第2話 

カズの家に帰ると、お兄ちゃんが一人カレーを頬張っていた。

「おう、お帰り~」呑気な声。

はあ。思わずため息が出る。

「なんだよ。お前、兄ちゃんの顔見るなりため息つくなよ。」

「別に。」もう一度ため息をつく。

「なんだ、反抗期かあ?」

私は無視して、カズと私の分のごはんをよそう。流しには、アオイちゃんが食べた分がすでに洗って立てかけてある。

私たちは、こうして毎日一緒に夜ご飯を食べる。母は、父が帰るのを待って食べるからと私たちを中元家に送り出す。父が出張でいない時は、全員で我が家で食べる。「おばちゃんが一人じゃ寂しいでしょ」とはカズの意見だ。

「俺、福神漬け大盛ね~!」カズがダイニングテーブルから顔を覗かせて言う。

「はいはい。」

買ってきた福神漬けのほとんどをカズに載せてだす。

そこへ、マーくんが帰ってきた。リビングの入り口に立つマーくんの表情は色がない。

それを見て、カズが「お前、もしかして、もう言ったの?」と驚きの声を出す。コクン、とうなずくマーくん。

「振られたー!!!」そう叫んでその場にうずくまった。

やっぱり。

私は心の中で呟く。

「何?何?何の話?」どうやら何も聞かされていなかったらしいお兄ちゃんは話についていけていない。

「せめて帰りに言えばいいのに。なんで塾前なんだよ。」カズはカレーに卵を割りながら言う。目線はカレーからそらさない。それは振られた傷心の人間の話を聞く態度ではないと思う。

「だって、もう、今日言うって決めてたから、なんか、もういてもたってもいられなくってさ…」涙声のマーくん。

まあ、とにかく座りなよ、とテーブルに促す。

「えー何の話だよー」といつまでも話についていけない、お兄ちゃんにカズがかいつまんで話す。

マーくんがアオイちゃんを好きだったこと。もうすぐ体育祭があるから、後夜祭でアオイちゃんに告白する輩が沢山いると予想して、その前に告白しようと決めたこと。(アオイちゃんは、副会長でとってもモテるのだ)

「塾の前で、『じゃあ、ありがとう』って言うアオイちゃんの顔見てたらさ、何か今だ!と思ってさ。」

「今だ、じゃないでしょ。」私とカズが声を揃える。

「へー。アオイのこと好きだったんだー。」呑気なお兄ちゃんの頭をはたきたくなる。私はマーくんの分もカレーをよそって出す。

「で、アネキ何て?」

「…『ごめん』て。」

「それから?」

「ちょっと、そんな傷口を広げるようなこと聞かなくていいんじゃない?」

「…俺のことはそんな風に見たことないって。」

目に涙を溜めながらも、カレーをよそって口に運ぶ。食欲があるなら大丈夫だ。

「好きな人がいるってー!!!」ついに泣き出す。同時に口からご飯粒が飛びだす。

「ちょっ汚い。やめろよ。」自分のカレー皿をすかさず持ち上げるカズ。とことん薄情だ。お兄ちゃんも笑いながらお皿をよけている。

「まあまあ。元気だしなよ。マーくんなら、モテるだろうし。ね。アオイちゃんは…諦めるしかないよ。」

「…ハル、もしかしてアオイちゃんの好きな人知ってる?」涙目でこちらを見ながら言う。その目を2秒見て、思わず目をそらす。

「あー!お前、知ってるだろ!」マーくんが立ち上がっていう。

「ちょっと汚い。ツバもごはんも飛んだ!やめてよ!」

「誰?誰?」カズとマーくんが身を乗り出して聞く。私は必死で目をそらして、「本人から聞いたわけじゃないから言えない!」と断言する。もう、いっそ目をつぶって見ないようにする。

目を開けたら、見てしまいそうだから。

「絶対!言わない!」と宣言する私を見て、二人が追及するのをやめた。私が絶対口を割らないことを二人とも分かっているのだ。

カレーを食べながら、また泣き出すマーくん。涙と鼻水がカレーに落ちている。汚い…気もするけれど、器用に泣きながら食べている。心が痛むけれど、こればっかりはどうしようもない。マーくんは一体いつからアオイちゃんを好きだったのかなあ。私が生まれた年、マーくん家族がこの団地に引っ越してきた。マーくん、1才。すでに人懐こい性格を発揮していたマーくんは、よちよち歩きでアオイちゃんとお兄ちゃんの後ろをついてきていたらしい。

