5 スネゲのスーネエ
朝一番に、「おはようございます」と元気な声で入ってくる若い看護婦さんがいた。
「よく眠れた?」とか「具合はどう?」とか、一人ひとりに声をかけながら、体温計を配り、毎朝の検温結果をカルテに書き入れる。美人ではないが、やさしくて明るくて、人気があった。ぼくも彼女が好きだった。たぶんとなりの中学生もそうだと思う。いつもふてくされたような態度なのに、その看護婦さんのときだけは素直になった。
「あの看護婦さんって、いいよね」とイーノに話したとき、イーノは「でもあの人、ほんとは男よ」とぼくに耳打ちした。えっ、と思わず聞きかえした。こんどよく見てみ、足なんか毛むくじゃらなんだから、とイーノは答えた。
その朝、例の看護婦さんが検温してまわっているとき、イーノはクックッと笑いながらその足を見るように目でぼくに合図をした。看護婦さんは「なあに」と笑顔でイーノの体温計の針を読む。ベッドから上体をづり落として、ぼくは看護婦さんの足をのぞきこんだ。白いストッキングにおおわれたスネのあたりに、黒い毛がけむりのように逆巻いていた。
「ゲッ、スッゲエー」
思わず大きな声をあげた。体を起こそうとして、頭にゲンコツが当たるのを感じた。見上げると、看護婦さんがゲンコツにさらに力をいれて「どうしたの」と笑った。グリグリと痛かった。
「スッゲエー、痛てえ」とぼくは頭をおさえた。イーノが「スッゲエー、スネゲー」とはやしたてた。
「だれがそんなこと教えたの」
イーノは向かいの佐藤さんを指さした。あわてて窓のほうを向いて寝たふりをする佐藤さんに、「子供にヘンなこと教えないでください」と言って、看護婦さんは出ていった。
「だって、ホントだもんね」と、イーノは佐藤さんに向かって言った。佐藤さんのとなりで本橋さんが、イテテとお腹を押さえながら笑った。
その日以来ぼくたちの間では、その看護婦さんを「スーネエ」と呼ぶようになった。佐藤さんが「スーゲー、姉ちゃん」と言ったのを、イーノが「スーネエ、スーネエ」とはやしたからだ。「いいか、鈴木さんだからスー姉え。わかったな、スネゲと言っちゃだめだぞ。またオレが怒られるから」と、佐藤さんはみんなに注意した。でも佐藤さんは、その「スーネエ」をよく「スゲネー」と間違えて呼んだ。そのたびにイーノは、スーネエでしょ、と訂正した。
そのイーノが、一度だけ激しく「スゲネー」とののしったことがある。女性用の病室が空いて、イーノが部屋を移ることになった時だ。
イーノはベッドにしがみついて「スゲネーのバカヤロー」と怒鳴った。なにがあっても絶対に移らない、ここが男の部屋なら、今日からわたし男になる、と言ってきかなかった。イーノの両親も呼ばれて大問題になったが、結局「いい子にしているから」と約束してこの部屋に残ることになった。イーノのことについては、ぼくらがみんなで保障した。
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