第3話
アオイちゃんの好きな人がお兄ちゃんであること。
それは、私の推測でしかない。
アオイちゃんは決してそんなことを言わないし、普段、態度にも出すことはない。
アオイちゃんとお兄ちゃんが二人でどんな雰囲気か?妹の私が見る限りでは、決して甘い空気ではない。学校ではどんな感じか分からない。
アオイちゃんがお兄ちゃんを好きかもしれない、とは親友のナツちゃんにも話したことがない。
人の恋路に口を出したら、馬に蹴られて死ぬというし(正確には人の恋路を邪魔するやつは馬に蹴られて死ね、だけど)、アオイちゃんが言わないことを私が言うわけにはいかないと思っている。
それぐらいに、アオイちゃんは私にとって崇高な存在だ。
おもらしの処理や、眠れない夜手をつないでもらったこと、風邪をひいたときにリバースしたものを処理してくれたこと。アオイちゃんへの恩義は計り知れない。
私だけではなく、小さい頃からみんなのまとめ役・世話役を買ってでていたし、学級委員や生徒会に従事していて先生からの信頼も厚い。加えて、大人も一瞬息をのむほどの透明感をたたえていて、私には自慢のお姉さんだ。
そんなアオイちゃんがお年頃になっても、浮いた噂の一つもない。多分告白は沢山されていると思う。
それゆえの、ただの消去法といえば消去法で、もしかしたら妹の欲目かもしれない。客観的に見れば、アオイちゃんみたいな完璧な人が、お兄ちゃんみたいなうだつの上がらない人間を好きになるわけがないのかもしれない。妹の願望、ともいえる。
ただ、あの、三年前のお通夜の晩、ずっとお兄ちゃんのそばで泣いて、泣いて、最後お兄ちゃんに見せたあの笑顔が私の頭から離れない。あの笑顔を見たことを誰にも言えずにいた。
その後から、アオイちゃんの目に「悲しみ」という生気が戻ったことも、アオイちゃんにとってお兄ちゃんの存在が大きいんじゃないかと思った理由だった。
一方で、お兄ちゃんがアオイちゃんをどう思っているか。
これは、アオイちゃん以上に不明である。
授業中は寝ていることが多くて、先生からは睨まれている存在。(と、お母さんがよくこぼしている)でも体育と美術では驚くほど活躍して、そのギャップによるものか、お兄ちゃんはわりにモテる。
小学生の頃は、お兄ちゃんの同級生のお姉さま方から、「あの
けれど、中学時代、高校生となり、兄もまた年頃になっても「それらしき存在」がちらついたことはない。
妹として知らないだけで、学校には「隠れ彼女」がいたのかもしれないけれど…私の見る限りはいない。
二人の様子はどうかといえば、よくも悪くも「ふつう」だ。
話さないわけでもないけど、色めいた空気は感じられない。
若干、老年夫婦の空気感すら漂っている。
ただ「うだつが上がらない」とは言うけれど、私にとって兄もまた自慢の存在で、群がってくる女子たちを見て「君たち、なかなか分かってるじゃないか」と内心思っている。確かに一見ぼーっとしているように見えるけれど、兄はとにかく優しい。小さい頃、私が好きなお菓子は全部くれたし(兄がぼーっとしている間に私が横取りしたともいえる)、兄はあまりおもちゃを欲しいと言わないので、祖父母からのプレゼントは大体私がもらっていた。
私に対しても、他の家族に対しても、他人に対しても怒っているところを見たことがない。
声を荒げているところも見たことがない。
そんな兄だから、カズも懐いてくっついて離れないのかな、と思っている。
そして、自慢の兄でもあるので、もしアオイちゃんが兄を好きならば、そんなに嬉しいことはない。
兄がアオイちゃんをどう思っているかは、やはり分からないのだけれど。
私がこうして夜、自分の部屋で数学のノートを広げながら、アオイちゃんとお兄ちゃんの今後について憂いていると、窓にコツコツと何か当たる音がする。
窓の外を覗くと、夜の道路、外灯の下に大きく手を振る人影が見える。
よく見ると、その影はカズだった。
窓をそっと開け「なに?」と声を潜めて聞く。
「ちょっと出てこいよ。」同じように声を潜めながらカズが答える。
私は足音を忍ばせて、階段を下りていった。
リビングでは父が晩酌をしながら、テレビを観ていた。かがんでその横を通り抜ける。玄関横のお風呂場で母がシャワーを浴びている音がする。さっき入ったばかりだから、長風呂の母は一時間は出てこない。
時刻は10時。夜、家を抜け出したりしたら、母から大目玉をくらう。
「どうしたの?」声を潜めながら駆け寄る。夏の夜の独特のまとわりつくような、それでいて解放されているような匂いがする。さっきのカズの匂いを思い出して、思わず頬がほころびそうになるのを止める。
「お前、もう寝るとこだったろ」そう言ってカズが私を上から下まで見る。私はスウェットの上下を着ていた。お風呂はもう済ましている。
「ううん。ちょっと勉強しようとしてたよ。」
「ほんとかよ。」疑わしそうな目を向けるカズ。
「で、何?お母さんに見つかったら怒られる。」
「花火しようぜ。花火。アスレチックまで行って。」
そう言ってカズが自転車のかごに入れた紙袋を見せる。夕方マーくんが持ってきてくれた紙袋。これだったのか。
「マーくんも来るの?」
「ううん。」
「じゃあ、ジュンくんとナツちゃんは?」
「来ないけど」
「え…」それって二人きりっていうことなんじゃあ…
「はいはい。乗って。おばさんがお風呂から上がる前に帰ってこないと。」
カズが自転車に乗り、後ろの荷台にぽんと手を置く。
