第2話

「暑いんだよ、チクショウがあっ!」


 何度目か分からない悪態を叫ぶヨシツネ。しかし、気持ちは分かる。上からは照り付ける太陽。下からは熱されたアスファルトの照り返し。それは、もう、肉が焼けそうなくらいに熱い。


 そんな中、こうして運ぶのは、一袋十〇キログラムはあるかという重曹の袋。


 トラック何台分もの重曹を、この海辺の倉庫に詰め込むこと。


 それが俺たちに課された罰だった。


 かく言う俺は、最早、叫ぶ気力すらない。未だに定期的に叫び続けるヨシツネはすごいと素直に思う。


 汗に濡れた服はもはや邪魔なだけ。既に脱ぎ捨て、互いに上裸だった。視界が揺れる。それは陽炎なのか、或いは、単に意識がもうろうとしているだけか。


「ダメだ! 我慢できねえっ!」


 ヨシツネが駆けだす。


「おいっ! どこ行くんだよ!?」


 という問いかけも野暮だった。彼は駆ける。一直線に海へ。


「いえぇあああああぁ!」


 奇声と共に跳んだ。放物線の頂点で腕を振り上げ、そして、海へ落ちた。盛大に水しぶき。水面にもこもこと湧き上がる白泡。数秒後、波間にヨシツネが顔を出した。大きく息を吸うと、


「さいっ――」

「さい?」

「――こう!!」


 その顔が生気に溢れていた。輝いていた。水で戻したワカメみたいに、劇的な変化。


 その様子を見ていると、


「くっ……」


 もう、我慢の限界。


 跳んだ。


 内奥をくすぐる、一瞬の浮遊感。そして、海中へ。瞬間、灼熱の世界が凍り付く。深く青い海水の、脳髄を刺す冷たさ。


「生きてるっ! 俺、生きてるよお!」


 思わず叫んでしまう。


 ふと、隣で浮かぶランクマと目が合った。言葉は無くとも、この瞬間、俺たちは分かり合っていた。それが愉快。


「「あっはっはっはっはっはっは」」


 笑う、が、その時。防波堤の上に立つ。巨大な人影。リコの父だ。逆光で陰になっているが、何やら、両手でもぞもぞと股間のあたりをまさぐる。


「小便でもしたくなっちまったなぁ~」


「おいっ! クソオヤジ! 〇すぞっ!?」


 ヨシツネが叫ぶ。


「親父? お前にお義父さんと呼ばれる筋合いは無い!」


「呼んでねえよ!? その汚ぇモノをしまえ!」


 必死に泳いで陸に上がった。間一髪、最悪の事態は逃れることができた。しかし、息も絶え絶え。暑さで疲れて海に飛び込んだのに、海に飛び込む前よりも疲れていた。


「おら、クソガキども。キビキビ働けー」


 リコ父はそう言い残して作業に戻って行った。


「覚えてろよ……」


 そう呟くヨシツネも、どこか覇気が無い。





 万事その調子。夕刻、ヒグラシが鳴き始めたころ、俺たちはようやく解放された。


 水平線に沈む太陽。その燃える赤が綺麗で、ずっと眺めていた。というか、疲労でまともに立ち上がれない。


「チクショウがよぉ…… 何だよ、重曹って……」


 手足を投げ出して、大の字に防波堤に寝転ぶヨシツネ。そんなことを言った。


「まあ、便利な薬品だよ」


 重炭酸曹達。略して、重曹。化学式では、炭酸水素ナトリウム。


「便利って?」


「菓子とかパンに入れれば、ふわふわに仕上がる。飲めば胃薬になるし、掃除や洗濯にも使える」


「はぁー。……っても、この量は多すぎねえか?」


 朝から荷下ろしを行って、まだ終わらない。倉庫も満杯には程遠い。


「何より、一番大切なのは、土壌をアルカリ性にするんだ」


「あ?」


「あー、そうだな……。分かりやすく説明すると――」


 かつての自動車文明は、移動するために大量の化石に燃料を燃やした。そして、膨大な量のNox、Soxを大気に撒き散らした。それは、雲に溶け込んで、降る雨を酸性に変えるぐらい。そして、その雨が降り注ぐ土壌も、当然、酸性に変わる。


 この酸っぱい土壌が、植物にとっては酷なのだ。


 現在、そのままで農業に適した土壌はほとんどない。


 そこで重曹の出番。この白い粉は、酸性に変化した土壌を中和してくれるのだ。重曹が無ければ、収穫量は大きく下がるだろう。そういう意味では、この白い粉が生活を支えている。


「畑に撒いてる粉って、重曹だったのか!?」

「そうだよ」

「何だと思ってたの?」

「塩でも撒いてんのかと」

「何でだよ!?」

「お祓い的な?」

「あー」


 普通に塩害だろう。


「ったく、こんだけ量が有るのも仕方ねえな……」

「納得してくれたようで何より」

「納得はしてねえよ」

「え?」

「アイツはいつかしばき倒す」

「誰を倒すの?」


 見転ぶヨシツネを見下ろすのは、彼がしばき倒したい相手の娘だった。


「やっ」


 はにかみながら、片手を挙げて挨拶をする。ふわり、と揺れる柔らかなショートヘア。そこか、子犬のような印象。


「あ、リコ。てめえっ! どこで何してたんだよ!?」

「ボクも働いてたよ。あぁー、疲れた。クタクタだよぉ」


 流石に、重曹の運搬は彼女には酷だということで、リコには針仕事が割り当てられていた。重曹を運んだトラック。そのホロの修繕。それが彼女の罰だった。


「ぅるっせえな! お前がクタクタなら、俺たちはクタクタククタクタククタクタク――――クタクタクだわっ!」


 要するに、


「お前の何倍も疲れているぞ」


 と言いたいらしい。そんなヨシツネの剣幕に、


「ご、ごめん……。ボクだって、申し訳ないなあ、って思ってんだよ……」


 リコは肩を落とす。


「ヨシツネ。リコを責めても仕方ないだろ」

「ハルちゃん……」


 とは言え、ヨシツネの気持ちは分かる。


「腹減って気が立ってんだよ。みなみ屋で何か食べて帰ろう」


 立ち上がったその時、


「あ、それなら!」


 リコが懐から小袋を取り出す。その中から、透明な欠片を取り出す。そして、ぽい、とそれを放る。俺と、ヨシツネに一つずつ。


「これは……」

「あ? 宝石か? 要らねえよ」


 ヨシツネは言う。確かに、その透明な結晶は、宝石にも見えなくない。しかし、今の俺には、高価な宝石よりも何倍も魅力的な塊だ。


 口に放り込んだ。


「ハルツグが石を食った!?」


 違う。


 これは宝石なんかじゃない。


 直後、口の中に広がる甘さ。この疲れた身体に、なんて心地よい。目を閉じれば、浮かび上がるようだ。まさに、重力を忘れる快感。


「――これは、砂糖の結晶だ!」

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