第12話 モルタル

 朝が来た。新しい朝だ。


 レベッカさんの容態は、回復しているとは言えない。全身の骨にヒビ、また骨折しているということであれば、回復に時間がかかるだろう。


 みんな元気になれば、こんなに嬉しいことはない。


 それに、ドットさんの下痢がついに止まった。


 夜の間に置いておいた桶に、汚物がまったく溜まっていなかった。


 ドットさんの顔色も良くなっている。


 随分と痩せたねぇ、とコゼットさんが言っていた。ドットさんは肩幅からして体格が良かったのだろう。

 荷物引きの仕事をしていたそうだ。あとは、小麦の収穫時期になると、粉挽きとして大きな石臼を回していたらしい。


 荷引きも、粉挽きも、どちらも力仕事である。


 コゼットさん、セト君、そしてロバートさんも元気である。


 さて、私は朝の仕事だ。最近、労働が楽しい。王宮では引き籠もっていたからね……。


 私の朝の仕事。それは、水汲みである。


 とても、重要な仕事である。


 人間の体重の六割を水分が占めている。


 人間の肉体の生命維持に欠かすことができない。食物に含まれている水を除いても飲料水として一リットルほど摂取する必要がある。


 水は、生きる為に必要なのだ。


 そして、当然、それらを手に入れなければならない。


 

 コゼットさん、セト君、ドットさん、レベッカさん、ロバートさん、そして、私。


 飲料水用としてだけでも五リットルの確保は、必須だ。


 ドットさんは、常に水を放出していたから、もっと水分が必要だった。


 数字って、残酷であったりするのかもしれない。


 元の世界であれば、蛇口をひねって貯めておけば、五リットルの水など簡単に手に入る。

 だけど、この世界では水を確保するというのが優先事項となる。


 その他にも、衣服を洗う、体を拭くなど、生活、というか文明的な暮らしを支えている。


 ゆえに、水、井戸は重要であるし、井戸の水汲みも重要な仕事だ。


 また、重要であるがゆえに、朝の王都の井戸というのは、行列ができる場所だ。


 スラム街で行列が出来るのは、朝と夕方の井戸くらいだ。


 ちなみに、昼頃は井戸もけっこう閑散としている。


 なぜなら、昼は暑いからだ。


 けっこうな重労働だし、やるなら涼しい時間帯に行いたいと思うのは、当然だろう。




「おはようございます」


 私は、スラム街に住んでいる人たちと挨拶を交わす。水を汲みに来ているのは主に女性である。


「あら、おはよう。ソフィーちゃん。今日も元気ねぇ〜」


 井戸の水を汲んでいる間の待ち時間は、お喋りの時間だ。井戸端会議、というのが前の世界にも言葉として残っていたが、井戸でなぜお喋りが始まるかというと、井戸、つまり水が必需品であるため、必然的にみんな井戸に集まる。


 井戸の水汲みは同時に作業できないために順番待ちとなる。


 待っている間は暇なので、王都の噂話などが始まる


 ということのようだ。


「みなさんもお元気そうでなによりです」


「そうなのよ。最近、元気なのよ〜」


「あら、私の所もみんな元気でねぇ」


「体の調子が良いのよ〜」



 スラム街の住人たちは、最近、体の調子が良いようだ。



 原因として、思い当たることは井戸の水質が改善したことだ。ロバートさんに作ってもらった立て看板には、『聖女様の井戸周辺を汚すなかれ。これより井戸に近い場所で糞尿を捨てることを禁じる』と書かれていて、それをスラム街の人たちは忠実に守るようになった。


 井戸の周りに糞尿や汚物、汚水を捨てたら、細菌などが井戸の水にまで侵入し、井戸水全体を汚染してしまう。それを飲んだ人、その井戸水を使う人の、感染症の危険が高まるのだ。


 衛生的な水にアクセスすることができる。


 これは、意外と簡単なようで難しい。


 元の世界でも、世界の人口七十億人のうち、四十二億人が、衛生的なトイレを使うことができていなかった。また、そのうちの七億人は、トイレそのものが近くに無く、道ばたや草むらで用を足していた。