「おばさんが寝るより絶対お前が寝る方が早いし、お前寝たら起きないし…。」
ぶつくさ言いながら漕ぎ出す。
夕方顔を埋めた背中が目の前にある。
夏の夜気に触れて、なんだか気持ちが高揚する。
急に恥ずかしくなってきた。調子がおかしいな。
私たちが住む緑ヶ丘団地の奥に、少し大きな「アスレチック公園」と呼ばれている広場がある。小学生の頃はここでラジオ体操をし、野山を駆け回り、虫を取って遊んでいた。駅から少し離れた団地だから、夜中にたむろするような輩もおらず、平和な公園だ。
夜の公園は私たちだけで、カズと一緒じゃなかったら絶対に来られない。
「お前、どんだけ怖がりなんだよ。俺のシャツの裾のびるだろ。」気が付いたら、私はぎゅっとカズのシャツを握りしめていた。私たちは入り口を入ってすぐのグランドのところで自転車を降りる。この先には土管の広場とアスレチックの遊具がある公園が広がっている。
「私、ちっちゃい頃、この公園でオバケに追いかけられる夢見たんだよ。」
「夢だろ。」
「ほら、あそこの入り口のところに、昔はドーナツ型の看板があったじゃん。そこの丸い穴のところに血みどろの女の人の顔が…」
「お前、わざわざ怖いこと言うなよ。」
私たちはひっついてグランドにあがる。
「早く早く。火つけて。じゃないと、怖すぎる。」
「お前、もう趣旨変わってるじゃん。肝試しみたいになってんじゃん。」
「もうっ早くってば。」
「分かったから。」
カズが、持ってきたバケツに水を汲み、ローソクに火をつけて立ててくれる。そこに花火を一本取り出して、火をつけて渡してくれる。
「やったー。」辺りが急に華やぐ。
怖い話をしていたことも忘れてしばらく夢中で花火をする。
小さい頃は親同伴でここまで来て花火を楽しんでいた。マーくん家族も一緒だった。カズのおばさんは、打ち上げるような派手な花火が好きで率先してつけて回り、子ども達を喜ばせていた。陽気なおばさんだった。
あっと言うまに花火がなくなって、線香花火が残る。
「俺、これ、嫌いなんだよ。」
「なんで、しんみりしていいじゃん。」
「しんみりするから、嫌なの。最後です感、丸出しじゃん。」
「じゃあ、最初にすればよかったじゃん。」
「そういう問題じゃないんだよな。」
ぶつぶつ言いながらも線香花火に火をつける。
赤い、丸い玉が徐々に上へ昇っていく。小さな火花を散らしながら、ゆっくりと。そして、やがてぽとりと落ちる。
落ちた瞬間、少しだけ辺りが暗くなるように感じる。
しゃがんで、丸い赤を見ながら、私たちはしばらく無言でいた。
「ねえ…」
「ん?」
「なんで…」今日は二人なの?なんで花火しようと思ったの?なんで私がマーくんのことを好きだと思ったの?
いろんな聞きたいことがあったけれど、私はそれらを言えずに飲み込んだ。
今まで、必要に応じて、というか成り行きで二人になることはあったけれど、敢えて「二人で」を選んだことはないし、こんな風に誘われたことなんてない。
「今日さ、マー坊が姉ちゃんに告白するって言ってたじゃん。」隣で丸い赤をじっと見つめながらカズが喋る。カズの横顔に赤いゆらめきが見える。すっと通った鼻筋が夜目にも際立って見える。
「俺、お前マー坊のこと好きだと思ってたからさ。もし、マー坊とねえちゃんが付き合ったら、お前、今日泣いてるかもしれないじゃん。」
それは、つまり、この花火で慰めようとしてくれてたってことか。
「ま、振られたけど。」そう言ってカズがぷっと噴き出す。
「ちょっと、笑ったらマーくんが可哀そうでしょ。」
「いや、だって…。」くっくっと笑う揺れで、あっという間に線香花火の赤い先が地面に落ちてしまう。最後の一本を終えたカズは立ち上がった。
「ねえ、なんで私がマーくんのこと好きだと思ってたの?」私も立ち上がって、聞く。
「なんでって…」カズが私の顔を見て、それから腕を組んで天を仰ぐ。難しい顔をして首をひねっている。私はじっとカズの横顔を見る。天を睨んだカズが「うわ。すげー星…」と呟く。見ると、空一面に星屑がちりばめられていた。
「ほんとだー。」
都会で生活なんてしたことないけれど、きっとこの十分の一も見えないんじゃないかと思う。
「私、こういう時、田舎っていいなあって思っちゃう。」
「うん。俺も。」
冬になると、更にこの十倍は星が見える。なんにも遮るものもないし、光があまりない田舎の上空では、光の粒粒が沢山見える。
「帰るか。」しばらく夜空を眺めたあと、カズが呟く。
結局、その後もなんで私がマーくんを好きだと思ったかの返答は得られなかったが、天を仰いで悩まし気な表情をしていた感じからすると、多分答えは「なんとなく」だろう。大体理屈で物事を考えるカズだけど、理屈で分からないことを聞かれた時、ああいう表情をする。
そういえば、私たちは誰を好きとかそんな話をしたことが一度もない。
家族みたいなものだからか。そういうことを聞くのが照れ臭いし、そういうことを聞いた瞬間に壊れてしまう何かがある気がしている。特にうちと中元家の兄妹の間では顕著だ。
私たちは、アスレチック公園を後にした。
その夜、私は、公園で遊んでいたころの夢を見た。土管に上って、みんなで追いかけ合っていたあの頃の夢。毎日のように、それぞれのお母さんが迎えにくるまで遊んでいた。
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