第8話 立て看板を作ろう
ロバートさんが、病気から回復した!
どうやら、病気と、ロバートさんの体力。
この二つが戦って、死闘の末に、ロバートさんが勝ったということだ。
こんなに嬉しいことはない。
ドットさんも、下痢の質が変わってきた。
桶に溜まったのも、水っぽいのから、多少、ドロッとしたのに変わってきた。
回復の兆しだったらよいのだけど……。
それにしても、ロバートさんが回復したことは、コゼットさんの家にとっては大きいことだ。
「ありがとう」とロバートさんがお礼を言った。
「いえ、私は本当に何もしていませんから。治ったのは、ロバートさん自身の力です」
ロバートさんに何度もお礼を言われて、私はすっかり恐縮してしまった。
ロバートさんは、すぐにでもまた、働き始めるということだったが、病み上がりなので、数日は休んでください、と念を押しておいた。
一週間を超える闘病生活は、体力や筋力を衰えさせているだろう。休息は必要だ。
ロバートさんは大工だ。力が要る仕事なら、休息して体力を回復させてからでないと怪我をしてしまう。
リハビリということで、ロバートさんは井戸から水を汲んでいる。当然、私も手伝いつつ、ロバートさんの様子をみる。
水、というのは人間が生きていく上で欠かせないし、飲み水とか料理に使う以上に、生活を成り立たせるものとして、水が必要だ。
元の世界でも、洗濯機を回す水の量や、お風呂に入るために浴槽を満たした水の量や、水洗トイレで流した水の量と、飲み水、料理に使った水では、どちらが多いだろう?
「二人でやると早いですね」
ロバートさんと私で協力して井戸水をくみ上げると、あっという間に作業が終わった。分業というやつだ。
ロバートさんが井戸から水を汲み、その間に、私が汲んだ水をコゼットさんの家の大きな樽まで運ぶ。私が井戸のところに戻ると、すでに満杯になった桶が置いてある。私は、空になった桶を置いて、また、コゼットさんの家に行って、樽に水を入れればよい。
セト君の身長では、残念ながら樽に水を入れることができなかったので、この分業は成立しなかった。
一人で井戸水汲んで、運んで、樽に入れて、また戻って井戸水汲む、という作業よりも、効率は格段に良い。
一人でやったら三時間の作業が、なんと二人で三十分程度の時間で終わってしまった。
一人 × 三時間 = 三時間
二人 × 三十分 = 一時間
二人でやると、二時間も時間を節約できた計算になる。
「それに、ソフィーさんと一緒に働いていると考えると、とっても楽しいですよ」
天気が良かったせいか、ロバートさんの笑顔が眩しかった。
大工ということで、引き締まった肉体であることは介護していたときに気づいていた。顔立ちも整っていて、爽やか細マッチョ・イケメンだから笑顔を素敵なのだろう。
それが、ロバートさんだ。
セト君が慕っているほど、面倒見が良い。
大工としても腕は一流で、人望もあり、次世代の大工ギルドの親方候補だそうだ。
……なに、このハイスペックな人……。
「思いのほか、早く終わってしまいましたね」
午前中一杯の仕事が、あっけなく終わってしまった。別に、井戸の水汲みを早く終わらしたからと言って、とくにやるべき事はない。
絶賛、失業中な私。掃除は終わったし、竃の灰も十分だし……。仕事が早く終わった分、私はなにもすることがない。
「もし、ソフィーさんが、怪しげな黒魔術をするのなら、喜んで俺も手伝うよ」
……。
背中に太陽を背負っているせいか、ロバートさんからキラキラする笑顔で言われた。
でも……『怪しげな黒魔術』って……? 爽やかなロバートさんの笑顔に対して言われていることは不穏だ。
「えっと? ロバートさん? 私は、黒魔術なんて使いませんよ?」
この世界にも魔女狩りとかあるのだろうか? 聖女から身分を剥奪されて、今度は魔女とか言われて狩られたら、今度こそ立ち直れない気がする……。いや、立ち直る前に、火あぶりにされてしまいそうだ。
「聖女様の井戸を勝手に変えたり、普通とは違う病気の治療をしていても?」
うっ。キラキラ笑顔で、核心を突かれている気がする……。
「そんな困った顔をしないでください。この井戸、確かに使いやすくなっています。これはすごいことですよ」
「セト君にも言いましたが、内緒にしてくださいね」
「もちろんです。命の恩人に対して不義理はしません」
ロバートさんは言い切った。信じてもいいのだろうか。
「ちなみに誰かに言ったらどうなるのですか?」
「う〜ん。仮の話ですが、私が密告したとしたら……ソフィーさんは十字架刑か、火あぶりでしょうね。私は、密告して金貨一枚の報酬でしょうか」
