第17話 井戸端ファッションショー 昼と夜編
朝食を食べたあと、何もする気になれなくて私はベッドで横になった。
ロバートさんやコゼットさんも、私が体調が悪いと思ったのか、ゆっくり休んでください、と言ってくれた。
だけど眠れなかった。天井が見える。雨漏りの跡だろう。シミが沢山あった。木材が黒く変色しているのは、腐ってきているのだろうか。
「うっ。うううぅぅぅ」
レベッカさんの呻き声が聞こえる。私は、レベッカさんに背を向けるように横向きの体勢へと寝相を変える。井戸端ファッションショー作戦を私は実行することができなかった。逃げ帰ってきてしまった。
レベッカさんを診察し、薬を買うお金……。
私はやっぱり聖女失格だ。
ベッドから起き上がって、また井戸端ファッションショー作戦に挑戦する気が起きない。
朝の井戸端会議で、東のスラム街で流行病が発生していると噂されていた。
どうして、私は、西側の……私が住んでいるスラム街の井戸にだけ、『聖女様の井戸周辺を汚すなかれ。これより井戸に地下場所で糞尿を捨てることを禁じる』という立て看板を立てた。
看板自体はロバートさんが造作もなく造ってくれる。看板の文字も、道ばたに落ちている消し炭の欠片を拾って書けば良い。
東側にも同じ看板を立てて、それが機能すれば、流行病を少しは予防できたかもしれない。全部は防げないかもしれないけれど、効果はあっただろう。それは、西側の状況をみれば明らかだ。より衛生的な水を手に入れる。それだけで健康面で大きな改善があることは明白だ。
だけどそれを私はしなかった。
王都の城壁の周囲にはスラム街があるということを知っていた。王都には多くの井戸があることを知っていた。でも、私は西スラム街の井戸にしか立て看板を立てなかった。
奇行のように……狂人のように見られるかも知れないが、ロバートさんとでも夜中に王都を巡り、造った立て看板を木槌で井戸の周りに打ち込んでいくということもできた。
だけど、私はそれをしなかった。
あまり目立ったことをすると、王宮が動いて、私を捜し始めるかもしれない。私が生きているということはすでに知られているだろう。
もう聖女としての能力というか、「神託」がもうないと思われているから、探すメリットが王宮にはないのかもしれない。
だけど、もう残りカスのような知識しかない私だけど……王宮がまた探し出すかもしれない。
自己保身。そして、それが理由で、王都の多くの人たちの非衛生的な環境を見てみぬ振りをしている。
聖女は、慈愛に満ちていて、聡明で、そして清らかであるらしい。
私は、自己保身の固まりで、すごい現代知識なんて持ってなくて、そして……汚れている。
『行きなさい』
ふっと、そんな声が聞こえてきた気がする。空耳だろうか。空耳に違いない。どこへ行けと行くのか。
『行きなさい』
そういえば、私が石打の刑で処刑されそうになっていたとき、私を助けた人も、そんなことを言っていた。
どうして、あの人は私を助けたのだろうか。
ふっと、カーディガンが目に入った。椅子の背にかけてあった。コゼットさんが、椅子にかけていってくれたのだろう。ボタン付きのカーディガン。
私がベッドから起き上がったときに、着れるように、寒くないようにという気遣いだろう。
優しさが染みる。
「うううぅぅぅ」
レベッカさんがまた、呻き声を上げている。その呻き声が私の背中を通して、はらわたにまで響く。
もう一度、チャレンジしよう。井戸に行ってみよう。
私はベッドから起き上がった。カーディガンが着て、そして上から下までボタンを留めていく。
レベッカさんは額に汗をかいていた。それを、私は濡れ布で拭き取った。
「行ってきます」と私は言って、また井戸へと向かう。
・
・
意気込んで行ってみたのはいいのだけれど……さっそく自分の失敗に気がついた。
もう、昼時である。太陽が高く昇っている。暑い時間帯なのである。
わざわざ暑い時間帯に、井戸の水を汲むなんてことをする人なんていない。
だから、朝の井戸が混雑するのである。井戸に人が沢山いるのは、涼しい夜明け前と、そして太陽が沈んで涼しくなった時刻である。
ボタン付きカーディガンをたくさんの人に見てもらって、ボタンの需要を生み出したかったのだけど、いまの時間は……一人の男性が井戸の近くに座っているだけである。
作戦は、井戸の水を汲む、そして身体を動かしたら汗かくし、暑くなるので、カーディガンをわざとらしく脱ぐというものだ。
ボタンを外して簡単に脱ぐことができるというのが、ボタン付きの服の利点である。体温調整が簡単にできる。
また、すぐに着ることができるのも、ボタン付きの服の良さである。
多少わざとらしいけれど、カーディガンを楽に脱着衣しているところをアピールする作戦だ。
井戸汲みに来ている女性たちにそうやってさりげないファッションショーをするつもりだったけど……男性一人かぁ……。それに、カーディガンとはいえ、脱いだり着たりして、別の方面に誤解されたら困るなぁ。