 また、二十二億人が、安全な飲み水を確保できていなかった。


 また、三十億人が、石鹸や手洗いする綺麗な水がなかった。



 基本的な問題でありながら、解決するには難しい問題なのだ。


 せっかく王都は、井戸が整備されているのに、その井戸を知識が無い故に自ら汚していて、非衛生的にしていたのだ。


 衛生的な水を使う。


 それだけで、健康面で大きく生活の質が改善する……


「やっぱり、井戸の周りを綺麗にしているから、聖女様が加護を与えてくださっているのかねぇ〜」



「聖女様のお言いつけを守っているからねぇ〜」


「ありがたい話だねぇ〜」


「聖女様は、お優しくて、それに美しい人だと聴くねぇ〜」


「結婚式のときも、とても美しく神々しかったらしいわよ」


「王子様との結婚式は、とても恩赦もありがたかったねぇ〜」



 そう言いながら、スラム街の人たちは、『ソフィアの井戸』を拝んでいる。


 ……いや、加護とかそういうのないから……。


 ってか、美しいとか、その噂、どっから出たのだろう。


 私は平凡な外見だ。王子が見向きもしないで、側室に走るほど魅力がない。


 それに、王都でお披露目として、王都で一番広い広場で、参列者が万を超えていたらしいけれど、結婚式をのときはずっとベールを被っていたから、私の顔、見た人いないじゃん……。まぁ、そのお陰で、私は顔バレしていないからこのスラム街で生活できているのだけれど。


 みんなが、井戸を衛生的に使っているから、健康面で生活が改善したんですよ〜と言いたい。なぜなら、一人でも井戸周辺を汚染させる人がいたら、それだけで衛生の改善は成り立たない。

 


 それにしても……どうやら王国は、聖女を排斥したことを国民に公表しないようだ。王宮では周知の事実となっているが、どうやら城外では秘密の事らしい。


 まぁ、国民をいたずらに不安にさせないという配慮だろうか。


「じゃあ、私は失礼します〜」


 聖女の褒め殺し、ないし、私への羞恥プレー的な井戸端会議は恥ずかしいので早々に立ち去った。


 『王子様と王宮で幸せに暮らしているのでしょうねぇ〜』は、まじで地雷だ。そんな瞬間は結婚してから四年間、一度もなかったよ。



 さて。気を取り直して、今日は、昨日に引き続き、石鹸の制作をする予定だ。


 昨日、竃で焼いた貝灰に、油と水を加えて混ぜてみれば石鹸が出来上がるはずだ。

 

 コゼットさんの家の前に置いていて桶を回収して…………あれ?


 桶の中が石になっている。昨日、焼いた貝灰に水を入れて、そのまま放置していただけなのだけど……。

 手の甲で叩いてみても、石のように固まっている。まるでコンクリートだ……。どうして? 石鹸の材料のはずが……。


 それに……桶を一つ、ダメにしてしまった……。コゼットさんに怒られるかもしれない。コゼットさんの家の前で、私は呆然とする……。やらかしてしまった……。


「おっ、ソフィー、帰って来たのか。顔洗いたいから水くれよ〜」


 セト君が家から出て来た。


 やばい。見つかる。私は慌てて隠した。


「ん? 何隠した?」  


「何も隠してないよ?」


「嘘つけー。さてはまたサボりか——」


 サボりではない。いや、事態はもっと深刻化もしれない……。


「あっ! なんだこれ! 石じゃないか! ソフィーさては黒魔術を使ったな!」


「使ってない!」


「じゃあ、なんで桶の中が石になってんだ!」


「こら! 大声で叫ばない……って……セト君! もう! 今すぐそのお口を閉じないと、この桶みたいにセト君も石にしちゃうよ!!!!」


 なんちゃって。私は冗談で言ったつもりだった。


「うっ……え? そ、そんなことは止めてくれよ……」


 いきなり静かになり、顔面蒼白になるセト君……。


「いや、冗談だからね?」


「うぁぁぁ〜〜〜ん。ソフィーに石にされる〜〜」


 セト君はついに泣き出してしまった。


 騒ぎを聞きつけたロバートさんとコゼットさんまで家から出て来てしまった。


 だが、さすがはロバートさん、冷静である。


「これは、モルタルですね」


 冷静に桶の中身を分析する。


「これが分かるのですか?」


「えぇ。大工の仕事で使う時もありますから。これがモルタルかちょっと調べてみましょう」


 ロバートさんは仕事道具で桶を分解して、中の固まったモルタルだけを取り出そうとする。


「あの……桶が壊れてしまいますけど大丈夫ですか?」


「桶くらい、僕が作れますから大丈夫です」


 そして、手早く桶を分解し、中のモルタルをトンカチで叩いたり、少し削ったりしている。


 格好いいなぁ〜。


『桶くらい、僕が作れますから大丈夫です』


 とても格好良かったから、二度言います。

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