第2撃
近所のスーパーでのアルバイトを終えてアパートに戻るころには、濃紺の空に三日月が淡く光っていた。
五月末の風は湿気も含んでいて、もうすぐ梅雨が来るのだと教えてくれる。
ショートボブの黒髪や、桜色のロングスカートと同じ色のブラウスが、ゆるやかに揺れた。
アパートの階段をのぼって自室に着き、わたしはショルダーバッグから鍵を取り出して扉を開ける。
入って電気を
薄闇の中で、誰かが後ろからわたしの右手を軽く捻り上げた。革手袋のようなものに覆われた手で、口許もふさがれる。
ぞくり、と背筋を悪寒が駆け上がった。
「ん、んーっ!」
「静かに」
耳元でささやかれたのは、若い男性の甘い声。二十代前半くらいだろうか。
鍵は確かにかかっていたのに、どこから入ったのだろう。窓も、大学に行く前にきちんと閉めておいたはず。
誘拐された経験は、過去に何度もある。こういうときは、下手に抵抗しないほうがいい。
警戒しながらも、わたしはゆっくりと身体の力を抜いていく。
彼は、冷静に言葉を続ける。
「あなたは、この部屋の
黙ってうなずくと、彼は納得したのか身を離した。
わたしは、すぐにスイッチに手を伸ばす。
まるい蛍光灯の光に照らし出されたのは、2人の男性の姿だった。
わたしのそばにいる人は、長い金髪で碧眼。奥の和室に佇んでいる人は、黒髪で濃い
金髪の人は、黒髪の人よりも少し年上に見える。身長も頭ひとつ分くらい高い。
共通点は、両方日本人どころか現実離れしたとんでもない美形で、黒い軍服を纏っていることだ。
自分の肩から、バッグが床にずり落ちた。
「いい男ふたりもキターッ!」
「は、はぁ?」
興奮最高潮のわたしの反応に、金髪の人が目をまるくする。黒髪の人は無表情だ。
「初めまして!」
がしっ、と金髪の人の手を取って、わたしは強引に握手した。
「あの、つかぬことをお伺いしますけれど、二次元からいらした方々ですかっ?」
「ニジゲン? いえ、あの、我々はですね――」
「正直にお答えください。ご回答いただけない場合は、警察に通報します」
「ケーサツ……とは人間の法的機関でしょうか。それは困りますね」
「でしょう? というか、一体どこから入られたのですか? わたしは、鍵をかけ忘れたことは一度もないのです」
「そこから」
黒髪の人が、初めて声を発した。
その指が無感動に示すのは、押し入れだ。
「どこぞの青い猫型ロボットですかっ! ――ということは、二次元の方ではなく未来の方?」
「我々も現状を把握しかねているのですが、あなた方とは異なる世界から来たというのは事実のようです」
そういえば、猫型ロボットがタイムマシンでやってきたのは、押し入れではなく主人公の学習机の引き出しからだった。
そんなことを頭の片隅で訂正しながら、わたしはとりあえず彼らを警察に引き渡すのを保留にした。
金髪の人の言動や態度は至極真面目だし、嘘をついているようにも思えない。ただの美形コスプレイヤーではなさそうだった。
▼
「どうぞ、おかけになってください」
わたしはベッドの前の卓袱台周辺に座布団を敷いて、冷蔵庫から緑茶のペットボトルを取り出して来客用のグラスに注ぐ。彼らに脱いでもらった軍靴も、玄関に並べる。
その間、腰を下ろした彼らの会話がかすかに聞こえてきた。
「メル様。彼女にこの世界のことを教わるまでは、不用意に動かれないほうがよろしいかと」
「だろうな。ざっと見た感じ、文明もかなり違いそうだし」
「やはり、あの時の次元転移魔法のせいでしょうか」
なにやら複雑な事情があるらしい。
お茶を
わたしも向かいに座布団を敷いて座る。
彼が姿勢を正した。
「ごあいさつが遅れました。僕はヴィノルートと申します。ヴィノでかまいません。そして、こちらが――」
「メルヴェルクス。長いからメルでいい。なんなら、『この家畜!』とか『
「ですから、仮にも魔王ともあろうお方が、そういうことを真顔で仰らないでくださいッ!」
軽快な会話になんだかおかしくなって、わたしはつい小さく笑ってしまった。
黒髪のメルさんが魔王、金髪のヴィノさんが従者なのだろう。本当にファンタジー小説やゲームから飛び出してきたみたいな設定だ。
ヴィノさんが嘆息する。
その横で、メルさんは動じもしないでお茶を啜った。
「申し訳ありません、メル様はいつもこんな調子でして」
「いえ、おもしろい方ですね。わたしは
「シオリさん、ですか。このたびは本当に突然ご迷惑をおかけしてしまいまして、何とお詫びしていいものか……」
