ニック&リドリー

新寺陸

 古ぼけて、傷みに傷んだ質の悪い部屋、立て付けが悪く、僅かだがすきま風が吹き抜けてくる。


「ぬあ、あぁ……」


 呻く様な欠伸が、簡素な寝台から聞こえる。起き上がり、サイドテーブルの瓶に口を付け、中身を一気に飲み干す。

 生温い水が、喉を通る。伸びた髪を掻き、乱雑にフケを掻き出す。


「風呂、か」


 首を左右に動かし、骨を鳴らす。重々しい音が連なり、一つの音となって男の聴覚に届く。寝台から降り、軋む床を踏みつけ、洗面所の鏡に向き合う。ろくに手入れもせず、伸びた髪と髭。浮浪者と言われても、なんら違和感は無い。

 否、実質は浮浪者に近いならず者だ。


 錆の浮き出した蛇口を捻り、水を出して顔を洗おうとするが、水がまともに出ない。


「またか」


 舌打ちを一つ、男は分厚く骨の硬さが解る拳で、蛇口と一体となった洗面台を殴る。鈍い音が鳴り、洗面台が揺れる。

 揺れが収まり、暫くすると、洗面所奥の扉から水の音が聞こえだした。溜め息を一つ落とし、男が蹴破る様に扉を開くと、古ぼけたシャワーヘッドから、水が溢れていた。


「……まあ、いいか」


 寝間着を脱ぎ捨て、水の滝へと身を投じる。湯などと気の利いたものは出ておらず、冷水が寝起きの体を冷やしていく。

 色褪せ皹割れた石鹸で、フケと垢を洗い流し、伸びた髪を後ろに回す。タオルで体の水気を拭い、着替える。

 履き古したカーゴパンツにシャツにブーツ、色の褪せ始めたジャケットを羽織り、部屋から出る。

 ブーツの硬く重い足音を響かせ、狭く軋む廊下を進み、思わず踏み抜きそうな階段を降りる。

 陰鬱な雰囲気のエントランスには、それに似合いのテーブルとソファー、そして持ち主の管理人が居た。


「よう、〝ニック〟。早いな」

「ベニー、いい加減に配管を直せ。また、イカれてるぞ」

「お前が殴り過ぎなんだよ」


 痩せた狐の様な陰険な目の男、このアパートの管理人であるベニーは、モップを片手に杖の様にして、ニックを睨んだ。


「どうせ、また蛇口から水が出なくて、殴ったらシャワーが出た、だろ?」

「解ってんのか」

「もう一年近いんだぜ?」


 モップを支えに、ベニーは欠伸を漏らす。ニックがこのアパートに住み着いて、一年近くになる。

 それは、この世界に呼び出されてから、また数年が経過したという意味だ。くそったれな世界に、くそったれな力。同じクラスの連中は、一部を除いて浮かれ、持て囃され、彼にはそれが心底馬鹿らしく見えた。

 だからだろうか、仲は悪くはないが良くもない。時々、猫の話をするだけの間柄の、クラスメイトの結婚式の日取りが決まった日に、彼は国を出た。


 ニック、新寺陸にいでら りくはレミエーレ王国に召喚された、召喚勇者の一人だ。


「……長いな」

「ああ、そうな。んで、今日は?」

「特に仕事は無い。有っても、今日は受ける気は無いな」

「そうかい」


 言って、ベニーは床掃除を再開する。ニックは彼に背を向け、曇天の寂れた町に足を踏み入れた。店も人も少なく、店先にはそれ以上に物が無い。

 市場に入り、枯れ枝の様な老婆が店番をする出店から、所々黄色く変色した果実を買い齧る。

 不味くはないが、美味くもない。というより、味が無い。殆どが水分、腹も膨れないが、喉は潤せる。

 そんな町、人も物も回ってこない、壊死寸前の町を、ニックは宛もなくさまよう様に彷徨く。

 大国レミエーレ王国の国境沿いにあるとは思えない。それ程に、この町を抱える国は疲弊している。


「……鶏ガラ女が居ればな」


 口を突いて出た言葉を、急ぎ飲み込む。確かに、あの変人奇人の見本であれば、属国の田舎町の一つや二つ、半年で復興させるだろう。

 市場を抜ける手前、スペアリブと辛うじて判る肉が、情けない火力の炭に焼かれていた。もう、肉を焼いているのか、骨を焼いているのか、判別に難いが、匂いだけはよかった。


「……よう、ニック」

「オマリ、お前、店は?」

「開店休業というより、屋台が限界さ……」

「そうか。三つくれ」

「毎度あり」


 痩せた濃い肌色の男が、肉を紙袋に詰める。馴染みの店の味という事もあり、味は良かった。

 肉を齧るというより、こそげ落とす様にして、歯で骨を引っ掻き、余った骨を口の端に挟み、弄ぶ。


 もう、場末の居酒屋にすら、まともな食材が流通していない。誰もが、この町の現状の原因を悟っている。だが、誰もがこの町から離れない。

 まだ何とかなると、思っている? 

