小料理 みき
私はあまり酒が飲めない。
40過ぎくらいまではよく飲んで、週末などは必ずといっていいほど、行き慣れた小料理屋に足を運び、酒を楽しんでいた。
ところが何が変わったのかさっぱり分からないのだが、中国の大連市に1年住んで帰国したら、その時からすっかり飲めなくなった。15年ほど前のことである。
一体何が変わったのだろう。
飲めた頃は酒が本当にうまかった。
仕事仲間と飲むのは好まなかったので、ひとりで、行きつけのその小料理屋に行くのが楽しかった。
そういう店には常連の飲み仲間が集まって、酒を酌み交わすのだった。
佐藤さんという大手の印刷会社に勤める独身男性がいて、皆がいい気持ちになった頃、カラオケを入れる。
代金はいつもその佐藤さんがもつ。
皆、2つのマイクで座ったまま歌う。
ある人は1番を、ある人は2番を、といった具合である。
合唱になることもある。合唱もまた一興だった。
私はそういう夜がとても好きだった。
そこには微塵の悪意も介入する余地がない。
皆気持ちよく、善人ばかりの集まりで、興がのれば1人でマイクを握って自分の歌に酔いしれても誰も文句は言わない。
気持ちは、皆同じだからだ。
料理も、うまかった。
還暦を過ぎたくらいのママさんが、一品500円の美味しい料理を提供してくれた。
しかしそこは何でも500円なのだ。
魚を食べても、刺身を注文しても、ビールを頼んでも、サワーを飲んでも、何でも500円。ちゃんと500円で納得のいく量にしてくれる。
今にすれば少々高いのかもしれないが、その頃はそれで良かった。
酔っても分かりやすくてありがたかった。
そんな楽しさも捨てざるを得なくなって、ある日家族3人で、中国の大連に移った。
そして1年。
帰ってくると、自分の中で何かが変化してしまっていて、いろいろな慣れないことが自分の内側で起こった。
飲めなくなったというのもそのひとつである。
それからは、時々調子のいい時はビールの1、2本飲めたが、そういう時は稀で、普段は350ミリ缶1本で酔うくらいだった。
楽しかったあの小料理屋。
ある夜立ち寄ってみると、どうしたものか廃業していた。
私はなきがらとなったその店の前で、愕然と立ち尽くしていた。
あの親しい飲み仲間たちはどこへ行ったのだろう。
飲む時だけの仲間たちだから、連絡先は分からない。
ママさんはどうしたのだろう。
当然ママさんの連絡先も知らなかった。
それ以来15年の間、私は飲みに行くこともあまりなく、タバコすらやめてしまった。
あの素敵な味わい深い宴は、懐かしさとともに、私の心の奥にしまってある。
もう、あの楽しさを、再び味わうことはないだろう。
「小料理 みき」
そういう名前の店だった。
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