9 源さんにヨーグルトを

 朝食のあとで、約束どおりイーノは源さんの部屋へ連れていってもらった。ぼくは午前中に検査があって、数値が上がっちゃうから安静にしてなきゃだめ、とスーネエに言われていた。

 検査はベッドに寝たまま行なわれるいつもの簡単なものだった。医者がぼくのおへその下やお尻の上あたりを強く押したり触ったりして調べたあと、看護婦が注射器で血をぬき、シビンにおしっこを取って持ち帰った。

 イーノは意外と早く戻ってきた。

 「うん。おじいちゃんいたよ。でも眠っていた。場所がわかったから、あとで一緒に見に行こうか?」

 イーノは病室にいた知らないおばさんからもらったというキャンデーをぼくに分けてくれた。

 昼食が終わるといつものように佐藤さんと本橋さんがトランプでオイチョカブを始めた。そのころはもう本橋さんはソロリソロリだが歩けるようになっていて、なにがうれしいって、自分でトイレにいけるようになったのが一番うれしい、とはじめてトイレに行って戻った時ぼくらに報告した。シビンだとおもいっきりおしっこができないのがなさけない。それだけじゃない、と本橋さんは言った。

 「シビンを当ててもらうとき、スーネエさんの顔を見ちゃうと恥かしくって、あそこがちぢんじまう。あのやわらかい手が、もぞもぞ先っぽをさがして動くのが気持ちいいやらなさけないやら」

 「ほんとうになさけないヤツだな。オレなんか朝スゲネーを呼んだとき、ビンビンでさ、自分でやって下さいって、シビンを置いたまま怒って行っちゃったよ」

 佐藤さんの話にクックッとお腹を押さえて笑い、「やめてくださいよ、お腹にひびくから」と、本橋さんは苦しがった。

 オイチョカブはマッチ棒を賭けておこなわれた。はじめは現金を賭けていたが、ある日佐藤さんが負けこんで、このままじゃやめれない、と賭け金をエスカレートしながら消灯過ぎまでやっていた。そこをスーネエに見つかってしまい、こっぴどくしかられた。「ここをどこだと思っているんですか。子供もいるんですからね」と。それ以来、現金のかわりにマッチ棒を使うようになったのだ。

 ぼくもやり方を教わってときどき仲間に加わった。マッチ棒一本10円の計算で、お見舞にもらったお菓子やくだものと交換し、清算の時そのマッチ棒でまた買い戻す。だから三人のお見舞の品があっちへ行ったりこっちへ行ったりした。「なんとなく、大学で教わった経済学を思いだしますね」と本橋さんが言い、大学ってそんなことを教えているのかとぼくはアホらしく思った。

 しかしそれはおもて向きのことで、実際には佐藤さんと本橋さんのあいだでマッチ棒は現金に交換されていた。ぼくはマッチ棒がなくなると、マッチ棒一本につきシッペ一回で清算することでゲームを続けた。本橋さんが「まあ、子供なんだから」と言うのを、佐藤さんは認めず、「勝負の世界はきびしいのだ」と、おもいっきりぼくにシッペをした。それが教育的配慮ってものらしい。腕が真っ赤にはれあがるのを、ぼくは歯をくいしばってがまんした。

 「ねえ、もうやめて行こうよ。源さん、待っているよ」とイーノがとめるのをふり切って、ぼくは勝負を続けた。その日の勝負は、マッチ棒を清算してヨーグルトを買うことになっていた。かたいものを食べられない源さんに、ぼくはヨーグルトを持っていってやりたかったのだ。

 「一〇回勝負だから、もうちょっと待っててな」

 「バカじゃないの」

 イーノはつまらなそうに窓をながめていた。

 結局佐藤さんの一人勝ちで、本橋さんが下の売店にヨーグルトを買いにいき、佐藤さんはぼくらに「おねげえでごぜえますだ」と言わせてから、それを一本づつ配ってくれた。ぼくは冷たいヨーグルトのビンで赤くシッペの跡がついた手首を冷やしながら、イーノと源さんの部屋へ向かった。