 いや、せめて最期くらいは看取ってやりたい。そんな考えだろうか。

 骨を詰めた紙袋を、詰まりかけの溝に放り捨て、アパートに戻る。仕事も無いから、あとは寝るだけだ。

 軋む階段を踏み抜かない様に、気を配りながら、自室の前まで歩き、ドアノブに手を掛け様として、蹴破った。


「よう、新寺」

「……お前、何してる? 竜胆」


 痩せた女、竜胆が長い八重歯を見せる笑みを浮かべて、寝台に寝そべっていた。


「いやな、お前に仕事を持ってきたのさ」

「お前が? 何を企んでいる?」


 新寺が拳を握る。それに、竜胆は両手を上げて降参の意思を示す。


「いいのか? 一発で血の池地獄だぞ……!」

「新手の脅しだな」


 溜め息を吐き出し、拳を解く。この女の武器は、よく回る口と言葉に乗せた呪いだが、竜胆自体が弱く、新寺は竜胆を上回る。他に誰か居るなら別だが、一対一で竜胆が勝てる要素は一つも無い。


「竜胆、お前、こんな所に居る暇があるのか?」

「……なにがー?」

「魔属との戦線はいまだに、ついでに山科の結婚式、やることは山積みの筈だ。そのお前が……!」


 言葉は出なかった。単純に気圧された。傷一つ付けられる筈の無い相手に、新寺は気圧され、言葉を失った。

 そして、気圧された新寺に、竜胆は言葉を放り投げた。


「山科は逃げたよ」

「は?」

「……グレイ・オーフィリア殺害と反逆容疑で、私達が逃がした」


 目眩がした。このくそったれな世界は、本当にくそったれだったらしい。


「それで、仕事ってのは、逃がした山科を捕まえろか?」


 目眩のまま、やけくそに問えば、苛立った声が答える。


「違う。お前にしか頼めない仕事だ」


 竜胆が部屋の壁をノックする。隣の空き部屋から、何者かが出て、この部屋の扉をノックする。


「あの……」


 銀髪に褐色の肌色、そして長く尖った耳。稀少種族と謳われる〝ダーク・エルフ〟の少女が、扉を開けて立っていた。


「お前には、この娘の護衛として旅をしてもらう」

「待て」

「目的地は彼女の故郷。彼女の無事の帰宅で、依頼は完遂だ」

「待てと言ってんだろうが!」

「うるせぇ!! 黙って受けやがれ木偶の坊……!!」


 竜胆が叫んだ。その叫びに、新寺を目を丸くし、ダーク・エルフの少女は身を強張らせた。


「いいか! お前なんだよ! お前が、お前が王都を離れなかったら、もしかしたんだ! 山科が、幸せになれたんだ……!」


 新寺の分厚い胸板を殴り、竜胆は泣く様に叫び続けた。それは、彼女が絶対に見せない一面であり、これから誰にも見せない一面だった。

 何時も妖しい笑みを浮かべて、余裕の態度だった彼女は、今は居ない。そこには、怒り悲しみ後悔諦め、様々な負の感情をない交ぜにした、焼け尽きそうな表情で己を殴り続ける女が居た。


「お前が、居なくならなかったら、山科を守れた。お前が居たら、あんな事起きなかったし、起こさせなかった……」


 無言で言葉と打撃を受け続け、新寺は竜胆の腕を掴む。

 枯れ枝、骨と皮ばかり、下手をしたら鶏ガラの方が、まだ肉が付いているかもしれない。あり得ない事を考えながら、隈の浮いた鋭い視線を見下ろす。


「竜胆、このガキを故郷に送って、どうなる?」

「……ダーク・エルフの部族間のネットワーク、人材、協力、相互利益が得られる」

「……山科の為だな」


 睨み付ける目は、己の言葉の正しさを示している。山科と竜胆は、同じ孤児院の出だ。

 そして、竜胆は己のものを失う事を恐れる。


「新寺、私はこの世界を滅ぼしてでも、山科を傷付けた奴を殺す。楽には死なせない。古今東西有りとあらゆる呪言を使って、苦しめて苦しめて苦しめて、殺してやる……」

「俺にも殴らせろ」


 新寺は竜胆の腕を離すと、荷物を纏め始める。


「ガキ、名前は」

「……リドリー、リドリー・ベイカー」

「リドリー、お前の国は?」

「確か、ファーゼルって国が近いって」


 リドリーの言葉に、新寺は竜胆を見る。

 彼女は、ただこちらを見ているだけで、特に動きは無い。


「山科の行き先はファーゼルだな」

「せめて、疑問にしろ。……あの国なら、レミエーレのバカ共も、簡単には手は出せないし、ファーゼルを越えれば手出しどころの話じゃなくなる」

「麻野と浜名のバカコンビもだな?」

「あの二人も、レミエーレから出す。頼むぜ、〝拳豪〟新寺陸。私らの鬼札」


 ちらりと、己の足元に居るリドリーを見る。首には小さく呪印と首輪の痕が、僅かに残っていた。そして、服装も整っているが、やけに露出が多い。

 ダーク・エルフの元娼婦、否、娼婦見習い。

 そして彼女の故郷はファーゼル王国の何処か。距離はかなり遠く、レミエーレ王国を横断し、ファーゼル王国内でダーク・エルフの集落の情報を集める。


「その鬼札は、かなり高いぞ」

「この町の復興支援と、経済援助。そして、レミエーレ国境沿いからの通商路の開拓と永続的雇用確保。作業にはこの町から中心に雇用、保証も付けてやる」

「あと旅費と、リドリーの服だ。これじゃ、話にならん」


 新寺は首を鳴らし、リドリーを摘まみ上げる。


「首を隠せるやつな。厄介事は減らすに限る」

「準備してるよ」


 竜胆が隣の空き部屋を指差す。新寺は一度、竜胆の頭に手を置いてから、部屋を後にする。


「任せておけ。助けられたら、助ける」


 そんな言葉を残して、リドリーを伴った新寺が部屋から出た。

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