第3話 セト君
重石を固くロープで結んだ。きっとこれで井戸に重石が落ちたりすることはないだろう。
試しに井戸水を汲んでみたら大成功だった。
これなら、桶に水をあまりいなければ力が要らない。ロープをたぐり寄せるだけ、というほど楽になった。
改良の余地って意外とあったのか、と驚く。
「あっ、サボっている! いけないんだ、いけないんだ、コゼットばぁちゃんに言ってやろ〜」
「へ?」
突然、子供が走り寄ってきたかと思ったら、前の世界でも聞いたことのあるようなことを言い始めた。既視感がある。いや、どこの世界でも子供は同じなのかもしれない。
ボロボロの服。それにコゼットさんの名前を行っていた。バラックにいた子供のひとりだろう。
「とぼけても無駄だ。水汲みサボっていたな! ずっと見ていたんだからな!」
どうやら私はサボっていたと思われたようだ。
だが、私はサボっていたわけではない。一応、水をより省力でくみ上げられるように井戸を改良していたのだ。
「サボってないよ。井戸をもっと使いやすいようにしたのよ。試してみる?」
笑顔で言ったつもりだったけど、子供は私の言葉を聞いて目を見開いた。驚いているようだ。
「な、な、なんてことするんだ! この井戸は聖女様の井戸で、しんせいにしてふかしんなんだぞ〜」
神聖にして不可侵、ということだろうか? 難しい言葉だからか、その子供はうまく言えていなかった。
「た、大切に使って、痛んだりしたらちゃんと修理をみんなでする決まりなんだぞ! 聖女様の井戸なんだからな!」
なるほどと私は思った。井戸はしっかりと整備されている。だが、道路などは凸凹である。
石畳はほとんど剥がされて持ち去られたり、ゴミや糞尿が散乱している。
この井戸は綺麗に手入れされていたのは、聖女様のご威光なようだ。滑車も軋んだりしていなかったし、ロープも桶もしっかりしたものだった。
聖女様の井戸は定期的にメンテナンスをするとかいう法律やらがあるのかもしれない。
「で、でも、もっと使いやすくなったのよ? 楽になったよ。やってみる?」
「嘘つけ! 聖女様が教えてくださった井戸なんだぞ! それよりも使いやすい井戸なんかあるものか! ふけいざいだぞ、ふけいざい! バチが当たるぞ、バチが!」
私が『元』ではあるが聖女だし、この井戸の発明をこの世界に持ち込んだ張本人が私だから、バチは当たらないだろう。
でも、この井戸が改良されていないのか、なんとなく理由が分かった気がする。
『神託』というのはこの世界では絶対なのだろう。
思い返して見れば合点がいく……
だって、色々な研究をしていた学者、錬金術師たちが王宮には沢山いた。しかし、私が『聖女の農法』を考案したときに、誰も理由を聞かなかった。
それに、他の知識についても尋ねられることはなかった。
細かく質問されたら私も困っただろうが、たとえば、『聖女の農法』、つまり、輪栽式農法では作物を、一年目は小麦を、二年目は根菜類、ジャガイモなどを植える。三年目は大麦、そして四年目には牧草地にして、クローバーや大豆を植える。五年目には一巡して、また一年目と同じものを植えていく。
どうして、四年目にクローバーや大豆を植えるのか?
