8 黒い扉
翌朝、「きのうの子供どうしたかなあ」と心配するイーノを、「ついてきてみな」と中学生が連れ出した。ぼくも気になってその後をつけた。廊下の途中でぼくに気づいた中学生は、「ちっ、まあいいか」とぼくを手招きした。
コの字型の病棟の中央にエレベーターホールがあり、その向かいは大きな窓のあるナースステーションで、看護婦さんたちが忙しそうに動きまわっている。まず中学生が一人でそこを通過し、ぼくとイーノは彼の指示で一人づつ身をかがめて窓の下を通過した。「あのスゲネーに見つかるとたいへんだからな」と中学生が言ったのを、イーノは「スーネエ」と訂正した。
イーノは両手を大きく振って歩いた。元気なときはいつもそうだ。手をつないだぼくの手をぶんぶん振りまわす。「よせよ、運動会の行進じゃないんだから」と言うと、「でも、先生にほめられたんだよ」と、かえってその手に力をこめた。
廊下を曲がり、さらに進むと行き止まりだった。壁につけられた小さな窓の前に立ち、中学生が、のぞいてみな、とあごで合図した。
大きな木の下に、物置のような小さな灰色の建物が見えた。
「あの正面の黒い扉、よく見てみ」と、中学生はイーノの頭の上からのぞきこみ、「閉っているよな。ということは、きのうの子供はまだ死んじゃいない」
「どうして」
ぼくとイーノが同時に聞いた。中学生は得意になって説明した。
「これは秘密だぞ。じつは、あそこが死体安置所だとオレはにらんでいるんだ。死体安置所ってわかるか。死んだ人をしばらく置いておく所。たぶんあの中の暗くてガラーンとしたところに、ぽつんと死体を乗せる石のベッドが置いてある。そして、この病院でだれかが死ぬと、あの扉が開くってわけ」
ぼくとイーノは窓から身をのり出すようにして、もう一度その建物を見た。たしかに窓のない灰色の殺風景な建物で、なんとなく不気味な感じもする。でも、どう見ても物置にしか見えなかった。
「見たの?」とイーノが聞く。
「ああ、ときどきあの扉が開いている。半日ぐらいそのままで、いつのまにかまた閉っているんだ」
「じゃなくて、死体」
「んなもん、見るわけないだろ」
中学生は怒ったように松葉杖の音をたててひきかえした。
「どこへ行くの」と聞いたイーノに、「関係ないだろ。子供は早く部屋に戻んな」と言って、中学生は松葉杖を苦労してあやつりながら階段を登っていった。
「自分だって子供なのに、な」
ぼくはむっとしてイーノの手を引いて部屋へ戻った。
「石のベッドって、ほんとかな」
「うそに決まってんだろ。自分だって見たことないんだから」
「死体ってどんなんだろう? 白い服を着て、頭に三角の布をつけてんのかな」
「それじゃ幽霊じゃないか。死んだばっかしなら、パジャマを着たままだろ」
「じゃ、ふだんとぜんぜん変わんないじゃない。寝てんだか、死んでんだか、どうやってわかるんだろう」
「そりゃあ、息をしていないし、心臓も止まっている」
「そうだけど。それだけならなんで死体がこわいんだろう。だって死体って、なんかこわいよね」
それからもぼくとイーノのあいだでは、ときどき死体安置所のことが話題にのぼった。話題にするだけでなく、たまにはこっそりと例の窓をのぞきに行ったりもした。扉はいつも閉っていた。本当にあそこが死体安置所なのだろうか。中学生だって中を見たことがないんだから、うそに決まっている、と頭では否定しても、否定しきれない真実の可能性が10%ぐらいは残った。その10%の真実のなまなましさに、ぼくとイーノは引きよせられた。
「死んだ人をどうして死体安置所に置いておくの」
「お葬式の準備だとか、いろいろあるからじゃないかな」
ぼくは佐藤さんの言ったことを思いだした。「もしかしたら、霊が戻ってくるかどうか、しばらくようすをみるのかもしれない。死んだと思った人が生きかえった、っていう話も実際にあるらしいんだ」
「そうか、あの扉の前の細い道は霊の通り道なんだ。霊が迷って人を驚かせないように、別の建物にしているんだ」
イーノは一人でうなずき、納得した。
その扉が開いたのは、春を告げる強い風の吹いた日だった。
その日、イーノは一日ベッドをあけていた。よくはわからないが、めんどうな検査をいくつも受けていたらしい。
イーノがスーネエに連れられて戻ってきたのは、そろそろ電気がともりはじめるころだった。イーノは疲れていたのか、入口で立ち止まったまま、ぼんやりと部屋の中をながめた。そして源さんのベッドがなくなって、真新しいベッドにかわっているのを見て「おじいちゃんどうしたの。どこへ行ったの」と泣きだした。
部屋の全員がイーノに注目した。なにがどうなったのか、どうなぐさめていいのかもわからず、ただ困惑してイーノをながめた。スーネエがイーノを抱きよせて「どうしたの?どうしたの?」とくりかえした。
「おじちゃんがいない。おじいちゃんが死んじゃった」
泣きながらイーノは言った。
イーノが検査で部屋をあけているあいだに、源さんはベッドごと別の病棟に移ったのだった。しばらく前から源さんは目にみえて弱ってきていた。あい変わらずイヤホンをつけてテレビをつけっぱなしにしたまま、気がつくと源さんは眠っている。食事の時間も眠り続けることが多くなっていた。看護の都合で個室に移ることになった、と家族の人たちがあいさつに来たのは、ついさっきのことだった。
「今日病室を移ったの。同じ病院にいるから、心配しなくていいのよ」
「本当?」
「本当よ。明日会いに行ってみようか」
とスーネエに言われて、イーノは確認するような目をぼくに向けた。ぼくは、本当だよ、と大きくうなずいた。
そのあとで、イーノがぼくにそっと教えてくれたのだ。検査の途中で廊下の窓から例の建物が見えたので、よく見たらその扉が開いていた、と。
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