第16話

家の前まで来た時。

「じゃあ…」と言って家に入ろうとすると、カズの手が私の手首を掴んだ。

「ハル」

熱い、いつものカズの手。外灯に照らし出された顔。まっすぐな瞳。

「俺たち、ちゃんと付き合おうぜ。」

心臓が、ひとつ、大きく跳ねる。

ずっと、待っていた、言葉。

「俺、ハルが好きだ。」

私も。

私も好きだよ。ずっと、押し入れに二人で隠れて身を寄せていた頃から。

でも…私たちが、別れたらどうなるんだろう。

別れてから、どうなったんだろう。

「私…」足元に目を落とす。

「ハル」呼ばれて視線を戻すと、不安そうな顔がそこにあった。

今、この顔をさせているのは、私だ。

「考えといてよ。」消え入りそうな声で、それだけ言って、カズは自分の家へ帰った。呼び止めなくては、と頭の片隅で思うのに、それが声にならない。

玄関先でもう一度カズが振り向く。

私はやっぱり声に出せない。足も出ない。夢の中にいるみたいに、自分の体が思い通りに動いてくれない。

神様、どうして、私たちは別れたんでしょうか。


私たちの未来が見えることに何の意味があるんだろう。

あれを見なければ、私は喜んでカズの彼女になっていたと思う。

正直、言われた瞬間、別れたらどうしよう、なんて不安に思っていたことも一瞬で吹き飛ぶぐらいに嬉しかった。

けれど、28歳の私の喪失感を思い出してしまった。

私たちはどうして別れたんだろう。私は「本当は」どう思っていたんだろう。

カズには、誰かもう他に付き合ってる人がいたりしたんだろうか。


翌日の放課後、いてもたってもいられず、私はまた図書館にいた。

角の窓辺までくると、ソファにすでに前田くんが座っていた。

「来るんじゃないかと思って、待ってたんだ。」窓からの光で逆光になっていて、表情がよく見えない。

「うん。もう一度、未来に行くことができるなら、行こうかなと思って。もう、どうしても気になっちゃって。」髪を触りながら答える。

「だろうね。一度覗き見ちゃったら、気になるよね。」

「うん。」

前田くんの膝の上にはすでにあの本が置かれていた。

「実はね、僕もさっき試してみたんだよ。」

「え?」

「僕も未来に行けるかなと思って。」俯いた頭に綺麗なつむじが見える。

「で、い、行けたの?」

「うん…」笑顔ともおぼつかない表情をこちらに向ける。

「君は28歳だっけ?僕は…50代でさ、なんだろう。なんか…」そう言って、前田くんの目が少しうるんだように見えた。

「…なんなんだよ。まったく…」そう言って、また俯いてしまった。

私は訳が分からず、隣に座るしかなかった。

「見たくない未来だったの?」

「うん…いや、わかんない。」

「そっか。」それ以上は言いたくなさそうだった。

パンドラの箱、というやつなんだろう。未来が見えるなんて、甘い言葉で、見たら見たでそれに惑わされ、振り回されてしまう。

「うーん、50代、見たいような、見たくないような…」私は天井を見上げる。遠く、天井が見える。

「想像もつかないや…」沢山の蔵書が天井ぎりぎりまでおさめられている。こんなにも沢山の蔵書、集めるのも大変だったろうに…

「どうして、前田くんのおじいさんは、こんなに沢山の蔵書をこの高校に寄付したの?」

こちらに顔をあげる前田くんの顔にはやはり、少し涙のあとが見える。それには見ないふりをして続ける。

「F市の高校じゃなくて、この高校に何かゆかりでもあるの?」

ふっと息を吐いて、少し体から力が抜ける。

「僕のおじい様は、こっちの出身でね。」

「あ、そうなんだ。」

「うん。」

「それじゃあ、この高校の出身なの?」

「うん。小学、中学も高校もこっちだって。」

「へー。じゃあ、私と一緒かなあ。」

前田くんが私の顔から何かを読み取るみたいに、じっと見つめる。

「な、なに?」

「僕のおじい様には、幼馴染がいたんだ。」

「あ、そうなんだ。」

「おじい様は、幼馴染の女の子がずっと好きだったんだ。結婚したかった。でも、叶わなかった。その人は、もう一人の幼馴染が好きだった。二人は両想いだった。おじい様は、泣く泣く身をひいたけど、ずっとずっとその幼馴染を忘れられずにいた。やがて、結婚して子どももできたけど、ずっとずっと忘れられずにいた。その家族はどうなると思う?」