やっぱり、魔女狩りあるじゃん。火あぶりとかーーー! それに、密告制度があるとか、この世界恐い。
「そんなことはもちろんしません」
「で、でも、黒魔術って……」
「それは、セトが言っていました。だってそうでしょう? 普通は、高熱が出たら、冷たい水の中に病人を入れる、というのが治療法です。セトやコゼット婆さんでは、私を川まで運べないので、私は寝たきりでしたが」
「え? 冷たい水の中に入れる?」
「えぇ。だって、体全身から熱が出てるのですから、体全部を冷やすのは当然でしょう」
なんだ? その怪しげな、というか間違った民間療法は……。
熱が出るというのは、体内に侵入した病原菌と体の免疫機構が戦っていて、それにより発熱するのだ。むしろ、そんな中で体を冷やしたりなんかしたら、逆効果でしかない。
頭を冷やすのは、病人の負担を軽くするためだ。脳を保護するためだ。
唖然としてしまう。
「怪しげな黒魔術でもかまいません。それで俺は治った。ソフィーさんに命を助けられた。高熱でぼんやりとしながらも、いつもあなたが傍にいてくれ、『頑張って』と励まし続けてくれた。一生かかっても返しきれない恩が、俺にはソフィーさんにはあるんです。今度は、いえ、これから一生、俺はソフィーさんを助け続けたいと思っています」
キラキラ笑顔でそう言ってくれているのは嬉しいけれど、私にとってはそれ、行きに死にの問題だ。魔女だと私は思われているのかもしれない。
蜥蜴の尻尾や蝙蝠の羽根を鍋で煮ているとか思われているのだろう。
「お願いね! 黒魔術を使ったとか、広めないでね。コゼットさんやセト君にも、ロバートさんから口止めしといてね。お願い、お願いです! 私は黒魔術とか使っていません! 本当です!」
私は必死にロバートさんに懇願する。そもそも、私は黒魔術とか、そんなファンタジーな魔法みたいな能力を持ってない。そんな能力があれば、ホウキに乗って、王宮から逃げ出していた。
それに……火あぶりとか恐すぎる。
火あぶりは、熱というより、本当に恐ろしいのは煙だ。
立ち上ってくる煙は、一酸化炭素中毒でしなないギリギリのラインに調整されているというのが元の世界の火あぶりの刑だ。煙で呼吸が苦しみながらも、気絶もできない。それでいて、足下から焼かれ続ける。やだ——絶対、苦しいに決まっているじゃない!!!!!!!
「え……えぇ。もちろんです」
しばらくして、落ち着いた私に、ロバートさんはまた言った。
「本当に、俺に出来ることなら、なんでもお手伝いしますよ。コゼット婆さんも、手伝ってやんな、と言っていましたし」
おぉ。コゼットさんも私を少しは信頼してくれたようだ。
こんなに嬉しいことはない。
えっと……じゃあ……。
私は、井戸の周りを見渡す。気になっていたことがあるのだ。
それは、井戸の近くに糞尿を捨てていく人がいることだ。
捨てる場所がないし、王都の外に捨てに行くのは大変に手間だけど、井戸の周りだけは止めて欲しい。
だって、井戸の近くだと井戸まで汚染されてしまうからだ。
井戸は、穴だ。水は高い所から低い所へと流れる。
一応、井戸には石で転落用防止用の囲いがあるのだけど、地上から流れ込む水を防ぐような構造をしていない。
つまり、雨など降ったら、井戸に糞尿が流入するのだ。その糞尿に病原菌が入っていたら、それはパンデミックの原因となる。口にする飲み水は加熱するにしても、食器やシーツを洗う水が汚染されていたのでは、意味が無い。
「あの、ロバートさんは大工さんでしたよね?」
「そうです。これでも良い腕なんですよ。俺たちが二人で住む家を作りましょうか? 任せてください」
ロバートさんは胸を叩いて張り切っているけど、家だとかそういう大きな事ではない。私は、立て看板を欲しいのだ。
「あの、この井戸周辺の地面にさせて、文字の書ける看板を作って欲しいのですが……」
「え? スイート・ホームではなく……立て看板?」
なぜか、ロバートさんは残念そうだけど、さすがに、病気を治して、報酬が家を建ててもらうというのはどうかと思う。過大報酬だ。それに、私は病気の治療をしたわけではない。衛生面を改善しただけだ。
「はい! 是非お願いしたいです」
私は笑顔で答える。
「わ……分かりました……」
ロバートさんは残念そうな顔をしていた。
頼んだのが立て看板というのがいけなかったのかもしれない。ロバートさんは、優秀な大工だ。そんな腕の良い大工さんに、立て看板なんて、簡単なことを頼んだからロバートさんのプライドを傷つけてしまったのだろう。
だけど、私はできた立て看板に満足をした。
流石はロバートさんだった。腕利き大工。
スラム街の倒壊した家の木材から見事な立て看板を作ってくれた。井戸の周辺にこの立て看板を立てていく。
