第3撃

 異世界に放り出されてから初めての朝が来た。

 シオリさんの部屋の『オシイレ』という物置の空間に、メル様は魔法で城の王室を再現し、僕もそこで寝泊まりをすることになった。こういうとき、メル様の上級魔法は実用的でありがたい。

 朝食は、シオリさん手製の『ゴハン』・『ミソシル』・『メダマヤキ』というおいしい料理をご馳走ちそうになった。魔族は食物をらなくとも、互いの精気を取り込めば生きられるのだが。

 それを説明すると、シオリさんは爛々らんらんと黒い瞳を輝かせた。

「精気吸収というのはやっぱりあれですか、性的なことですか!」

「そうだな。口吸いだけでも充分だが、深く交わればもっと――」

「朝からそういうお話を女性になさらないでください、メル様ッ!」

 だめだ、この魔王。早くなんとかしないと。

 そして、ダイガクと呼ばれる学術機関に出かけたシオリさんを見送り、用意されたこの世界での服に着替えた。軍服の上着を脱いだのと似た軽装だ。これなら、外を歩いても怪しまれることはないだろう。

 シオリさんの実家は、この国でも有数の服飾生産・販売の組織を営んでいるのだという。

 早朝から執事のような男が玄関先に現れ、彼女に言いつかったらしい荷物の箱を渡していた。

 そんな名のある家に生まれたのに、なぜひとりで暮らしているのだろう。

 その疑問を投げかけると、シオリさんは少し淋しげに笑んで答えた。


 ――わたしは、家から逃げたかったのです。


 その言葉の裏にどんな事情があるのかはわからない。

 けれど、今のシオリさんは幸せそうだ。感情表現も豊かだし、心根も優しい。楽しい日々を過ごしているのだろう。

 身支度を整えたメル様と僕は、この『アパート』という建物の周辺を歩いてみることにした。ダイガクがどんな場所なのか気になる、というメル様の意向で、シオリさんに書いてもらった地図を参考にして進む。

 この世界では『クルマ』や『ジテンシャ』という乗り物も道を走るようで、なるべく端に寄って歩くように、とあらかじめ指示された。

 元の世界では雪ばかり見ていたから、青い空に白い雲が漂っているのが、とても珍しかった。

 湿気まじりのあたたかい風が、髪や頬を撫ぜていく。

 途中、すれ違った老人が、小犬を連れて散歩していた。この世界にも同じ生物が存在していたのかと、少しうれしくなる。

 犬は首輪と紐でつながれ、主人の横をてくてくとついていく。

 その様子を、メル様はうらやましげに見つめた。

「平和だなぁ、この世界は」

「そうですね。兵器による破壊音も、まったく聞こえませんし」

「俺もあんなふうに首輪でつながれて、鎖や紐で縛られた上に監禁されて犯し尽くされたい」

「犬は飼い主にそんなことされないでしょうが、普通! それに、道端で卑猥ひわいなことをさらっと仰らないでください!」

「おまえが毎晩そうしてくれたら、俺は最高に幸せなのにな」

 やれやれ、とメル様はゆるくかぶりを振る。

 それはこちらの台詞だ。

 ふと思い出す。魔王城に伯父と勤め始めたばかりの頃、あまりの広さに僕は城内で道に迷ってしまったことがあった。戦略会議に出席した伯父とすぐに会えるはずもなく、とぼとぼとうろついていると、曲がり角で不意に誰かとぶつかった。

 あわてて謝って見上げたその人こそ、メル様だったのだ。

 めったに笑顔を見せないことで有名なメル様は、そのときも鉄壁てっぺきのような無表情だったが、僕の頭をぽんぽんと撫でてくれた。

 黙って歩き去るその後ろ姿も、幼い僕の目には頼もしく映った。

 あれが魔族をべるお方なのだ、と。

 伯父から後日聞いたことだが、メル様は大事な会議を放置して暇を潰していたらしい。それなら確かに、参謀殿から長々と説教されても仕方ない。

 今、こうして一緒に穏やかに歩いているのが、なんだか不思議な気分だ。

 楽だな、とメル様がつぶやいた。

「魔王とか人間とか戦争とか兵器とか、そういう余計なしがらみがないから、ここは楽だ」

「……そうかもしれませんね」

「俺はただのメルヴェルクスだし、おまえもただのヴィノルートだ」

「ええ」

「魔族と人間で争って何になる。住み分ければいいだけの話なのに」

 メル様のあお双眸そうぼうが、かすかにうれいを帯びる。

 彼は、好戦的な性分ではない。売られた喧嘩は買うが、いつも仕方なく応じるのだ。種族が異なるというだけでいさかいを起こすのは、理解できないらしい。それに関しては、僕も同感だ。