元の世界の中学生の理科で習うほど簡単なことで、クローバーや大豆がマメ科であるからだ。もっと言えば、窒素化合物を生産する根粒菌と共生していて、土壌回復をする効果があるからだ。牧草地として、家畜の食料になる、という理由だけではない。地力を回復させるのに効果的なのだ。
原因と結果。地力が回復する理由。
その理由を尋ねる者はいなかった。理由が分かったら、応用できたかもしれないのに。たとえば……既に痩せてしまって、農業に向かない土地とされていても、マメ科の植物を植えて放置しとけば、地力は自然と回復していただろう……
……って、あれ? 痩せた土地を再び豊かな土地にする……。それってすごく聖女っぽくない? 『神託』のネタに使えたかもしれない。いまさら思い付いてどうする——私。
だが、理由は分かった気がする。
『神託』は、神聖不可侵なのだろう。つまり、これ以上の改良の余地なしと見なされたのかもしれない。盲目的なのだろう。
知的好奇心に満ち溢れた錬金術師たちからも私は敬遠されていたのはきっとそういうことなのだろう。前の世界で、錬金術というのは科学の前身であったのに。
もしくは、『神託』は、人知を越える奇跡で人間には理解不能と思われていたのかも知れない。まぁ、窒素とか窒素・リン酸・カリウムとか、肉眼でも見えない物質がこの世にはあるなんて、普通は分からないだろう。
この世界は、五大元素、火、土、水、木、風で構成されているというのが錬金術師たちの常識だった。でも、それは違う。厳密に言うと、火や風は、エネルギーに属する。『土』や『木』、そして『水』は、元素記号ではない。『水』だって、H2Oという水素と酸素の化合物なのだ。
だから、尿から黄金を作るのは不可能なのだ。アンモニア(NH3)から、金(Au)は生成できない。
あちら側は、『神託』だから妄信的に信じるし、それ以上は探求しない。探求することは、ひいては『神託』を疑うということ。禁忌とでもされていたのかもしれない。
私は私で、深く突っ込まれると答えられないから説明することを避けていた。
悪循環だ。
困ってることや、知恵を出して欲しいことがあれば言って欲しかったな——なんて今更になって思う。
だって、このスラム街の状況。道ばたには、水たまりのように糞尿が溜まっている。ネズミさんが、通りを横断している。
もう一日スラム街にいて、匂いにはすっかり慣れてしまったけれど、素人知識でも、これは伝染病とか蔓延するんじゃない? 的な状況だ。
王宮にはオマルがあって、それがトイレで侍女達が定期的に交換してくれていて気づかなかったけど、王都って、衛生状況が危機的な気がする……。
「おい、お前! 聞いているのか!」
子供が叫ぶ。
私って、深窓の令嬢扱いだったようだ。いや、この世界の支配者層に属する貴族の末娘で、王子の婚約者で妻だったらそうなるか……。
王宮の庭園には噴水があった。
部屋のベッドのシーツだって、どんなに汚してもすぐに新しく現れたシーツと交換されていた。
いやぁ……王都で伝染病が流行っていて困っています、とか相談してくれたら、ちょっとは力になれたかもしれないのに……。まぁ、過ぎたことは仕方がない。これからのことを考えなくちゃ。
「お前じゃないわ。私の名前は、ソフィー。」
「俺は、セトだ!」
「そうか、セト君ね。えっとねぇ、『聖女』様が、こっちの方が便利だからこうしなさいって教えてくださったのよ。だから、お姉さんが井戸を少し変えたのよ」
「嘘つけ!」
「本当だよ。嘘ついているように見える?」
私は、嘘は付いていない。
セト君は私の目をマジマジと見つめる。うん、私は嘘なんてついてない。
「し、信じてやるよ。コゼット婆さんも、ソフィーはきっといい人だから、水汲み大変そうだったら水運び手伝ってあげなさいって言ってたし。慣れてないだろうからって」
「セト君は私を手伝いに来てくれたんだ。ありがとう」
私がちゃんと働いてるかスパイしに来たのかと思ったよ。
「べ、別に礼を言われるほどのことじゃねーーーよ」
おっ、照れた。可愛い。私、弟が欲しかったの! とは言っても、セト君は十歳くらいだろう。一回りくらい年齢が違うだろう。
「そうだ、セト君もこの井戸、使ってみて。できれば、前のと使い心地とかの違いの感想を聞かせて欲しいな」
普段から井戸を使っている人に感想を聞くのが一番だろう。
「えっとね。片方側に石、重石がついたの。だから、楽に引き上げられるはずだよ。えっとね、それで、注意点は、まず桶を降ろして、桶に水が入ったら、この石を井戸の中に落とすの。桶が空の状態で石を落とすと一気に石が落ちちゃって、桶が勢いよく上がってきて怪我とか、故障の原因になるからね。まずはゆっくりやってみようか」
「俺、井戸の水汲みしたことないから……」
セト君は頬を膨らましながら不機嫌そうに、そして弱々しく答えた。どことなく哀しそうだ。
「何かあったの?」
「ロバート兄ちゃんが前まで水汲み担当だったけど、病気で倒れちゃって……。俺がやろうと言ったんだけど、まだ危ないからって……コゼット婆さん、歳なのに自分がやるって」
コゼットさん……。私に差し出してくれたスープ。その手は皺だらけだった。背筋だって曲がっている。釣瓶式で楽になったとはいえ、井戸での水汲みが重労働であることにかわりない。
それに、この世界では、前の世界のように児童労働が禁止されていない。子どもが労働するのが当たり前なようだけど、やっぱり子どもは遊んで伸び伸び育ったほうがよいのだろう。
「そういうことなら、これからは、水汲みは私がやるから大丈夫だよ。だから、コゼットさんを助けてあげてね」
「本当は、ロバート兄ちゃんが毎日、水を汲んでくれてたんだ」
セト君は相変わらず不満そうに言った。
……私が井戸の水を汲むのが嫌なのだろうか?