「ヴィノ、人間相手にそうかしこまらなくていいだろ。こいつも状況に順応してるみたいだし」
「そのお言葉はお返しします。他人様のお宅でおくつろぎすぎですよ、あぐらまでかかれて。それに、僕が毒見をする前にお飲み物まで――」
「とにかく、シオリに色々と説明するほうが先じゃないのか」
ぐ、とヴィノさんは押し黙る。小言を並べても、メルさんには勝てないようだ。
二度目の嘆息をこぼして、ヴィノさんは事情を丁寧に説明してくれた。
メルさんを魔王として支持しない人たちが抹殺を計画して、その首謀者が禁断の魔法を使ったため、メルさんとヴィノさんはそれに巻き込まれてこちらの世界に来てしまったらしい。
ヴィノさんは、真剣な表情でわたしに訊いた。
「この世界においても、戦争などはあるのでしょうか」
「わたしが暮らしているこの日本という国では、もう長いこと起きていませんけれど……他国では、宗教間の紛争などが激しい地域もあるそうです」
「では、この国ならば安全だと? 魔導兵器も存在しないのですね?」
「マドウ兵器?」
「ええ。我々の世界で、人間側が我々魔族に対抗する手段として開発したものです」
「魔族という種族自体がそもそもこちらの世界に実在しませんし、創作物の中にしか魔法もありません。個人的には、ちょっと使ってみたい憧れはありますけれど」
「そう、ですか」
彼は、ほっと安堵の息をつく。
その隣で、メルさんがふとヴィノさんのお茶のグラスを見つめる。
蒼い瞳が一瞬輝いたと同時に、グラスが上から下まで凍りついた。
思わず目を
メルさんは、淡々と解説する。
「これが魔法。自然の要素を操る力、とでも言えばいいか」
「すごいですね!」
フィクションのものだと思っていた、魔法。それを目の当たりにできるなんて。
自分の頬をつねってみる。痛い、夢じゃない。
この人たちは、本物の魔族なのだ。
「俺たちの世界では、当たり前にある。元は魔族の力だったが、過去に人間と交わる奴が出てからは、人間側にも技術が伝わってな。それからしばらくは、戦争が絶えなかった」
「そうなのですか……。それにしても、おふたりとも日本語がお上手ですね」
「あ、言われてみれば。我々は本来の言語で会話しているはずなのですが、シオリさんの仰ることも理解できております」
「これも次元転移の影響なら、便利なもんだな」
楽観的なメルさんに、ヴィノさんが眉をひそめる。
「メル様、
「毒見の必要がないからだ。苦味が強いが、結構旨いぞ」
「遅効性の毒物でも入っていたら大変でしょうがッ」
「俺には毒の耐性があるってのに、毎度うるさいな、おまえは」
言いながら、メルさんは自分のグラスを片手に持ち、ヴィノさんに顔を寄せて薄く笑む。
「そんなに欲しいなら飲ませてやろうか、口移しで」
「ちょ、やめてくださいよ、女性の前ですよ!」
その光景を見た瞬間、わたしの脳内で萌えの火山が噴火した。
「リアルBLキターッ!」
「はぁぁぁ!?」
危ない、興奮のあまり卓袱台をひっくり返してしまうところだった。
バンッ、と強く手をついても、凍ったグラスはびくともしない。
熱くときめいた勢いのまま問い質す。
「あのっ! おふたりは恋仲なのですか?」
「はっ? い、いえ、僕は単なるメル様の部下でして」
「ほう、シオリは目の付け所がいいな。俺が何度『滅茶苦茶にしてくれ』って頼んでも、ヴィノはいつも手加減して俺を抱――」
「わーわーわー! ちょっと黙ってください、メル様ッ!」
確信した。やっぱり、彼らは夜ごと身も心も愛し合う関係なのだ。しかも、魔王とその従者。萌えないはずがない。
背後のコンセントで充電していたノートパソコンのアダプターを、急いで引き抜いた。
膝に乗せたそれを起動して、すぐにテキストエディタにネタを記録する。キーを高速で叩いた。
「従者攻め、魔王受け、主従萌え、と」
「あのー、シオリさん?」
「それでメルさん、ヴィノさんとはいつごろからのお付き合いを?」
「そうだな、あれは確か大戦後の――」
「メル様もほいほい答えないでください!」
「いいだろ、別に。ただの思い出語りに口出すな」
「あなたの思い出は主に
「その猥談をぜひくわしく!」
「シオリさーん!」
よく大家さんに怒られなかったな、と自分でも感心するほどの騒ぎようで、わたしは不法侵入者ふたりの関係に盛大に萌えた。
この日から、彼らと同居生活を送ることになる。
まさに文字通り、薔薇色の人生の幕開けだった。BLだけに。
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