虚ろな目がこちらを向く。その目に背筋に冷たいものが走る。

「ずっと自分を見ない妻は、娘にずっと言い聞かせる。そうして育った娘も夫のことが信じられない。それを息子にずっと言い聞かせる。」

気がつけば、その一角には人気がなかった。

「そうして、僕は『幼馴染なんてクソくらえ』て思いながら育ってきたんだよ。」

身を引いて立ち上がろうとする。

「でもね、おじい様のことは好きだったんだ。」

虚ろな目が外れて、力が抜ける。

「いつも沢山の本に囲まれたおじい様の家に行くことが大好きだった。」

この図書館は元々、おじいさんの家の庭にあったらしい。広い庭の一角にあって、庭で遊ぶことも、図書館に入って遊ぶことも大好きだった。だから、この図書館がここに寄贈される時はずいぶん悲しんだ。秘密の本の存在も寄贈されてから知らされて、悔しくて仕方がなかった。自分を軽んじられているようで悲しかった。

「未来でね、僕には家族がいたんだ。娘の結婚式だったよ。まさかの。」

祈るような気持ちで、次の言葉を待つ。

「横で笑ってる女性は、知らない人だったんだけど…なんだか満足そうにこっちを見てるんだ」

もう隠そうともせずに、前田君の目からは次々に涙が溢れていた。

「…なんだろう。何があったんだよ。一体。」泣き笑いの表情になっている。

「よかったじゃない。何があったか分からないけど、幸せそうならよかったじゃない。」力を込めて言う。

未来に何があるか分からない。一部だけを切り取ったって分からない。

その一部分は幸せでも、本当は嫌なこともつらいこともあるかもしれない。

「僕のおじい様の幼馴染は、君のおばあ様だよ。」

「ええ!」

突然の言葉に思わず大きな声を出してしまう。書架の向こうからのぞき込む人の影がいて、安心すると同時に申し訳なく頭を下げる。

「知らなかったでしょ。」

「うん、全然…」

「おじい様が死んだ時、遺言で自分の遺骨を君のおばあ様に渡してほしいって残してたとかで、すごくもめてさ。うちの母親が半狂乱だよ。『そんなの許さない。お母さまが許すはずがない』って」

「おばあ様は…?」

「その前の年に亡くなってた。」

「そう。」良かったのか悪かったのか、私には判断できない。

「その様子が焼き付いてたから、あとでこっそり弁護士の人に頼んで一緒に連れて行ってもらったんだよ。」

小学生にしては勇気があるな、とその顔を見つめる。

「紫の布に包まれた小さな木箱でさ。そんな小さな箱になってまで、そばに行きたいと思った人はどんな人だろうって。どんな反応をする人なんだろうって。」

あ…

私は小さく声を漏らす。

「私、それ知ってる。」

「え?」

「その箱、知ってる。おばあちゃんが…」記憶の蓋を開ける。紫の、布に包まれた小さな箱。おばあちゃんの足元にそっと入れた。天に昇っていく白い煙。

「おばあちゃんが、死ぬ時に棺に入れてほしいって。」

前田くんの目が大きく大きく開かれた。息をすっと、一つ吸い込む。

おばあちゃんは、前田くんのおじいさんの遺骨を一緒に天に昇っていったんだ。

「そう…だったんだ。おばあさんはいつ亡くなったの?」

「去年。そういえば、おばあちゃんも言ってた。私とカズがお見舞いに行った時、『私にも幼馴染がいたのよ』って。お母さんに聞いたら、『ああ、それはおじいちゃんのことよ』って教えてもらったの。『二人はずーっと一緒にいるの』って。でも…そこには、前田くんのおじいさんもいたんだね。」


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