熱川の散歩道
ただでさえ景気は低迷していたのに、新型コロナの流行以降は温泉地などは相当寂れただろうとは思っていたが、これほどとは想像しなかった。
熱川に来るのは初めてだったが、何よりもひと気がなく、活気が全くなかった。
温泉街の様変わりを、初めて目の当たりにした。
去年の12月、妻と熱川へ旅行した。
旅行を決めるまでの最大のポイントは、柴犬キリだった。
随分久しぶりに妻と2人で水入らずの旅行を楽しみたかったのだが、柴犬キリを1人息子に任せるのは心もとない。息子は犬アレルギーで、あまりキリの世話ができないのだ。
だからキリの散歩などは私と妻が交代でやっている。ペットホテルに預ける手はあるが、この神経質なキリをいきなり3泊預けるというのはちょっと気がひける。その上、そんなことを話しているうちに妻がキリも連れて行きたいと言い出した。とうとうそうきたか。私は仕方なく、妻と柴犬キリを後部座席に乗せて、熱川に見つけたペット同伴可のホテルに向かって車を走らせることになった。まあ、キリも家族だもんな、仕方がない、そう自分に言い聞かせてアクセルを踏んだのだった。
日暮れごろチェクインした私たちは、交代でキリのお守りをして交代で温泉に入り、交代でレストランで食事をする羽目になった。キリを1人で部屋に残すと鳴いて泣いてあまりにもかわいそうだったからだ。だから1人はキリのお守りをする。夫婦水入らずどころか、まるで夫婦別行動だった。
夜はやっとキリを落ち着かせてベットにぐったりだった。
翌朝は夜明け前に起きて、妻と私2人でキリを散歩させた。ちょうど水平線から陽が昇ってきて、強く吹き付ける冬の冷たい海風を全身に受けながら砂浜を歩いた。
一足ごとに靴が砂に埋もれそうになるが、キリは楽しそうにしている。連れてきてやってよかったと思った。そしてたった1人だけ、波打ち際でリールを巻く釣り人がいる。
何も釣れてなさそうだが、たぶん、それはそれでいいのだろう。2人と1匹、そして遠くに凍えそうな釣り人ひとり、陽はもうすっかり昇ってあたりを照らし始めた。そういう風景だった。
私たちはキリの散歩をすることで、その街を少し知ることができた。キリがいなければ寒い中をこんなに歩かなかっただろうから、これは予想外の展開だ。
その日の夜、夕食のあとキリを連れて海とは反対側の、街の中を歩いた。しかし、寂しかった。土産物屋も、スナックも、飲み屋も、皆シャッターが閉まって、営業していないのだ。これほどとは思わなかった。観光客さえも、皆ホテルに閉じこもってしまって、まるで人がいない。
その時、やっと一軒開いている居酒屋を見つけた。ガラス窓から中を見ると、客はまばらだが、確かに営業している。
私と妻は、何かほっとした気分になった。キリを連れていなければ、思わず入っていたかもしれない。うまい地魚でも食べさせてくれるのだろうか。
心にぽっと火が灯ったような心地で私たちはホテルに戻った。
2日目もこうしてあっという間に過ぎ,疲れが出てきた私たちは、早々にベッドに潜り込んだ。
翌日、私たちは2人ともダウン寸前で、キリの散歩さえ交代で行った。朝は妻、午後に私といった具合である。
特に明日は私は家まで長距離を運転しなければならないから、疲れをとらなければならない。
それでも、凍えそうな日暮れに、2人でキリを連れて海辺を歩いた。
冷たい海風が吹き付ける砂浜を歩いていると、病院での出来事がウソのように思えた。妻も穏やかで、私たちは久しぶりに静かな気持ちに戻っていた。
「私ね、海を見ながら何度も泣いたの。もう、今までのあなたの家族との確執を、全部海に捨てたの。これから、病気にも負けずに生きて行くわ」
「偉いなあ。そんなふうに現実を受け入れられるなんて、本当に偉いと思う。なかなかそんなふうになれないものだと思うよ」
黄昏の陽の光を浴びながら、最後の夕刻、妻とそんな話をした。
「僕は最後までキミが病気でないと信じたいけど、でもそこまで覚悟ができてるなんて思わなかった。じゃあ、今回の旅行はキミにとってとても良かったんだね」
「うん、ありがとう。たくさんお金使わせちゃってごめんね。でも食事も美味しかったし、部屋もとても気持ちよかったし、ずいぶん久しぶりに気分が楽になった」
「それは本当に良かった。これからは、2人仲良く、もしキミが病気だとしてもそれと戦っていこう」
相変わらず海風は吹きつけているが、私たちは少しも動じることはなかった。
私は思った。この風はヤマイだ。でも、そんなものなんでもない。冷たくも何ともない。妻はきっと乗り切ってくれる。この苦難を、きっと乗り切ってくれる。
熱川に来て良かったと、私は思った。
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