生きる意味について

一人息子が高校生くらいの時、何度か「オレには生きる意味がないんだ」と言っていたことがある。

心も体も健康でまっすぐな妻は、そんな事は考えもしないで生きてきたような人なので、大分心配していたが、私はといえば、自分もそういう事で悩んだことが遠い昔にあったので、それほど特別な事とは思わなかった。むしろそれは、多くの人が抱く、生きていくうえで避けて通れない疑問の1つではなかろうか?

仏教、キリスト教、イスラム教など、何か特定の宗教を心から信仰する方には、私の考え方は失礼にあたるかもしれないが、私は全ての人に共通する「生きる意味」などないと思っている。もともと人生に意味などない。私たちは生物学的に人間として生まれてきて、ただ何も分からずに5年、10年と生き、そして15年を過ぎたあたりから、はたと、自分はなぜ生きているのだろう? などと考えたりする。

自分で意思を持って「この目的を達成しよう」とか、「よし、このために生まれよう」と思って生まれるわけではないのだから、これは当たり前である。

ではその時、どう考えたら良いかというと、答えは何もない。

生きる意味は自分で見つけなければ、誰も教えてくれない。ただ、断っておきたいのは、これは即無神論には繋がらないということだ。かく言う私も神はあると思っている。今は論旨が異なるので、その点には深く触れないが、神がないから生きる意味を自分で探さなければならないのではなく、神、あるいはそれにまつわる教えが、直接生きる意味に繋がらない人は、それは自分で探すしかないということである。

私自身、神の存在は信じているが、だからといって、まだ神のために生きるとか、あるいは神の教えが生きる意味に直接繋がるほど、信仰が深くない。

だから今日まで、私は生きる意味や人生の目的は自分で見つけてきた。

前半生はそれなりに虚しいこともあったが、後半生は意味がはっきりしていたので、幸せだったと思う。そしてもしかしたら、私がもがいて生きているうちに、神が人生の意味を与えてくださったのかもしれない、と思う程度には神を信じている。


さて、息子の話に戻るが、息子の拓哉にその時私はこう言った。

「拓哉の哉には特別意味はないけど、人生の意味は自分で見つけなければならないから、 あえてこの字を使ったんだよ」と。


それは何でもいいと思う。

人によってそれは様々だろう。

金をもうけていい暮らしをするのだとか、小説で名を成して、富と名声を手に入れるのだとか、あるいは平凡な中にもささやかな幸せを見つけていこうとか、何でもアリだと思う。

ただ、私の場合を言えば、それは愛だと思っている。愛する者のために生きる。それが私にとっての基本的な生きる意味である。

私は自分勝手で、わがままな人間だが、この「愛する者達」がいなかったら、私はもう今はこの世にいないかもしれないとさえ思う。


読者の方々が、是非生きる意味を見つけて生き生きと生きられるようお祈りします。

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