7 満月の夜

 満月の夜だった。遠くで犬の吠える声がしていた。夕食のあと、いつものように中学生がドタンバタンと大きな音をたてて部屋を出ていってから、ぼくとイーノは佐藤さんのベッドの横に座ってくだものを食べていた。

 片手の不自由な佐藤さんは、奥さんの持ってきたくだものをぼくにむかせる。それなのに、自分はほとんど食べない。佐藤さんがちょっとだけ味見をしたあと、本橋さんと源さんに少しづつ配り、残りはぼくとイーノでたいらげる。奥さんはそのことを知っているのだろうか。「あら、もうなくなったの」と、次の週にはもっとたくさんのくだものを持ってくる。それをまた、佐藤さんがけしかける。「そうだな、メロンを一〇個ばかり持ってきてもらおうか」と言って、ぼくたちに片目をつぶってみせる。

 あるとき、ぼくは心配になって佐藤さんに聞いたことがある。

 「だって、仕事もしていないんでしょ。そんなぜいたくをしていちゃだめだよ」

 すると佐藤さんは笑いながら説明してくれた。労災というものがあって、給料が保証されているそうだ。ようするに、ただで治療を受け、ご飯もいただき、ゆっくり休養ができて、そのうえ給料がもらえる。「こんないいことはない。できればずっとここにいたいくらいだ」というわけだ。

 「ここにいるとぜんぜんお金を使わないしな。少しはみんなのためにお金を使わないとバチが当たるってものさ」

 よくわからないけど、そういうものらしい。

 犬がワオオーンと、語尾を長く伸ばして吠えた。それに答えるかのように、また別の方角でワオオーンと声がした。

 「狼の遠吠えだ」と佐藤さんが言った。

 「狼なんか、今はいないよ」と、ぼく。

 「でも、なんか不吉な声だ」

 と、本橋さんが寝たままこっちを向いて言った。

 「犬だって、もとは狼なんだから、こういう満月の夜には野性を思いだすんだ」

 佐藤さんは声をおとして「きっと、だれかが死んだんだな」とつけ加えた。

 「どうして?」と言うぼくに、「昔からそう言われている」とだけ答えて、「そういえば・・・」と、佐藤さんはこわい話を始めた。

 「そういえば、どの病院にも開かずの部屋というのがあるそうだ。ある夜、こんなふうに犬の遠吠えが聞こえる満月の夜だな。いつもは閉っているドアが、その時ほんの少し開いて、血のように赤い光が廊下にもれた。トイレに起きた患者がそれを見て、あれっ、とそのドアを開けてみると・・・」

 「きゃっ」とイーノが耳をふさいだ。

 そのとき、窓の外から救急車のサイレンの音が聞こえた。みんな黙ってその音に耳をすました。サイレンの音は街の中を移動しながら、だんだん大きく、はっきりと響き、この病院に近づいてくるのがわかった。そして、すぐそばでけたたましい音が聞こえたかと思うと、ぷつりと音がやみ、回転する赤いランプが窓の端を横切って正面玄関の方へ消えていった。

 「事故かな」

 佐藤さんが窓をのぞきこんだ。

 廊下を走る看護婦さんのサンダルの音。階下で騒がしく人の動く気配がする。「死んじゃうのかな」とイーノがつぶやく。

 「そう簡単には死なないもんさ。オレだってあんなふうに救急車で運ばれてきたんだ。ほら、ピンピンしているだろ」と、佐藤さんがイーノを安心させようとする。

 「でも、狼が吠えているよ」

 イーノの不安はおさまらない。

 「死んだらどこへ行くの?」

 「どこへも行かない。一巻の終わりさ」と本橋さんがイーノに言う。

 「一巻の終わりって?」

 「ようするに、焼かれて、煙になって空へ消えちゃう。残った骨はお墓にうめられる。死んだら、もうその人はなくなっちゃう。ゼロになるんだ」

 本橋さんの説明にイーノは納得できないようすだった。

 「じゃあ、どうして幽霊がでるの」

 「だから、幽霊なんかいないんだよ」

 「いや、わからないぞ」と佐藤さんが口をはさんだ。「だって、死んだあとのことはだれもわからないんだから。あの世の一歩手前で戻ってきたって話をたまに聞くだろ。三途の川があって、渡し船に乗るために河原で順番待ちをしているそうだ。船に乗ってしまったらもうだめだが、その前なら戻ってこれる。そのとき、自分の肉体にちゃんと戻れたら生きかえるわけだし、もし肉体が見つからなかったら、霊だけがさまよい続ける。たぶん、それが幽霊だな」

 「その河原って、もしかしたらこの病院みたいだね」

 ぼくは自分の思いつきに少し得意になって言った。

 「健康になったら退院して戻れるけど、だめだったらそのまま死んでしまう。まるで渡し船の待合室みたいじゃない」

 「待合室か・・・」

 佐藤さんはうなずき、急いでそれを打ち消すように首を振った。

 「小学生、おまえロクなこと言わねえな」

 バタンと大きな音がしてドアが閉った。ふり向くと、そこに青い顔をした中学生が立っていた。

 「子供だ。車にはねられたって」

 彼はみんなの視線をふり切るように松葉杖をほうり投げてベッドに飛びこんだ。

 「お前、見たのか?」と佐藤さんが聞いた。頭までかぶったふとんの中で中学生がうなずくのがわかった。部屋の空気が重苦しくなった。ぼくとイーノはそれぞれのベッドに戻った。

