湖を渡る風
そういえば湖に関して、いくつかの清楚な思い出がある。
ひとつは、夏、真夜中に妻とドライブをして、夜明け前の本栖湖に着いた時のことだ。
空気はひんやりとしていて、静寂そのもので、湖面が僅かに風に揺れていた。
東の空に微かに赤みがさし、それが朝焼けに変わり始めた頃、私は車を降り、水着に着替えると、静かな湖面を掻き分けて水の中に入り、平泳ぎで優雅な1人きりの水浴を楽しんだ。
水に潜り、静かに顔を上げては泳ぎ、ふと湖畔を見ると、妻が朝日に向かって何か祈っていた。
まだ子供ができる前の、妻と2人の静かな記憶だ。
その後私たちは冷泉の宿に泊まるために出発する。
本栖湖の、夜明けの頃のほんのひと時の思い出。
夜明けの湖といえば、さらに古い学生時代の釣りの記憶が心に深い。
その日、私は友人と2人で、バイクをとばして夜明け前の湖にやってきて、波もないほど澄んだ湖面に釣り糸を垂れた。
まだ陽も登る前に、獲物が次から次へとかかったのには驚いた。
竿を振ると静かな湖面にスッと浮きが立つ。まもなくゆっくりと浮きが上下したかと思うと、ほんの2、3ミリツンと勢いよく浮きが沈む。それに合わせると30センチくらいのヘラブナが面白いようにかかる。ほかにもマブナやコイが随分と釣れた。
私は子供の頃から父に連れられて釣りを覚えたが、あれほど楽しい釣りはそう何度もなかった。
しかし日が高くなり、湖面を勢いのある風が渡るようになると、どういうわけかとんと当たりがこなくなった。10時頃だろうか。
しかし私も友人ももう満足していたので、釣った魚を水に戻すと、湖をあとにした。春だったので,風はまだやや冷たかった。
冷たい風で思い出すのは、10年程前、妻の姉たちが遊びにきた時、山中湖までその義姉たちと妻を乗せてドライブした時のことだ。
田舎の道を走って山中湖が見えてくる頃、雪化粧をした富士山が雲の間から少しだけ顔を出してくれた。
それは何か特別に義姉たちのために真珠で化粧をしたような、実につややかでなめらかな姿の富士で、皆感嘆の声を上げた。
山中湖に到着した頃は、もう残念ながら富士山は雲の中で、湖を渡る冷たい風に澄んだ水が波打っていたのを覚えている。
この、妻の姉たちだが、今はかの国のイメージはとても良くないけど、彼女たちに関してはとても素晴らしい人柄の女性たちで、私は大好きである。
だからほうとうの店に入り、皆であたたかいほうとうをいただいた時は本当に楽しかった。
楽しいといえば、なんと言っても河口湖に3歳になったばかりの息子を連れて行き、妻と3人でホテルに泊まった時は楽しかった。
夜、富士山は闇に隠れ、湖は岸辺の灯りをチラチラと反射し、そんな光景を眺めながら三歳児に花火をしてやった。
もしかしたら、あの時が子供は花火は初めてだったのかもしれない。
妻と、子の笑顔を見ながら、私は幸せの絶頂にいた。長い人生、色々あるなどとは考えもしなかった。純粋で、無垢な3人が集って遊んだ、懐かしい思い出である。
できることなら、もし本当にできるなら、あんな時間をもう一度過ごしてみたい、と思うのだ。
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