私は、設置した立て看板に、かまどで燃え残った炭で文字を大きく書いていく。
『井戸の周りに糞尿を捨てないでください。綺麗な井戸を守りましょう』
この井戸周辺に糞尿を捨てないだけで、井戸の汚染は少しは防げるだろう。井戸から遠い場所から染み込んだとしても、地中から染み込む分には、濾過されるだろう。
「ロバートさん、これでバッチリです」
設置作業を終えて、自信満々でコゼットさんの家に帰ったが、翌日、井戸の現状を見て私は驚愕した……。
……。
立て看板あるのに、全然、改善してない————。
……。
ショックだ。せっかく立て看板を作ったのに……。いや、でも……それは仕方がないことかもしれない。
マンションとかでも、ゴミ出しの日でもないのに、適当にゴミを出す居住者もいる。不燃ゴミの日に、しれっと燃えるゴミを出す居住者だっている。
ルールを守らない人はどこの世界にもいる。だが、対策は出来る。ゴミ捨て場に、防犯カメラを設置したら、ピタリとゴミ収集日以外にゴミを捨てる人がいなくなるのと同じだ。
たぶん、この井戸周辺に糞尿を捨てるのは、この場所に捨てるのには理由があるのだ。別の場所まで運ぶのが面倒くさいのだろう。
①運ぶの面倒だから、井戸周辺に糞尿を捨てる。
②多少運ぶ手間がかかっても井戸から離れた所に捨てる。
これは、メリットとデメリットの問題だ。
①と②のどちらがより、有利かという問題だ。
この前の、マスクの問題と同じだ。
①マスクは感染症を予防するが、呼吸をしにくいと感じる
②マスクをしないで呼吸が楽なままでいる
マスクの有効性を示し、感染する病気が重いのであれば、当たり前に①をみんな選ぶ。いっとき呼吸が楽でも、病気に感染したら、もっと苦しい思いをする。予防の重要性を知る。
だが、マスクの有用性が分からないなら、マスクをしない方が呼吸が楽だし、邪魔にならないから、マスクをしないだろう。いくら、マスクして! と言っても無駄なのだ。啓蒙活動によるマスクへの理解を高めなければ意味が無い。
それと同じ問題だ。
糞尿を井戸の近くに捨てる。それは、悪意があるというより、運ぶのが面倒、という理由だろう。
だから、
①運ぶの面倒だから、井戸周辺に糞尿を捨てる。
②多少運ぶ手間がかかっても井戸から離れた所に捨てる。
という選択を迫られた際に、明らかに②を選ぶようにすれば良い。
井戸の周りに糞尿を捨てていく人は、その人たちなりに合理的な選択をしているのだ。
『立て看板に書かれていることを守った方がいいのか』
『手間だから、意味不明な立て看板を無視する』
この二択で、合理的に考えた結果、立て看板を無視する、という行動をしているのだ。
環境保護による二酸化炭素排出規制か、自国の経済発展を優先するか。
その場に置いて、合理的な選択がなされる。どっちが良い、悪い、の問題ではない。
じゃあ、どうするか。
重くて臭い桶に入った糞尿を遠くまで運んで捨てさせるだけの動機が必要だ。
どうする……。
私が思い付いた方法は、自分でも嫌になる。だけど、それしかなかった。
『聖女の井戸周辺を汚すなかれ。これより井戸に近い場所で糞尿を捨てることを禁じる。』
聖女様のご威光を使う。それしかない。
私は追放された聖女だ。そして、もともと聖女なんかじゃない。前の世界の知識を持ったまま転生した普通の人間だ。
聖女の名前を騙る。それも、立て看板に書いて公に示す。
この世界の法律に当てはめたら、聖女の名を騙るのは死刑だ。
「え? それ……ソフィーさんって意外と大胆ですね」
ロバートさんは私が書いた内容を見て、頬が引きつっている。
ロバートさんも私が書いた内容のヤバさを理解したのだろう。
リスクは仕方ない。だって、みんなの健康のためだ。
拾った命だ。王国から聖女として用済みになった、という理由ではなくて、このスラム街に住む人たちの健康が少しでも守れるなら、意味はあるような気持ちになれる。
・
・
そんな私の決意とは裏腹に、立て看板の内容を変えた次の日から、井戸周辺に糞尿を捨てる人がいなくなった。というか、立て看板よりさらに広範囲において、糞尿を捨てなくなった。
コゼットさんとロバートさんの話では、井戸周辺のスラム街の住民が話し合い、糞尿は毎朝、スラム街の一個所に集めて、当番制・協力して河に捨てに行く、ということになったらしい。
聖女さまのご威光がすごい。
一発だった。
それに、排泄物を意識的に一個所に集中させるとか、井戸一帯の衛生面の改善が期待できる。この世界の聖女様はすごい。きっと、私じゃない誰かなのだろう。
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