バリの名前すら知らなかったからバリのイメージが全然頭になかった。ツーリストを惹きつける有名な観光地だったことは「ロンリープラネット」という旅の本で知った。それまではマキと同じような物好きなバックパッカーがちらっと寄るインドネシアの島の一つとしか思ってなかった。バリ島。居心地がよさそうに本には書いてあった。

観光ビザで入国し、安いコテッジに泊まった。安いコテッジと言っても日本のホテルのように狭く、窮屈ではなく、広々としていて、庭は丁寧に手入れされ、花々で溢れていた。プールもあった。時々停電するが、どうってことはない。お湯が出ない時もあるが、水で上等だった。

 インドネシア・バリ島は東京より贅沢な島だった。物が安いというのは贅沢だと思った。緑に溢れていて、花々がいたるところに咲いているのも、一年で三回も米が収穫できるのも、椰子の木のすべてが有効に使えるのも贅沢なことだった。マキには初めて来た場所のように思えなかった。既視感。昔見たことのあるような風景がどこにでもあった。屋台、暗い蛍光灯一本の店。農作業帰りの農夫やアヒル。田舎に行けば上半身が裸の老婦が桶を頭に乗せて歩いている。

就職先を探した。日本語と英語ができるスタッフが欲しいホテルもあるだろう。インドネシア語ができないと務まらないから、アキはインドネシア語を勉強することにした。インドネシア語には驚いた。易しいのである。マレー語を応用した新しい言語だということだった。インドネシアでは観光ビザの期間は三カ月だったので、三か月後にはこの島を一度出なければならない。シンガポールに出て、そこでまた観光ビザを発行してもらう。

 六ヶ月もすれば、アキはほとんどの日常会話ができるようになった。英語と同じようにマキは一度覚えた単語を忘れなかった。

体の芯が燻ると、バリ島にも数多くある外国人、特にオーストラリア人が集まり、売春婦も集まるプールバーに行く。時々、体の中のどうしようもないマグマのようなものを噴出させる。マキは男というのは尊敬もできなかったが、噴出の相手としては必要不可欠であることを不思議に思った。性的衝動 = リビドー。ドイツの心理学者フロイトの造語。性的衝動の基になるエネルギー。また、ユングでは、あらゆる行動の根底にある心的エネルギーを広くいう語だということをマキはまだ知らない。

就職先のホテルはすぐに見つかった。日本人客が増えているから、三か国語ができるスタッフは重宝だったのである。

 滞在許可証と労働ビザの手続きをするために、英文での戸籍抄本、英文での高校卒業証書、英文履歴書、それに身元保証書が必要だったので、マキは一度日本に戻った。親に身元保証書へのサインを頼まなければならない。

暑苦しい母は泣きじゃくって反対した。父は「しかたないだろう。マキの意思なのだから」と妻を宥めた。父もしぶしぶの同意だった。

書類を揃え、東京の大使館で手続きして、その日はスーツや靴などを買い、旅行者でなく、仕事人としてバリ島に発った。遠い所。このくらいの遠さならマキは物事を俯瞰して客観的に見えるような気がした。飛行機の中で、生まれてからのさまざまなことが思い起こされた。決して口にしたことのない過去。この過去と縁を切る。そう強く意識する。過去は頭のコンピュータ画面の一のファイルとしてしまっておく。消せるものではない。過去はしまっておくべきものだ。

 ウキウキした気分はなかった。ホテルはサヌールという海辺の地区にあったので、サヌールに地元の人々用のアパートに住む手筈になっていた。一九九五年。為替レートは一円が十五ルピア前後を行ったり来たりしていた。アパートは共同シャワー、共同台所で、月一万ルピア。十五ルピアで円に換算すれば六百六十六円。

サヌールは白人の観光客の多いところで、メイン通りには観光客用の店が並び、路地に入ると、地元の人たち用の店があった。この地区の人々は「悪の化身ランダ」を祀っていた。ランダを怒らせないように人々は心を配っていた。また地下にはブタカラという悪霊がいて、毎日道の上に小さな供物を置くのだった。ブタカラを宥めるのだろうか。

 ホテルはのんびりしていて、働く時間もきちんと守られていた。残業というものがなかった。朝六時から午後の三時までのシフトだった。翌月は午後三時から午前十一時までのシフトで月ごとに交替した。もう一人日本人のスタッフがいた。ホテルスタッフの中には片言の日本語を話す男性もいた。

契約は二年。契約終了の半年前には双方の意思を確認し合って更新かどうか決まる。

マキはいきなりコンセルジュの担当となった。お客様の相談に応じ、不便なくホテル滞在を楽しんでもらう案内役である。アメリカ系のホテルだったので、支配人はアメリカから来ていた。