やがて同じ幼稚園に、私とカズが通い始めると、もういっしょくたに育った。時々、カズはマーくんのことを年上だと思ってないんじゃないかと思うことがある。アオイちゃんも多分もう一人の弟ぐらいに思っていたような気がする。でも、マーくんはアオイちゃんが好きで、おばさんが亡くなった時も人一倍明るく振舞って必死にアオイちゃんを元気づけようとしていた。

ひとしきり、泣いた後「アオイちゃんの顔、見られないから、もう帰るよ。迎えは頼んだ…」とがっくりと肩を落として帰って行った。


アオイちゃんは大学受験に向けて、駅前の塾に通っている。駅前の塾までは自転車で15分。車なら5分もかからない。

同じ高校3年のお兄ちゃんは、早々に東京の美大への推薦入学を決めていた。

お兄ちゃんは絵がうまい。うまい、では本当は失礼になるぐらい、上手い。

妹だから、そんな風に言ってしまうけれど。

去年、大きな賞を取って、その実績を持って学校から推薦してもらえたらしい。

母曰く「それしかない」お兄ちゃんは、たいして進路を迷うでもなく、それを受け入れのらりくらりと日々を過ごしている。(ように私には見える)


アオイちゃんも多分、東京の大学を目指している。

お兄ちゃんと違って、学費や生活費など細かく自分で調べ、その上でおじさんに相談していたのを見たことがある。


アオイちゃんの希望進路が東京だと判明したのも、マーくんを行動に移させた一因だと思う。見事に振られたけれど。


私たち幼馴染の中で一番年上のアオイちゃんとお兄ちゃん。アオイちゃんは私たちの中で一番しっかりしている、みんなのお姉さん的存在だ。

その対照的なのが、うちのお兄ちゃん。

しっかりしてるとは言い難い。何を言われてもへらへら笑ってるし、何をされてもじっとしている。柳みたいにふにゃふにゃしてる。

でも、昔から運動神経がいいのと、絵がめちゃくちゃ上手いので、誰からも一目置かれてた。私にとって、どんな存在かというと、なんだかんだで、母もお兄ちゃんには甘いから目の上のたんこぶ…になりがちだけど、お兄ちゃんのあの何にも頓着しない性格ゆえか、私もお兄ちゃんと一緒にいると居心地がよくて、大好きだ。

悔しいけれど。


小、中、高校と生徒会に所属していた優等生のアオイちゃんと、何に縛られるのも嫌いで部活動もずっと幽霊部員。でも、運動神経がいいから、サッカー部もバスケ部も野球部にも助っ人として試合には必ず呼ばれるお兄ちゃん。

しっかりもので頑張り屋のアオイちゃんからは、要領よく見えるだろうか。それともただただ頼りなく見えているだろうか。


でも、おばさんが亡くなって、ずっと泣かなかったアオイちゃんが、唯一泣いたのは、お兄ちゃんの前だった。

おばさんが亡くなったとき、私はずっとアオイちゃんにしがみついて、アオイちゃんより先に泣いてしまっていた。その私の手を握りながら、アオイちゃんはずっと目を大きく開いて前を見ていた。

お通夜の晩、大人たちが通夜振舞いをしていて、私たちは横の祭壇のある部屋で4人集まっていた。正面にはおばさんの写真。その周りには白い花。花。花。

部屋にお線香の匂いと百合や菊の花の匂いがむせるほどに漂っている。


カズはお兄ちゃんにくっついて、私はアオイちゃんにくっついていた。

何時間もそうしていて、私は、ふと尿意を感じた。もう夜中で、祭壇のある部屋からトイレまで少し離れている。私は知らない場所で夜、トイレに行くことが怖かった。もぞもぞしながら、アオイちゃんの方を見ると、アオイちゃんはずっと同じ態勢のまま、おばさんの写真を見ている。