 「痛い?」

 「そりゃもう、ヒリヒリするよ」

 「だったら、やんなきゃいいのに。お金を渡して買ってきてもらえばすむことでしょ」

 「そういうもんじゃないよ。自分で働いて手にいれたものじゃなければ価値がないんだよ」

 「なによ、それ。あれが働いているって言うの?」

 「いやそうじゃなくって。たとえの話だよ、たとえ。わかんないかなあ」

 源さんの部屋の前で、イーノが「ちょっと、ちょっと」とぼくのパジャマを引っぱった。イーノについて廊下の端へ進み、小さな窓から例の建物をさがした。いつもとは角度が違って正面が見づらいが、扉は閉っているようだった。きのう、あの扉が開いていた時どんなだった? 中が見えた? とイーノにたずねた。もちろん中は見えないし、出入りする人も見なかった。だけどそこだけすごく不気味な感じだった。きっと中に死体が置いてあったんだよ。だれが死んだんだろう。その人はそのあとどうなったんだろう、とイーノは言った。

 源さんの部屋に入ると、イーノの言っていた知らないおばさんが椅子に座って雑誌を読んでいた。

 「おやおや、お友達を連れてきてくれたのね」とイーノに言って、源さんの肩を揺すった。源さんはいつものようにテレビをつけっぱなしにしたまま眠っていた。おばさんが源さんの耳からイヤホンを抜き取り、顔がこっちを向くように体の位置をなおした。ぼくは源さんにヨーグルトを見せて、調子はどう、と声をかけた。それをおばさんが源さんの耳もとで語り、源さんはようやく薄目を開けてニコリとうれしそうな表情を見せた。息をつめて見守っていたイーノがほっと表情をゆるめ、枕もとに進んで「おじいちゃん」と話しかけた。源さんは聞こえているのかどうか、ただニコニコとうなずくだけだった。

 おばさんがヨーグルトをスプーンで源さんの口に運び、食べさせてあげた。全部は食べ切れなかったが、源さんは目に涙を浮かべながらイーノの手を握って離さなかった。イーノもその手をさすってあげたりしながら、ぼくのほうをふり返って「よかったね」と言った。ぼくはうなずいた。シッペを受けたかいがあったというものだ。

 ちょっとトイレに行ってくると部屋を出て、戻ってみるとイーノの姿がなかった。

 「イーノはどこ?」

 「さあ」

 おばさんは読んでいる雑誌から目を上げずに答えた。

 廊下に出てみたがだれもいない。源さんもニコニコ笑っているだけだった。

 「イーノ。どこにかくれているんだ」と大声を出したとき、源さんのベッドの下でプファと息を吐く音が聞こえ、「クチャーイ」と鼻をつまんだイーノが顔を出した。

 ベッドの下に、源さんの使ったシビンとオマルが置かれていた。イーノは鼻の前を手であおぎながら、窓を開けて深呼吸をした。

 「ああ臭かった。鼻が曲っちゃう」

 おばさんはこらえきれずにぷっと吹き出して笑った。

 「だめだよ。もっと早く見つけてくんなくちゃ」とイーノが言った。

 「なに言ってんだ。かくれんぼをするなんて言わなかったじゃないか。ずっとベッドの下で暮らしていな」とぼくは部屋を出た。イーノが小走りでついてきた。

 部屋に戻る途中、ナースステーションの前でスーネエに見つかり、呼び止められた。

 「あんたたちどこへ行っていたの。ふたりとも安静にしていなくてはいけないのよ。青山くんはお兄さんなんだからわかるでしょ」

 スーネエに怒られただけでなく、もうかってに遠くへいかないように約束させられた。二度と源さんの部屋を訪ねることはなかった。

 それからしばらくして、源さんは死んだ。いつものように朝おばさんが部屋に来てみると、すでに源さんは死んでいたという。だれにも見られずに、たった一人で死んでいったのだ。どんなにさびしかったことだろう。そのことはイーノにはないしょだった。

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