 メル様が亡きお父上を継いで魔王に就任してからは、人間の領土を侵略しないことを宣言し、軍内で彼の方針に反発する者が続出した。『魔族も人間も住む土地が決まっているのだから、あえて踏み込む必要はない』というのが、メル様の主張だ。

 それでも人間側は魔族の地に攻め込んできたし、血気盛んな同族も応戦した。気づいた時には、多くの命がうしなわれていた。

 雪の中でメル様に救われたあの日から、僕も生き残った数少ない同族とともに西大陸を渡り、北海の孤島に移住して城を新築したのだ。

 いつだったか、夜伽よとぎの最中に、メル様は切なげに微笑んで僕に願った。

 ――俺を殺せ、ヴィノ。もう疲れた。

 いやです、と即答した。

 できるはずがない、そんなことは。

 伯父と僕の命をつないでくれたのも、伯父の療養中に未熟な僕と剣や魔法の手合わせをしてくれたのも、ほかならぬあなたなのに。

 その命を摘めと言うのか。ご自分の生を放棄すると言うのか。

 メル様のしなやかな身体を抱きしめ、僕は誓った。

 ――あなたに危険が迫れば、僕がすべてを賭してそれを排除します。決してあなたを死なせはしません。ですから、どうか生きてください、メル様。僕を、置いていかないでください……!