その瞬間、背筋に冷たい風が吹き込んだように感じた。アオイちゃんは全然こちらを気にしていない。意識の中に私がいない。アオイちゃんは、ずっとずーっと意識がここになかったのだ。

アオイちゃんの意識がどうやったら戻ってくるのか、時間がたてば戻ってくるのか、今だけなのか、このまま戻ってこないのか…私には到底分からないし、何と声をかけていいのか分からなかった。私にはただ、横で泣いている以外、何も持ち合わせていなかった。

小学6年生のあの日。私は初めて自分の存在のちっぽけさを感じた。世界の中で、というよりも自分以外の誰かに対して、自分が持ち合わせる影響力というもののちっぽけさを痛感した。私では、ダメだ。

すぐにそう感じた。気が遠くなるような、自分への絶望感。

私は何の力もない。何もできない。

その時、私の様子に気がついて声をかけてきたのは、お兄ちゃんだったかカズだったか。結局カズがトイレについて行ってやる、ということになり私たちは手をつないで祭壇の前を離れた。

その時も、アオイちゃんはこちらを見ようともしなかった。

おばさんを亡くした心細さと、悲しさと、寂しさと、夜の斎場という不安感で、私とカズはしっかりと手をつないで歩いた。

幼稚園の頃以来、カズと手をつないだのは、あれが初めてだった。

あの時は恥ずかしい、とか嫌だとか全部吹き飛ぶほどの、それ以上の不安でいっぱいだった。夜の中に二人きり、取り残されたみたいな気持ちだった。

トイレに向かっている間、カズもじっと前を向いていたけれど、カズの心はまだここにあることが分かった。私はそのことに安心して、手をぎゅうっと握った。その頃は、まだカズも背が低くて、私と同じか、少し背が低いぐらいだった。その横顔を見ながら、ぎゅっと手に力を入れる。

カズがはっとした顔でこちらを見る。

私は多分、心細そうな顔でカズを見ていたと思う。だけど、カズはその顔を見ながら、なぜか困ったような顔をして笑った。

そして、次の瞬間、カズの顔がぐにゃりと歪んだ。一つぶ、カズの目から涙が零れ落ちた。そのまま、涙は大粒になった。私も堪えきれずに一緒に泣いてしまった。

カズの左手を握りしめながら。うーうー言いながら、泣いていた。

遠くで大人たちのすすり泣きも聴こえる。私たちは夜の静寂の中、みんないっしょくたになって、ただ泣いていた。私は頭の片隅で、アオイちゃんの目を思い出して、更に心配になった。

ひとしきり、カズと泣いたあと、祭壇に戻ってくると、アオイちゃんが、おばさんの写真の前でうずくまっているのが見えた。

その横で、お兄ちゃんがアオイちゃんの背中を撫でていた。お兄ちゃんが泣いている横顔が見えて、アオイちゃんの背中も大きく上下していた。

アオイちゃんも泣いていた。

通夜の時も、すっと背筋を伸ばして、憔悴したおじさんの横に立っていたアオイちゃん。あの時、お兄ちゃんがアオイちゃんに何かを言ったのか、それとも何も言わなくて泣いたのか、未だに知らない。

けれど、あの時、泣いたアオイちゃんを見て、私は心底ほっとした。

アオイちゃんの感情が戻ったことに。

このまま、ずっと私を見ることがないような気がしたアオイちゃんが、感情を見せていることに。

私とカズはしばらく斎場の入り口で、手をつないで立っていた。

気がついたら、いつの間にかお母さんが横に立っていて、アオイちゃんを見ていた。

アオイちゃんを見ながら、お母さんも涙を流していて、それを見てまた、私とカズも涙が出てきた。

体中の水分はもう出し切ったと思っていたのに、まだ涙は尽きることがなかった。

お母さんが私もカズも一緒に抱きしめてくれる。

黒縁の額に囲まれたおばさんの顔は、幸せそうに笑っていた。

その前の年、みんなでキャンプに行った時の写真。

アオイちゃんのすすり泣きが夜の斎場にいつまでも響いていて、私たちもそれを邪魔しないように必死で声を押し殺して泣いた。

私は、アオイちゃんが好きなのは、多分、お兄ちゃんだと思っている。







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