いや、そうじゃない。セト君の目は悲しそうだ。今にも泣きそうだ。
「ねぇ、もしかしたら、ロバートさんって人の助けになるかも知れないことがあるんだ。手伝ってくれる?」
「え?」 セト君の顔が一気に明るくなり、「ソフィーってお医者様だったの?」と言った。
「お医者さんではないんだけどね」
私は苦笑いをする。当然私は、医者ではないし、医学の知識なんてない。ペニシリンなど、抗生物質が感染症に対して極めて有効であるという知識はあっても、抗生物質を作るだけの知識がない。
ペニシリンは青カビが材料らしい、くらいしかしらない。
どうやって作るかなんて知る由もないし、どのカビが青カビなのかも判別できたりしない。
だけど、やれることはありそうだった。
答えは単純だ。
ロバートさんが病気から回復するかは分からない。でも、しないよりはマシだと思えることがある。
「俺、手伝うよ!」
「一緒に頑張ろう! その為には、沢山井戸から水を汲む必要があるの」
「へ?」
セト君は意外そうな顔をした。
「掃除をするの!」
「へ?」
セト君はもっと驚いた顔をした。
「今から、コゼットさんの家や、その周辺を掃除するの。床をぜんぶ水で洗い流して綺麗にして、シーツとか全部、洗濯をするよ!」
衛生面の回復。病原菌の住み処となりそうなところを徹底的に洗い流して、できる限り清潔に保つ。シーツなどは一度、煮沸消毒をした方がよいだろう。
「な、何を馬鹿なことを言っているんだよ!」
馬鹿なことかも知れない。それで、ロバートさんって人が助かる保証なんてない。病気を治療するわけでもない。というか、私が、エボラなのか、ペストなのか、インフルエンザなのか、赤痢なのか、癌なのか、糖尿病なのか、肺炎なのか……。
そんなことが分かるわけがない。診断すらできない。
治療なんて無理ゲーだ。脚気なら、ビタミンBの豊富な食べ物食べればいいのかなぁ〜なんて何故か知っているけど、小麦を主食とするこの国で脚気はまずないだろう。米主食の国でもあるまいし。
意味がないことかも知れない。
私はセト君の着ている服を見つめる。ボロボロの服である。そして、それ以上に、泥などで汚れている服だ。はっきり言って不潔だけど、そもそも『清潔』という概念がないのかもしれない。
「手伝ってくれる?」
私はセト君に聞いた。
「いいよ。コゼット婆さんが、もともと手伝えって言ってたし」
しぶしぶ、不承不承ということなのだろう。
私が聖女だ、これは『神託だ』って言ったら、従ってくれるだろうか。いや、でもそれはダメだ。それでは意味がない。盲信するということは進歩がないということだ。このままでは、井戸も釣瓶式から改良されないし、洗濯板がずっと使われ、洗濯機が発明されないかもしれない。オセロだって、オセロの盤を使って、リバーシ・チェッカーなど、別の遊びができるのだ。
なにより……
「ありがとう!」
私はセト君にお礼を言う。そして、さっそく動き出す。
どうやら私にはたくさん……この世界でやらなければいけないことがあるようだ。だからきっと、私は命を助けられた。そんな気がした。
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