第4話 超劣化版、無菌室作戦

 井戸から水を汲んできて、まずは井戸の周りの糞尿を押し流して清潔を保とうとした。


 だけど、上手く行かない。理由は、排水溝、つまり、出口がないからだ。


 排水溝がない、ということがこんなにもやっかいであるとは思ってもみなかった。


 元の世界であれば道に面して溝があり、そこに水が流れていく仕組みとなっていた。道路の両脇にある鉄格子がそれだ。アスファルトは水を吸わない。近代的な都市なら、地面は少なく、コンクリートかアスファルトに埋め尽くされていて、水が地中へと染み込んでいく場所が少ない。


 雨水も、溝が河川に通じていて、そこに流れ込む仕組みになっていたり、地下に埋め込まれた下水管を通って排水されていく仕組みであったのだろう。


 当たり前のインフラである。


 だけど、この世界にはそれがない。


 きっと、この王都も、王城があって、いつのまにか王城の周りに貴族が住み始めて、そしてその周りに市民が住み始めて、さらにその周りにスラム街ができたのだろう。


 都市計画なんてものがないのだ。もしかしたら、都市計画という考えすら存在しないのかもしれない。


 

 いや……そんな王都の都市計画なんて今はどうでもいいのだ。何が問題か。


 糞尿が溜まった地面。


 私は、水で押し流そうと思っていた。


 だけど、押し流す先、出口がないのだ。


 水で流そうとしても、近くの地面の凹みに糞尿が集まるだけなのだ。


 水は高いところから低い所へと流れる。当たり前のことだ。だって、まだこの世界では発見されていないけど、重力が存在している。



 窪みに溜まった糞尿を柄杓で桶にくみ上げて、川へと捨てに行くしかない。


 身分の貴賤にかかわらず、人間は毎日、排泄をする。



 王宮や貴族達は、その排泄物を召し使いなどを使って、川へと捨てさせる余裕があるのだ。


 逆に言ってしまえば、スラムに住む人たちは、排泄物を川へと捨てに行く余裕がない。


 考えてみれば当たり前だ。


 本能的に、糞尿は臭いと感じる。不快だ。非常に不快な匂いだ。


 あぁ、そうか。理科の実験を思い出す。


 アンモニアは臭かった。鼻がもげそうなほど臭かった。理科実験室から逃げ出したいほど臭かった。


 香水は良い匂いと感じる。

 だが、アンモニアは臭いと感じる。


 その差はなんだろう? 答えは簡単だ。人間の体に対して、アンモニアが有害だからだ。

 この匂いから全力で逃げ出せと本能が警告しているのだ。

 動物であれば、本能的に王都から逃げ出すだろう。


 ペストはネズミが媒介だ。猫を飼ってネズミを駆除すれば、ペストを予防できる。

 現代の知識を持った人ならそう考えるだろう。だが、無理だ。


 だって、ネコは本能的に、この糞尿にまみれた王都から逃げ出すからだ。首輪でもしないかぎり、ネコはさっさと王都から逃げ出すだろう。

 古代エジプトでは猫を飼っていた? それって、パピルスに記録された、華やかな王宮だけの話じゃない? もしくは、ナイル川と治水の賜物か。



 なぜ、この国では、王都から人びとが逃げ出さないのだろうか?

 それは、王都でしか生きる術がないからだ。

 ひもじくても、野菜の切れ端のスープが飲めるからだ。なんとか日々の命を繫いでいけるからだ。

 悪臭漂うスラム街に滞在し続ける以外に選択肢がないのだ。




 たとえば……


 休日がない。

 毎日、八時間の残業が当たり前で、慢性的な寝不足。

 過労死寸前。

 しかも給料は安い。

 そんなブラック企業に勤めていたとする。

 他人が見たら、じゃあなんで転職しないの? と言うかもしれない。

 転職する気力すら失われているのか、他に選択肢がないからだ。

 ブラック企業から転職できているなら、人に言われなくても、とっくにそうやっている。




 寝食する場所が、臭い。

 現代知識がなくても、本能的にそれは不快だ。そんな劣悪な環境を避けれるなら、とっくに避けている。


 伝染病の感染源となるような汚物は取り除いて清潔を保ちましょう。衛生面を改善しましょう。


 手洗い、うがいをして、風邪の予防をしましょう、と同じだ。習慣の問題以前に、手洗いする清潔な水はどこにある? うがいをする煮沸された水はどこにある?


