嘗ての幸せ
穏やかな寝息が聞こえる。
「んぅ……」
穏やかで静かな寝息は、朝日を吸い込む部屋に転がり、その主は薄いシーツにくるまる。
小さく丸くなった小柄な体、もし何も知らぬ者が、この様子を見たならば、その誰もが己の目を疑うだろう。
簡素ながら、その家具と調度品の質の高さが窺える寝室。その主が眠りに揺蕩う中、部屋に来客が訪れる。
「シーナ」
均整の取れた長身、細身だが服の上からでも解る鍛えられた肉体。端正な顔立ち、金の髪。理想の美男子がそこに居た。
「ほら、シーナ。起きて」
「……グレイ?」
「ああ、そうだぞ」
シーツにくるまったシーナを、グレイはそのまま抱き上げた。シーナの細く開かれた目を見詰めると、照れた様に彼の胸に顔を埋める。
「グレイ」
埋めた顔を擦り付け、猫が己の匂いを付ける様にして、シーナは己を抱き上げるグレイに甘える。シーナの、猫の毛の様に柔らかな髪を撫でると、彼女は嬉しげに目を細めた。
「どうしたんだ? 何時にも増して、甘えるじゃないか」
「ダメ?」
首に手を回し、こちらを優しげに見詰める瞳を見れば、そっと頬を撫でられる。
その心地好い感触に身を任せ、シーナはグレイにされるがまま、彼の腕の中で細めた目を瞑る。
グレイにとって、シーナは小さく軽い。こうして軽く抱き上げられ、戦場での苛烈な戦い方が嘘の様に思える。
だが、戦場で轡を並べ、共に戦うグレイには分かる。
身の丈を超える特殊な武器を振るい、砲という桁外れな威力で、戦場に雷を降らせる。
「ダメじゃないさ。ほら、何をしてほしい?」
「もっと、ギュッとしてほしい」
「いいとも」
ベッドに腰掛け、シーナを膝に乗せる。軽く小さいが、獣欲をそそる肉感的な肢体を、グレイは力を籠めて抱き締める。
毎日、毎晩の様に感じている体温と、体の柔らかさ。密着する温もりは、優しく感じる。
「んー」
筋肉など感じない細腕、肢体。華やかさに乏しい、しかし魅力的な容貌。グレイ・オーフィリアは、オーフィリア家というレミエーレ王国でも有数の名家の当主となる。
華美な装飾、過度な見栄、過剰な自尊、グレイは日々己に言い寄ってくる他家の婦女子に辟易していた。
グレイの極めて整った容姿、人間性、家柄、全てが夢見がちで、裏で策謀を巡らせる貴族には、極上の餌に見えた。
彼もそれを自覚していて、あまり舞踏会などには顔を見せなかった。
「シーナ」
容姿に合わず武骨者、それがグレイ・オーフィリア。そんな彼がある日、王宮の庭園で出会ったのがシーナだ。
「なーに?」
「ふふ」
こちらを見る顔、その額をそっと撫でる。目を細めるシーナは、彼女が好きな猫の様で、グレイは思わず喉を擽ってみると、シーナはこそばゆそうに身を丸める。
「グレイ、擽ったい」
「そうなんだ」
「きゃっ!」
グレイはシーナを抱いたまま、ベッドに倒れ込む。上質なベッドは、二人分の体重を吸収しきり、ほんの少しの反発で二人を揺らす。
「今日はこのまま寝て過ごそうか?」
二人だけの寝室に、グレイの甘い声音が聞こえる。
シーナはその声が紡ぐ声に頷き、彼の胸に身を寄せる。頬には薄紅が差し、己を撫でる手を、ただ受け入れる。
背に回った腕に、僅かに背筋が強張る。
「グレイが一緒ならいいよ」
「当たり前だろう?」
シーナの唇を啄む様に、グレイは彼女に口付けをする。
数度繰り返し啄み、彼女の瞳が蕩けた頃、グレイはシーナの舌を吸出し、弄ぶ。
突然の事に、微睡む様に啄まれていたシーナが、身を震わせ、手足をバタつかせる。
「ひあぁ……」
舌、唇と続き、喉から肩へと、グレイの唇が降りていく。小刻みに震える肢体を確りと抱き、己から離れるなと、シーナに教える。
「グレイ……」
「シーナ……」
見詰め合う二人、微笑むと、密着していた距離を更に縮め、二人の距離が重なろうとした時、寝室の外が騒がしくなり始めていた。
それが何なのかと、二人が顔を上げると、寝室の扉が蹴破られる様に、乱暴に開かれた。
「よーう! お二人さん、盛ってる?」
「……リンドウ」
「……竜胆」
「お? もしかして、いい雰囲気に入っちゃった感じ?」
長く目立つ八重歯を剥き出しに、濃い隈を残す目の、痩せた女が妖しく笑っていた。
「帰れ」
「おいおい、山科。久々の休みに、竜胆さんが来てやったんだ。茶の一杯くらい付き合えよ」
ソファーに腰を下ろす。外は冷えるのか、季節の割りに厚着だが、痩せた竜胆はそれでも細く見える。
実際、竜胆は細い。ある意味、病的とも言える程に、彼女は痩せ細っている。シーナの多くはない友人の一人である麻野と並ぶと、その細さは更に顕著になる。
「竜胆、帰れ」
「なんだよなんだよ、和泉も山科も、私を帰らそうとするな。まさか、私に知られて困る事でも隠してんのか?」
「リンドウ、君に何を隠せるんだ? あの〝賄賂卿〟と揶揄されていたウィニアス卿の、不正と汚職を暴き立てた君に」
裸に近くなっていたシーナを、シーツにくるみ抱き寄せて、グレイは竜胆に問うた。
長きに渡り、汚職の証拠、その尻尾すら掴ませなかった貴族を、竜胆は事も無げに破滅させていた。
「あれは私に、碌な利権を渡さなかった奴が悪い」
竜胆は口の端を吊り上げ、グレイに答え、欠伸を漏らす。
恥ずかしげも無く、大口を開けて、数秒間欠伸を続けると、懐から一つの紙袋を取り出す。
「見ろよ、山科。ニャンコドーナッツ、下町の出店でやってた」
「ホント?!」
猫好きのシーナが、竜胆が紙袋から取り出した焼き菓子に、興味を持つ。
「雇用拡大がてらに、私らの世界の菓子やらを広めたんだが、これが中々に上手くいっててな。胴元の竜胆さんの懐はウハウハな訳よ」
「麻野が飛び付きそうだな」
「ん? 麻野なら、止める浜名引き摺って、屋台巡りしてたぞ。ありゃ、戦利品持ってこっち来るな」
ひひひと、竜胆が妖しく笑う。そして、また寝室の外が騒がしくなり始めていた。
『椎名ー! ニャンコカステラ見つけたー!』
『麻野、ここはオーフィリア家なんだ。竜胆の家じゃないから、串焼きは袋に戻せ』
『うっせ! お前も食えよー! あ、メイドさんも要る?』
「な? 時間稼いでやるから、着替えな」
妖しく笑う竜胆が、寝室から廊下へ、声の主二人の元へ行き、また適当な事を言っている。
グレイは隣のシーナを見て、シーナは隣のグレイを見て、おかしそうに笑った。
その笑顔は、本当に幸せそうだった。
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