小さなひとり旅

妻が,ひとりぼっちで、誰にも気を使わず、家事もせずに過ごしてみたい、と言い出した。

当然だろう。結婚してこのかた、一度もひとり旅さえしたことがないのだから。

この感覚は私もよく分かるので、交代で互いにひとり旅をすることにした。これは画期的なアイデアだった。

さて、どこに行くか。妻には箱根でも、熱海でも、気楽に疲れない程度の近場がいいのでは、と提案したところ、バスで20分ほどの、駅近くの高級ホテルがいいという。

「え?」

バスで20分の旅?

実は妻は日本に留学に来た時を除いて、ひとり旅の経験がないそうで、近場でないと不安なのだそうだ。

そうは言ったものの……。

結局、妻はそのホテルに出かけて行った。

ホテルに着くと、力が抜けてしまって、ホテルから一歩も出る気にならなかったそうだ。

だから夕食はホテルの中華料理店で済ませ、翌朝はそのホテルバイキングの朝食を食べた。

この朝食は、そのホテル自慢の朝食で、他のホテルとの差別化を図る要素のひとつでもあるらしい。

きっと美味かったろう。

そして結局一泊しただけで、帰りはデパ地下に寄り、生魚だのお菓子だのバケットだのを買い込んで、生活感丸出しで帰ってきた。

ま、こんなところだろう。1人で、気を使わない時間が持てただけでとりあえずはいいのだろう。


さて、次は私である。

私は今までこういう事は何度もしたことがある。ビジネスホテルに1人で1泊して、のんびりして帰ってくる。一万円程度で済むので、女遊びをするよりよほど安い。

そういうわけで、私もビジネスホテルに泊まりに行った。

ホテルに入るとやっぱり脱力感に襲われて、力が湧いてこない。普段やっぱり気を使っているのかな。

それでも頑張ってシャワーを浴び、夕食はホテルの隣にあるもつ鍋をうりにしている九州料理の店で食べる。

私が案内された席に着くと、目と鼻の先に、昔私が子供の頃から知っていた女性歌手が、数人のお連れさんと一緒に料理を食べていた。歳の頃はもう、60代後半、それでもこ綺麗に化粧をして、お連れさんと歓談していた。

ああ、この方、元気だったんだな、私は少し嬉しくなってついついそちらに目が行ってしまう。

サインのひとつももらったら、その方は逆に嬉しく感じるのではないか、などと考えたが、とうとう最後までサインはもらわなかった。ただ、そっとそのお元気そうな姿を見ているだけだった。

あの人も歳をとったな。店を出て、ホテルの部屋に戻りながら考えた。

つまり自分もそれだけの年数を経て、歳をとっているという事だ。

何となく、寂しくなった。人はどうしたって歳をとる。自分はあとどれくらい生きるのだろう。できれば病気などしたくないが、どうなるのだろうか。

そういえば、最近うれしいことが二つもあった。

ひとつは血圧の薬をやめられた事。もう飲まなくてもいい。医者にそう言われた。奇跡だった。

それともうひとつは、長年患っている腰痛の痛み止めもやめた。これも奇跡だ。なんか、妻も元気になってきたし、物事いい方に向かっている。

きっと、もっといい事たくさんあるぞ!

ちょっと酔った私は、部屋に入ってベッドに大の字になり、少し、気持ちが明るくなっているのを感じた。

きっといいことある。まだまだある。

そう思った。

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