でも、今度こそ最初の一歩を踏み出す。
「こ、こんにちは」
井戸の近くに座っているのは、見たことない男性だ。少なくともこのスラム街の住人ではないだろう。旅人なのかもしれない。
「水を飲ませてください」
ん? と私は思う。井戸があるのだから、自分で水を汲んで飲めばいいのに。
「どうして、水を飲ませて欲しいと頼むのですか?」
私は問い返す。当然、煮沸消毒された水など私は持ってない。
この井戸は、衛生的な水になった。そのまま飲むには少し不安があるけれど、その危険性は、私が水を汲んでも、この人が汲んでも、それは同じ事だ。
「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」
言っていることが良く分からなかった。
「では、その水をください」
そういうと、その人は、井戸に桶を落とし、桶を引き上げた。そして、その桶の水を私が持っていた桶に注いだ。
「行きなさい。そして、あなたの家で寝ている病人にその水を飲ませなさい」
凄味があった。言っていることは良く分からないけれど、私はコクンと頷き、コゼットさんの家に帰った。言われた通りにしたほうが良い気がしたのだ。
そして、レベッカさんにその水を飲ませた。
異変が起こったのはその夜だ。
ロバートさん、ドットさんも帰宅して、夕飯を食べている時であった。
なんと、レベッカさんがベッドから起き上がって来たのだ。
全員、ぽかーんである。
セト君なんて、フォークに刺した蒸かしたジャガイモを机に落としていた。
「なんか、もう大丈夫みたい」
昨日まで……いや、昼間であんなに全身が痛いと言っていたのに。
直感的に分かった。あの男性がくれた水だ。ただの井戸水ではなかったのかもしれない。
夕飯は、喜ばしいものとなった。
普段とおなじジャガイモを蒸かして、塩を振っただけの料理であったけど、普段よりも格段に美味しいと感じた。
ロバートさん、ドットさんに続き、レベッカさんまで回復した。
こんなに嬉しいことはない。
夕飯後。私は、井戸の所へ行った。
お礼を言おうと思ったのだ。
だが、その人の姿はなかった。旅人風であったから、どこかへもう行ってしまったのだろう。
今度会ったら必ずお礼を言おう。
そう思って、その人の顔を思い出す。
優しそうな顔、そして声の男性だった。
声……。
聞き覚えのある声……。
『行きなさい』
あっ。
私の中で、『行きなさい』という声の主が重なった。
私の命を助けてくれた人。
そして、レベッカさんの病を癒やす水をくれた人。
同一人物だ……どうして私は、それに気付かなかったのだろうか。
私を助けてくれたときには、その人の声だけで姿を見ていない。顔を見ていない。
だけど、不思議な確信がある。
同一人物だ。
「ソフィーさん」
後ろから呼ぶ声がした。ロバートさんの声だった。
「突然、走って家を出ていったのでびっくりしました」
「す、すみません。確かめたいことがあって」
「もう、大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ?」
「そうですか。夜風は身体に障るのでこれを着てください」
そうやって私の両肩にかけたのは、ボタン付きのジャケットだった。ロバートさんのアウターは、大工仕事ということもあって、厚手の布地にしておいた。また、ボタンだけでなく、両胸にポケットを付けたりして、作業をしやすいようにした服だ。
「ありがとうございます」と私はお礼を言った。
「それにしても、突然なにも言わずに夜に家を出て行かれると心配します。コゼットさんも心配をしていました」
「すみません。ちょっと確かめたいことがあって。でも、もう終わりました。帰りましょう」
私がそう言うと、ロバートさんは安心したのか、ホッとしたようなため息を吐いた。
「それじゃあ、手を繫いでいいですか? セトの話だと、ソフィーさんは目を離すと直ぐにサボってしまうらしいので」
「そんなことはしませんよ。それにもう夜ですから、もう休む時間です」
太陽が沈めば、夜だ。月の光が明るい。星の数は、私が知っている元の世界の夜空よりも多い。それでも、家の中で内職する光量には足りない。夜は、暗闇の中でまどろむ時間なのだ。
「それでも……手を繫ぎたいんです」
そういって、私の左手をロバートさんは右手で握った。
それからはお互い、会話はなくて、ロバートさんが進むままに、私たちは眠りについた王都を、星空を眺めながら、少しだけ遠回りしてコゼットさんの家へと帰った。
不思議と、その夜は温かかった。ロバートさんが着せてくれた、ボタン付きジャケットのためなのかもしれない。
私の左手を握るロバートさんの体温のせいなのかも知れない。
少しも寒くなかった。
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