魔王は虐げられたいらしい
蒼樹里緒
第1章 魔王は虐げられたいらしい
第1撃
僕の仕える魔王様は、少し――いや、かなりおかしい。
「メルヴェルクス陛下。やはり、貴方は魔王の器ではないようだ」
「俺が仕事しないからって、命まで取ろうだなんて物騒だな」
魔王――メルヴェルクス様は、艶やかな黒い前髪の下の
床から伸びる階段越しに対峙している、僕と同じ黒い軍服を纏った
メル様は、彼の息子か孫にも見えるほどの若い外見で、青年と呼んでも差し支えない。けれど、実年齢は
階下には、数十名の元部下が氷漬けになっている。無謀にも、メル様を殺そうとして魔法で返り討ちにされたのだ。氷像と化した彼らの絶命は、遠目に見ても明らかだった。
ただし、この場の温度が著しく下がったのは、彼らが乗り込んできた瞬間からだ。階段の最上段から王室の扉まで広がる赤い
残った敵は、首謀者の男のみ。魔族軍きっての高位魔導師である彼は、大魔法を防ぐ
王室の扉も、今は彼が最上級強度の結界を張って封じていた。メル様の支持者たちの侵入を妨げるためだろう。
――きっと出る幕はないな。
半ばあきらめながら、僕も白い嘆息をこぼす。自分の背丈ほどもある大振りな魔剣を、一応構え直した。
「メル様、彼の相手は僕が」
「いいって。ヴィノは俺のそばにいろ」
「そんな腑抜けの面倒を見ておって疲れぬか、ヴィノルート」
「よく言われます」
「おい」
メル様の静かな文句は聞き流した。
男の言葉はもっともだ。メル様は本当に魔王らしくない。
魔王専用の軍服には、長い黒マントが常備されている。それにもかかわらず、『重い』と言っていつも外していた。
緊迫したこの状況下でも、呪文詠唱なしで発動させた氷属性の大魔法を、ごみを捨てるかのようにぽいっと放った。元部下たちの怒号や絶叫が響く中、どうでもいいと言いたげにあくびをしていたのだ。
もっとこう、上に立つ者としての威厳とか気品とか、そういうものはないのだろうか。わかりやすい長所があるとすれば、それこそ氷めいた涼やかな
今度は切なげに、メル様は白い息を吐く。
「性的な意味で俺を
「メル様、ちょっとうっとりしながら仰らないでください」
「あーあ、ほんとがっかりだ」
魔王らしくないと言われる最大の要因は、確実にメル様の特殊性癖のせいだ。
今日こそ絶倫の勇者に俺を犯し尽くしてもらおう、なんて毎朝必ず言ってのける。どんな目標だ。実行するとしても逆だろう、普通。魔王がそう簡単に勇者にヤられてどうする。
魔王討伐のために突撃してきた勇者は数知れないが、メル様のそんな態度に奴らはそろって困惑していた。いや、むしろ引いていた。それはそうだ。倒すべき相手がこんな変態では、戦意も失せる。
メル様の手を煩わせる前に勇者を叩き伏せるのが、側近兼護衛の僕の役目だ。それは現状でも同じこと。
魔剣を振り下ろし、銀色に輝く切っ先を男に向ける。
「参謀殿。メル様のお命を狙われるのでしたら、まずこのヴィノルートを討ってからお願いいたします」
「解せんな。お前も私と来れば良いものを」
「僕もできればあなたと争いたくはなかったのですが……
「恩を仇で返すか。残念だ」
「ええ、まったくです」
返答しつつ横目でメル様を見ると、合図のようにまぶたが閉ざされる。好きにしろ、ということだろう。
彼が呪文詠唱を始めるのとほぼ同時に僕は床を蹴り、一気に階下まで飛び降りる。首の後ろでひとつに結んだ金髪が、空気抵抗で靡く。
振り翳した魔剣の刀身を覆うのは、紅蓮の光。
男が詠唱を完了するまでに斬り伏せる――はずだった。
彼の声帯から紡がれるそれは、いつか城内書庫の魔導全書で読んだ禁呪のものに似ている。そう気づいたのは、着地する寸前だった。
あの魔法を使える者なんて、存在しないと思っていたのに。
簡易的な物理防御結界を、魔剣はたやすく破った。男の肩から腰にかけ、深く斜めに刃を滑らせる。