 おまえは馬鹿だな、と微苦笑したメル様の瞳の蒼が揺らいだのを、今でも憶えている。

 ふわり、とどこからか飛んできた花弁が、僕らの目の前を横切っていく。


「俺は、ずっと逃げたかったのかもな。あのどうしようもない世界から」


 自分にも言い聞かせるようなメル様の言葉が、ずきりと胸を痛ませた。


  ▼


 太陽が空の中心辺りに昇った頃、ダイガクの正門をくぐると、学生らしい若い女性たちから好奇の視線を注がれた。当然だ。

 僕はさておき、メル様の凛とした涼やかな美貌びぼうは、よくも悪くも他者をきつける。

 警備の者も歩いていたが、僕らを学生と判断したのか、特に警戒されることはなかった。

 城よりはだいぶ小規模だが、角張った建造物が敷地内に建ち並んでいる。

 何の情報もなしにこの中からシオリさんを捜すのは、至難のわざだろう。

 来てみたはいいが、どうしたものか。

 そんな僕の悩みを余所に、メル様はどんどん進んでいってしまう。

 あわてて追いかけた。

「メル様、どうなさるおつもりですか」

「さあな。適当にうろついてれば、そのうちシオリに会えるだろ」

「またそんな楽観視を……。我々は正規の学生ではないのですから、たとえば教職員に尋問でもされては厄介でしょう」

「あのっ」

 不意に、横から小柄な女性二人組が、朗らかに声をかけてきた。片方が、手に持った紙を差し出してくる。

 両人の表情が照れているように見えるのは、僕の気のせいではないだろう。

 メル様と僕を交互に見つめながら、彼女たちは語った。

「サークルに興味ありませんか?」

「あたしたち、漫画研究部なんですけど。留学生さんも大歓迎ですっ」

「マンガ研究部?」

「なぁ、アリアケシオリって女を知らないか? 捜してるんだが」

「ちょ、メル様っ」

 何の脈絡もなくシオリさんについて訊くメル様に、僕は焦る。

 不審者扱いされたらどうするんだ。

 ところが、二人の女性は驚いたように顔を見合わせた。

「えっ、汐里のお知り合いですか」

「ああ、昨夜からあいつの家で――」

「わーッ! そ、そうなのです、我々はシオリさんの学友といいますか……」

「なんだ、そうだったんですかぁ」

「汐里にこんなかっこいい知り合いの方がいたなんて、知りませんでした」

「ね、うらやましい。さすがお嬢様、交友関係広いわー」

 危なかった。ひとり暮らしの女性の家に大の男がふたりも宿泊していると知れば、彼女たちは僕らを怪しむだろう。

 いつものことだが、メル様の言動には本当に精神力を削られる。

 安心したのか、彼女たちは僕らをマンガ研究部とやらの部屋へ案内してくれた。シオリさんもそこにいるらしい。

 長い机がいくつか並ぶその部屋で、シオリさんは椅子に座ってほかの学生たち――全員女性だが――と談笑していた。

 部屋の中央まで導かれた僕らに気づき、彼女はぱっと顔を輝かせる。

「メルさん、ヴィノさん! いらしていたのですね」

「ああ。こいつらに案内してもらった」

「ちょっと、汐里! このイケメンたち、誰なの!?」

「二次元? 二次元から来たの!?」

 学生たちは、昨夜のシオリさんのように興奮している。

 彼女の口からもよく耳にする単語だが、『ニジゲン』とはどんな次元なのだろう。僕らのいた世界とはまた別ということくらいしか、想像できないが。

 僕の横にたたずんだシオリさんは、微笑んで紹介してくれる。

「留学生のメルヴェルクスさんとヴィノルートさんです。父の仕事の関係で、以前お会いしたことがありまして」

「へぇ、そうなんだ。あたし、ちょっとしゃべったけど、ふたりとも日本語うまいよね」

「こんな美形が三次元にふたりもいるなんてねぇ。もう芸能人とかそういうレベルじゃないね、これは」

「くやしいっ、でも萌えちゃう」

「あの……?」

 状況が飲み込めない僕に、シオリさんは小声で楽しげに告げる。

「皆さんは、メルさんとヴィノさんのお美しさに見惚みとれていらっしゃるのです」

「は、はあ……」

 喜んでいいものだろうか。

 メル様はまったく興味がないようで、手近な椅子に座ってぼんやりとしている。

 その時、入口の扉から長身の男が入ってきた。

 背丈は僕と同等か、少し高い程度かもしれない。

 逆立った短い茶色の髪と鋭い三白眼で、お世辞にも人相がいいとは言えない。

「おいおい、何の騒ぎだ」

「あ、天王洲てんのうず部長!」

 うれしげに声を上げたシオリさんが、彼のもとに駆け寄る。

 どうやら、この『テンノーズ』と呼ばれる男が、マンガ研究部の代表者らしい。

「部長、先程の会議で、夏コミ原稿のテーマが決まりました!」

「そうか。よくやったな、汐里。で、どんなテーマだ」

「従者×魔王のBLです!」

「だからBLとGLは禁止だっつってんだろ! ファンタジーとか魔王受けとかは、俺も好物だけど! 漫研の部誌として出すんだからよ」

「そんなッ。だって、せっかくこの場にモデルもいらっしゃるのに!」

「モデル?」

 彼の視線が、メル様と僕に順番に刺さる。

 何度か交互に僕らを見つめる彼の表情が、次第に驚愕きょうがくに歪んでいった。

「なっ――なんだ、この美男子どもは! おい、汐里、こいつら何者だ!?」

「汐里の知り合いの留学生らしいですよ、部長」

「マジイケメンですよねーっ」

「なるほど。こいつらをサークルスペースに立たせとけば、客引きにもなるかもな」

「でしょう? そういうわけですから部長、従者×魔王のBLを――」

「だが断る」

「部長ーっ!」

 遠巻きに聴いていても、大半の言葉はわけがわからないが。要約すると、研究部の研究対象について揉めているらしい。シオリさんが必死にテンノーズさんを説得しているところを見ると、余程の重要事項なのか。

 彼女に衣食住の面でお世話になっている身としては、何か手伝いたい気持ちも湧いてきた。けれど、なかなか結論が出ない激論の飛ばし合いに、部外者が口を挟むのは気が引ける。