 バリ島に関する書物も東京で幾冊か買って持ってきた。バリ島の文化を探るもの、観光案内に徹するもの。個人の体験談を本にしたもの。英語版の「地球の歩き方」みたいなガイドブックはバリ島で手に入れた。

機械部品チェックを黙々とするのとは違って、今度の仕事は人が相手である。しかし、一瞬の人である。長い関係性はホテル内のスタッフだけで、仕事中は一度会えば、二度と会わないであろう人達である。これは気楽だった。できるだけの情報を頭の中に入れて、客にサービスすればよい。

 マキはバイクを買った。バイクさえあればこの徳島県ほどのサイズの島であれば、どこにでも行ける。公共のバスは知っている限り、デンパサールからウブドまでのものがあるだけで、ベモというどこからでも乗れる乗り合いミニバスはサヌールの地域だけだった。バイクを持たない者には有難い乗り物サービスだった。

バリのフロントにいる女性スタッフたちは「作り笑い」をすることはなかった。笑う時は本気で笑うか、照れて笑うか、恥ずかしくて笑うかである。わざとらしい笑顔を作る必要がなかった。笑うことは一種の媚びを売ることにもなるという倫理観のようなものがあった。男性スタッフは逆にいつも笑顔で客と接していた。虫歯ひとつもない白い歯。作り笑いをしているとは思えなかった。サファリという正装の服。腰から下にはバティック(染物布)のサロンを巻き、足は皮のサンダル。頭にはウドゥンを巻いている。片方の耳にはフランジパニという内側が黄色く、徐々に白くなっている香りのよい花を飾っていた。その花はプルメリアともいう。客と接するときに笑顔を向けて、手を合わせる。

 マキはスーツでも勤務可能だった。クバヤというバリのブラウスに帯のスレンダンというバリ衣装で勤務してもよかった。マキはスーツを着て仕事をした。

マキの給料は日本円にして三万円ほど。バリ島の人の平均収入の五倍はあった。

バリ島は世界の有名リゾート地を目指している。学生たちは卒業すれば有名ホテルで働きたがった。給料がよかったからである。

バリ島に観光に来て、すっかりこの島に魅了され、商売を起こす外国人も多かった。そんな人々によって、バリ島で作り出されるものは西洋のセンスとバリ人のセンスが融合して、雑貨店、洋服店、インテリア店、エクステリア店、レストラン、バーなどが各地のメイン通りに並んでいる。

マキはキビキビと接客し、英語と日本語とインドネシア語を使い分けた。楽しい? うん、退屈はしない。

マキは男に溺れることも、ホテルスタッフと親密な関係になることもなく、淡々と仕事をした。アパートでは適当に人付き合いをして、バリ人たちと一時を過ごすこともあった。他愛のない話ばかりであるが、バリの女性たちはセックスの話が好きだった。

 日本で貯めたお金が二百万円ほどあったから、それはバリ島の銀行にルピアにして預けた。預けたというより貸した。その利息は14%もあった。マキはバリ島ではそこそこのお金持ちであり、高給取りの女であった。

熱帯の花、例えばブーゲンビリアは一年中咲き続ける。ひとつの花が終わると次の花が咲いている。ブーゲンビリアの寿命がある限り、咲き続ける。一年の内で四季をもつ日本列島。四季のない熱帯地域は毎日凝縮されて四季を繰り返す。ロータスもウォーターリリーも一年中咲いている。このエネルギーは何だろう。バリの瑞々しい朝露の匂いと光から朝が始まり、昼には太陽は燃え盛り、夜は闇のまた闇となるバリ島。太陽を嫌うように月を崇める人々。

 マキはこころの中にある四季すら懐かしいものだとは思わなかった。

一九九七年七月。タイで発生した通貨危機はインドネシアにも波及した。一晩でルピアが一円十五ルピア前後だったのが一円百ルピアにまで、ルピアの価値が落ち込んだ。インフレとなった。マキの二百万円の貯金はルピアに替えてあったので、激減した。二百万円が三十万円ほどになってしまったのである。

 しかしそれはあくまで日本円が減ってしまっただけであった。よく考えると、マキは日本に戻る気がないからルピアのまま銀行に預けておけばいいのだった。しかしそれが将来に渡って重要なことだとはその時は思わなかった。

インフレと言ってもマキにはたいしたことはなかったし、相変わらず、人々は朝に神々にお供えをし、寺院に出かけ、満月と新月になるとお祈りをし、フランジパニは咲き続けていた。日常のどこも変わることはなかった。ホテルはルピア安で、外国人が断然有利となり、旅行客は増え続け、連日満室状態で、支配人は嬉しい悲鳴で意気揚々としていた。大人で、ちょっと知識のある者はルピア貯金ではなくドル貯金をしていたので、うまく危機を回避していた。この点ではマキはまだ疎いところがあった。まあ、いいわ、と思えるのは若さゆえの無知という特権でもあった。


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