青い鮮血が飛び散り、肉の焦げる臭いも漂う。苦悶の声を上げた彼が、仰向けに倒れる。
が、禁呪の巨大な魔法陣は、既に僕らの頭上に完成していた。
頭の中で警鐘が鳴り響く。
僕はとっさに身を翻し、階段を駆けのぼった。
「メル様! おそらく次元転移魔法です!」
切羽詰まった僕の様子を察してか、メル様は玉座からすっと立ち上がって魔法陣を見据える。短い黒髪が風に揺れても、眉ひとつ動かさずに。
濃い紫色の魔法陣は、空間を揺るがすような轟音を立てて中心から開いていく。そこから現れる円形の闇は、さながら門のようで。魔剣から生成した火球を飛ばしてみても、すべて強風に吸い込まれてしまう。
やはり、破壊は無理か。禁呪には相応の解除呪文を詠唱しなければ。
だが、もうそんな時間は残っていない。実行できるほどの膨大な魔力すらない。
ふわり、とメル様の身体が宙に浮く。
だめだ、それだけはあってはならない。
メル様がこの世界から――僕のそばから消えてしまうなんて。
必死に主の名を呼びながら、僕はあえて風の流れに乗って飛び、彼に手を伸ばす。
互いの指先が触れたと思った瞬間、僕の意識は闇に呑まれた。
▼
まだ幼かった僕がふと目覚めた時、空はやはり重たい灰色の雲に隠されていて、大地には雪が舞い降りていた。
視認できる範囲には、魔族の屍ばかりが白い地面に埋もれていて。その中でかろうじて呼吸をしていたのは、自分と伯父だけだった。
人間側の魔導兵器により、空が鮮烈に光ったことは憶えている。その直後に何かが降り注いだのかもしれないし、大規模な爆発でも起きたのかもしれない。生きているのが奇跡だとさえ思えた。
「ヴィノ、大丈夫か」
苦しげな声で訊く伯父の屈強な筋肉も、このときばかりは鎧越しでもいくらかしぼんで見えた。それでも、抱きかかえられるようにして護られた僕にとって、伯父のぬくもりはとても頼もしくて。
うなずくと、緊張が解けて涙があふれ出した。
さく、と雪を踏む足音が聞こえて顔を上げる。
感情の窺えない蒼い瞳で伯父と僕を静かに見下ろしていたのが、今とほぼ同じ外見年齢のメルヴェルクス様だった。
当時、伯父は魔王直属近衛隊長を務めていたこともあり、メル様の信頼も厚かったのだという。
無傷に近い姿のメル様は、静かに伯父の名を呼んだ。
「しゃべれるか、エイレフ」
「陛下……このような失態、申し訳ございません……ッ」
「いや、俺の読みも甘かった。移動中にあれを撃ってくるとはな……
「西大陸に渡った同族がどれほど生存しているか、気になるところですな」
「そうだな。合流地点を変えるか」
僕らのそばにそっと膝をついたメル様は、伯父の身体の上に手を翳す。やわらかく肌を照らす薄緑色の光は、治癒魔法のそれだとすぐに気づいた。
光を浴びた伯父の傷口は、ゆっくりと塞がっていく。
僕にも同様に治癒魔法を施し、メル様は小さく息をついて微笑んだ。
伯父とともに魔王城に勤めて以来、初めて見た笑顔だった。
「おまえたちが生きててくれてよかった」
言いながら、メル様は僕らの身体をそっと抱き起こして地面に座らせた。白い手袋に包まれた彼のてのひらが、僕の濡れた髪をそっと撫ぜる。
――魔王様の前で泣くなんて、みっともない。
あわてて手の甲でまぶたをこすった。
「おまえがエイレフの
「ヴィノルート、です」
それまで直接会話を交わしたことはなかったから、どぎまぎと視線をさまよわせてしまった。
そうか、と微笑をこぼしたメル様は、僕を抱き寄せて耳元でささやく。
「おまえも将来はエイレフを継いで、俺を護ってくれるんだろ」
「は、はいっ」
「じゃあ――」
耳朶にかかる吐息が、熱くてくすぐったかった。
その熱は、メル様の次の言葉で心にも
「もっとでかくなったら俺を抱いてくれ、ヴィノ」
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