 メル様の横に屈んだ僕は、そっと耳打ちをした。

「メル様、シオリさんは窮地きゅうちに立たされているようです。僕個人としましては、彼女をお助けしたいのですが」

「好きにすればいい。俺もべつにシオリのことは嫌いじゃないしな」

「承知いたしました」

 そして、シオリさんに歩み寄った僕が声をかける直前、すれ違ったテンノーズさんがメル様の肩をつかんだ。

 思わず、身体ごと振り向く。

「おい、お前」

「……」

「っ、メル様!」

 メル様の危機――条件反射で、僕は自分の魔力から魔剣を生成した。

 空中に浮かんだ柄を取って素早く構えると、周囲がどよめく。

 しまった、と思わず歯噛みした。

 この世界で、しかも人間の前で魔剣を取り出してどうする。むしろ、戦闘能力を持たない者相手ならば、素手でも充分なのに。

 自分の愚かさが情けなくなる。

 けれど、銀色の切っ先を向けられても、テンノーズさんは動じない。

 メル様は、肩にかけられた相手の手に、そっと自分のそれを重ねた。そして、眼前の男を陶然とうぜんと見つめる。


「もっと強くつかんでくれ……握り潰すくらいに」

「は?」

「メル様、あなたというお方はぁッ!」


 だめだ、この魔王。早くなんとかしないと。主に性癖を。

 テンノーズさんは、横目で僕を見据える。メル様の肩に置いた手は外さないまま。

「なんだか知らねえが、剣を引けよ。こいつに危害を加えようってんじゃねえんだ。しかしお前は何か、こいつの執事か」

「執事とはまた異なりますが、護衛とでも申しておきましょうか」

「ご立派な忠誠心には敬意を表そう。だが、この国じゃあいにく銃刀法違反だぜ」

「ヴィノさん、ヴィノさん」

 つんつん、とシオリさんが僕の服のすそを軽く引っ張った。

 わずかに緊張した面持ちで、彼女は助言してくれる。

「この展開は個人的には非常にときめくのですけれど、皆さんが怯えてしまわれていますので……剣を収めていただけないでしょうか」

「っ!」

 確かに、周囲を見回せば学生たちは皆一言も発さずに硬直している。

 自分の行動のせいで、無駄に恐怖心をあおってしまった。反省の余地は大ありだ。

 テンノーズさんの纏う気迫も、相当のものだが。

「……申し訳ありません。非礼をお詫びいたします」

 固体である魔剣を魔力の光に変換し、てのひらから体内に戻す。

 安堵の吐息の音が、そこかしこで響いた。

「だーっはっはァ!」

 その次に聞こえたのは、テンノーズさんの豪快な笑い声だった。張り詰めていた空気が、一瞬で吹き飛ばされる。

「お前ら、面白えな! マジで二次元の住人じゃねえのか。けったいな剣まで出しやがって」

「ヴィノ、短気も大概たいがいにしろよー」

「どなたのせいだとお思いですかッ!」

 さすがに、メル様の揶揄やゆには反論せざるを得ない。

 テンノーズさんは、改めてメル様の肩を確認のように叩く。

「よし。この天王洲重樹しげき部長が、お前らの入部を許可する。ついでに、夏コミ本のテーマも、特例としてBLに決定だ!」

「本当ですか、部長! ありがとうございます!」

 シオリさんの声と表情が弾む。

 そうだ、僕は彼女の手助けをしようとしていたのに、何という失態。

 結果的に事態はいい方向へ動き、ほかの部員たちも喜んでいるものの、自分の不甲斐なさに泣きたくなった。

 つーわけで、とテンノーズさんがメル様と僕に向き直り、不敵な笑みをたたえる。

「これからお前らもこき使ってやるから、覚悟しとけ」

「それは楽しみだな。俺を性奴隷にして存分にはずかしめてくれ」

「メル様、お願いですから黙ってください」

「メルさん、ヴィノさん、ありがとうございます! 今後ともよろしくお願いいたしますっ」

「いえいえ、こちらこそ。ご迷惑をおかけ致しますが」

 シオリさんは心底うれしそうで、僕もつられてあたたかい気持ちになる。

 メル様の口許にも密かに微笑が刻まれていて、満更まんざらでもないようだった。


 もしかしたら、あの次元転移魔法は旅の出発点だったのかもしれない。

 当てのない逃避行で、なにが見つかるかはわからないけれど。

 少なくとも、メル様のそばでなら、新しい世界を楽しめそうな予感はしていた。

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