 ……。


 知識を持っていたって、私は無力だ……。


「ソフィー、水を汲んだぞ。本当に楽に水を汲めるな。これなら、俺だって、みんなの役に立てる!」


 セト君が、また新しい水を井戸から汲んで来てくれた。井戸の釣瓶に重石を付けたことにより、セト君でも井戸から水を安全に汲めるようになった。


 だけど……


「どうしたの? 早く掃除しようよ。ロバート兄ちゃん、それでまた元気になるかも知れないんでしょ」


 セト君の無邪気な笑みが、希望に満ちた笑みが、私の心に突き刺さる。


 やっぱり無理だった……と言いそうになった。だけど、そんなこと言えない。考えろ、私。何かあるはずだ。なにか、出来ることがあるはずだ……。


 思い切って、病気の人たちを王都から連れ出すか? 綺麗な空気と水がある場所へと移動させる?

 良い考えかもしれない。

 たしか、結核を患った患者など、高原の空気が綺麗な場所、サナトリウムなどの療養所に移したと聞いたことがある。汚い空気の場所より、少しでも衛生的な場所へと、患者を隔離するのだ。


 いや……無理だ。コゼットさんのバラックには、少なくとも三人くらいの病人がいた。自力で移動できないほど重病そうだった……。どうやって、王都の外へと運べばいいのか。

 リアカーがあるわけでもないし。


 非衛生的な環境からの隔離は無理だ……。せめて、医療ドラマとかであるように、無菌室とか限られた場所だけでもいいから、清潔な環境を作れたらいいのに……。いや、それこそ無理だろう。ビニールは石油製品だ。そんなの、この世界にあるはずがない……。

 アルコール消毒? いや、アルコールがどこにある……。


「ソフィー、どうしたんだよ。井戸の周りの掃除終わったのか? 次はどこを掃除するんだ?」


 どこを掃除すると言われても……。汚物を路上から排出して押し流せない以上、私たちの作業は意味がないのだ。汚物を排除できない。衛生的な環境にすることができないのだ。


 結局、私は無力なのだ.……。


 強いて掃除をするなら……病人が寝ているベッド周辺を綺麗にすることだろうか。そうしたら、ちょっとはマシになるかもしれない。


 まぁ、『汚物にまみれたベッドに寝かされた患者』が、『悪臭が周囲に満ちているベッドに寝かされた患者』に変わるだけだ。きっと、匂いがマシになる程度だ。


 臭くて、非衛生的な環境に変わりはない。病気により、抵抗力が弱まった病人に、臭い空気に混じった病原菌が入り込み続けるだろう。


 空気感染ってやつだ。ウィルスとか、細菌とか、そんな知識がないこの世界では理解されないだろうが、そうやって伝染病は広まっていくのだ。


 井戸の水だって、汚物の細菌が地中に染み込み、井戸水を汚染させたら、その水を口にした人は、経口感染のリスクに晒される。


 って……感染経路???


 感染経路は、いくつもある。たしか……

  

 接触感染


 介達感染


 飛沫感染


 唾液感染


 水系感染


 空気感染


 感染経路は、様々だ。



 手を清潔に保ち、接触感染を予防する。破傷風菌への感染を防げるかもしれない。


 介達感染は、汚物の細菌などが感染源で、食中毒の人が吐いたゲロ、結核患者の吐血などを迅速に処理すれば……。


 飛沫感染は、クシャミなどが原因だ。マスクなどを着用すれば? インフルエンザウイルスなども、マスク着用が有効だった。


 唾液感染……キスとかしないかな……。


 水系感染は、井戸水を煮沸消毒して水を使用することを徹底すれば、殺菌できるはずだ。一度煮沸させて水で手を洗うようにすれば、介達感染の予防にもなるだろう。井戸水の濾過とかも、今後考えてみてもいいかもしれない。たしか、炭をいれて濾過するとかだった。


 空気感染……う〜ん。スラム街の空気は汚いからなぁ〜完全に防ぐということは難しいかもしれない。



 だけど……掃除するってのは、意外と感染経路を限定できる?


 もしかしたら、やらないより、かなりましかもしれない。

 いや……やったほうが言い気がしてきた。


 私、もしかしたら役に立てるかもしれないじゃん! すぐに諦めてしまうのが私の悪い癖かもしれない。もとから打たれ弱いのだ……。だが、希望が見えて来た!


 「セト君、作戦変更、まずは、コゼットさんの家を掃除しよう!」


  周囲一帯を清潔にすることは無理でも、コゼットさんのバラックにいる病人の周りだけでも、多少マシな環境にできるかもしれない。


 周りが糞尿まみれでも、病人の周りだけだとしても、ましな環境にすれば、感染経路を限定できる可能性がある!!!!!!!!


 名付けて、超劣化版、無菌室作戦!

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