 夜中に人のうめき声で目を覚ました。となりで中学生が夢を見てうなされていた。何時だかわからない。階下でのざわめきはすでに消え、病院全体が夜の海に沈んだように、シンと静まりかえっていた。廊下からもれる光が天井にすじを描いて、部屋の闇をさらに暗く気味の悪いものにしていた。

 佐藤さんのいびきが聞こえる。みんなが寝ている暗闇の中で、一人で目覚めているのはたまらなくさみしい。窓のほうに向きなおったとき、となりのベッドに二つの目玉が浮いていた。それは暗闇の中で気味が悪いほどキラキラ光っていた。びっくりしたが、すぐにイーノだとわかった。イーノも眠れずにぼくを見ていたのだ。

 「こわい」

 やっと聞こえるぐらいの小さな声だった。

 「だいじょうぶ。こわいことなんかない」

 イーノは訴えるような目でぼくを見つめた。その目に涙があふれていた。そして、ふるえる声で言った。

 「おしっこ」

 天井の電気が一つおきに消されて薄暗くひんやりと静まった廊下を、イーノの手を引いてそろりそろりと歩いた。女子トイレの前で手を離したぼくを、イーノはパジャマを引っぱって中へ引きこみ、個室のドアの前で「そこにいてね」と、ドアを少し開けたまま用をたした。おしっこの音と、続いて水を流す音が意外なほど大きく響いた。

 部屋に戻っても、イーノはぼくのパジャマを離さず、そのままベッドに引っ張った。

 イーノの体はガラスのように冷たかったが、ふとんの中には甘酸っぱいような匂いとぬくもりがあった。その中に体を入れると、なんとなくイーノの体にすっぽりと包まれたような気がした。ふとん全体がイーノのやわらかな体で、ぼくの腕の中にいるのはその芯の固い部分のような感じだ。

 ぼくの脚のあいだにイーノが足を入れてきた。その冷たい足をきつくはさんだ。ぼくにしがみつくイーノの細い体を力いっぱい抱く。小犬のようにイーノはくたっとぼくに密着する。イーノの体の内部からじかにぼくの体へ、皮膚をこえてなにか熱いものがつたわる。ドックドックと心臓が鳴るが、それがぼくのものかイーノのものか区別がつかない。ぼくとイーノが一つの体になったようだった。

 それはふしぎな感覚だった。体の奥のほうでふつふつとなにかがわきだし、出口をさがしている。はじめて経験するその感覚をぼくはどうしていいかわからず、イーノの背中にまわした手に力をこめて抱きよせたり、ぼくの体をイーノに強く押しつけたりした。

 「苦しい」と、おし殺した声でイーノは訴えた。力をぬくと同時に、ぼくとイーノの体から、ふっ、と空気がもれた。

 夜の静けさが戻った。イーノはぼくの肩に頭をのせ、ぼくの胸に手を置いて、言った。

 「子供でも死んじゃうんだよね」

 なんて答えていいかわからなかった。

 「でも、どうして死んじゃうんだろう」

 「だれだっていつかは死ぬんだ。早いか遅いか、というだけで」

 イーノはじっと天井を見つめたままだった。

 「神サマはどこにいるんだろうね」

 「ねえ、青山くん」と、イーノはぼくの顔をのぞきこんで言った。「神マサのこと、ちゃんと研究してね。そして、なにかわかったら教えて。いい?」

 「うん」

 「約束よ」

 「約束する」

 「死んじゃだめだからね」

 「死ぬもんか。こんなピンピンしている」と、ぼくはイーノを抱きよせ、手を滑らしたふりをして脇の下をくすぐった。「ほら、イーノも」

 キャッと飛びのくように体を逃がし、イーノはぼくの目を見て言った。

 「ちゃんと抱いて」

 ぼくはイーノの体にかぶさり、しっかり抱きしめた。

 「重くない?」

 目をつぶって、イーノはうなずいた。「少し」

 体をはずして自分のベッドに戻ろうとすると、イーノはぼくにしがみついて、「だめ、ずっとこうしていて」と、びっくりするほど大人っぽい声で言った。

 「でも、朝、二人で寝ているのを見つかったらヘンだよ。女部屋に連れ戻されちゃうよ」

 「じゃあ、わたしが眠ったら戻ってもいい。だから、ぜったい先に眠っちゃだめだよ」

 ぼくはイーノを抱き続けた。手がしびれるのもかまわず、腕にイーノの頭を乗せたままじっと動かずにいた。一生こうやってイーノを抱いているのも悪くない、とぼくは思った。イーノのおだやかな寝息がゆっくりと時をきざみ始めた。ぼくはそっと手をぬき、かわりに枕を差しこんで、自分のベッドに戻った。

 しばらく手がしびれたままだった。そのしびれにイーノを感じ、イーノを感じていることに満足した。ふと、同級生の好きな女の子のことを思ったが、それよりも手のしびれのほうが強かった。

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