第23話


         ※


「止めろおおおおおおおっ‼」


 俺は叫んだ。それこそ、喉が掻き切れるような勢いで。


「止めろ! 人質なら俺が代わってやる! 殺すなら俺を殺せ!」


 上体を起こし、滅茶苦茶に腕を振り回す。ん? 『上体を起こし』とはどういうことだ?


「止めろ、止め……」


 そう言いながら、俺は自分が目を閉じていることを、やっとのことで把握した。ダリ・マドゥーと人質の姿は、瞼の裏に焼き付いている。実際に視界に入ってきたのは、アジトの俺の部屋、俺のベッド、俺の足元だった。


「夢、か」


 俺は唐突に、嘔吐するような胃痛に見舞われた。しかし、吐き出せるものは何も入っていない。脂汗に混じって、涎が一筋、垂れていく。実にみっともない姿だ。


 大きくため息をつき、額に手を遣った。顔全体をシャツの袖でぐいっと拭い、明るすぎるほどの朝日を遮断すべく、カーテンを引く。

 その時、気づいた。ベッドそばの小さなデスクの上に、ミネラルウォーターのボトルが置かれていたのだ。


 誰かが気を遣ってくれたらしい。俺は有難くこれを頂戴することにした。

 ミシリ、と音が立つほどの勢いでキャップを捻り、口をつけて、一気に胃袋に流し込む。唇の端から細く液体が零れ、俺の首筋、鎖骨を通ってシャツに滲みていく。


「はあっ、はあ、はあ……」


 あっという間に空になったボトルを見下ろし、注意書きに目を落とす。しかし実際のところ、俺の脳みそに視覚情報の入る隙間はなかった。頭も心も、ある『一つの考え』にがんじがらめにされていたのだ。


 ここで戦いを止めるわけにはいかない。

 これ以上、俺のような不幸に見舞われる少年少女を増やしてはならない。

 だからこそ、テロリスト共を仕留めなければならない。


 俺は目を擦った。シャワーを浴びて、頭をすっきりさせよう。それから朝食を摂って、落ち着いてから物事を考えよう。親父のことも、葉月のことも。


 俺はさっさとシャワーを浴び、シャツとズボンを取り換え、脱衣所から出た、その時。


「おう、潤一。もういいのか?」

「ああ」


 複雑な表情をした憲明と出会った。中途半端な音が、俺の喉から発せられる。


「大丈夫か? エレナが心配してたぞ」

「え? 来たのか、ここに?」


 無言で頷く憲明。と、いうことは、あのミネラルウォーターはエレナが置いて行ってくれたものかもしれない。その時の俺が呻いたり、うなされたりしていなければいいのだが。


「マドゥーの遺体から、情報痕が新たに見つかったんだ。それをエレナが持ってきた。今、秘匿回線で、ドクが解析した情報を受け付けてるところで――」

「あ、いた! 二人共」


 廊下の角から顔を出したのは和也だ。


「たった今、通信内容が解読されたって! 早く通信室に来てよ!」


 長袖シャツの袖先をパタパタさせる和也に向かい、俺は頷いた。


         ※


《よろしいのですか、佐山博士? この通信は、マドゥーの遺体に仕込んだ装置から盗聴される恐れが……》

《構わん。いずれ私は、息子と戦わなければならんのだ》

《しかし、博士の研究はまだ完成したわけではなく……》

《だから何度も言っただろう。この戦いを経なければ、研究成果を出したことにはならないと。連中は必ず来る。君は、例の場所の人払いを済ませてくれればいい。明日の午後五時頃ではどうか?》

《わ、分かりました》


 これで、通信は切れた。


 しばしの間、通信室内には、重さを感じるほどの沈黙がもたらされた。まるで全身がコンクリートで固められてしまったかのようだ。

 しかし、そんな硬直の中でも、俺は皆の注意がどこへ向かっているか、痛いほど感じられた。

 俺が戦うか否か、だ。


 部屋の奥、最もディスプレイに近い場所に腰を下ろしている葉月に、俺は尋ねた。


「今の通信にあった『例の場所』ってのは、どこだ?」

「ここだ」


 葉月は振り返りはせず、椅子を滑らせてディスプレイの正面を俺に譲った。


「東京湾横浜港、第十三番埠頭……」


 俺は地図アプリで表示された場所を読み上げた。和也がごくり、と唾を飲む音がする。それほど今の俺は殺気立っているだろうか?


「問題は、敵の勢力が分からねえってことだな」


 腕を組むお決まりのポーズで、憲明は呟いた。すると、


「僕に任せてよ!」


 と和也が前に進み出た。葉月と憲明の方に振り返り、胸を反らす。


「狙撃ポイントを定められれば、そこから敵の配置が見える。皆のナビゲーションができるよ!」

「そいつは有難いがな、和也」


 重い口調は憲明のもの。いつもよりも、息苦しさを感じさせる。


「今の通信から察すると、敵、つまり潤一の親父さんは、潤一とサシで勝負する状況を作るつもりだ。状況がそう簡単に読めるとは思えねえが」

「でも、実際に行ってみないと分からないじゃん!」

「葉月、和也に一言頼む」


 憲明の言葉に、葉月はすぐに答えた。きっと、自分に話題が振られるのを待って、準備していたのだろう。落ち着いた様子だ。


「私は和也の意見に賛成だ。憲明の言う通り、佐山の父上が佐山自身との戦いを望んでいるのは疑いようもない。邪魔が入る可能性は低いとみるが、可能性が零ではない。私たち三人は、佐山の援護に回るべきだと思う」

「なるほどな」


 葉月が和也の肩を持つ形だ。これは憲明の意図とは反対の構図である。だがそれにこだわるようでは、器量の小ささが露呈するというものだ。憲明は『葉月がそう言うのなら』と無機質な言葉を発し、再び沈黙した。


「目的地は、以前我々が行ったことのある倉庫の周辺だ。皆、イメージは掴めていると思うが、よくイメトレをしておいてくれ。他に何か、言い残したことのある人は?」


 葉月の問いに、俺たちは無言。


「では、作戦は明日の午後四時にここを出発し、五時には現着。佐山を先頭に、すぐ背後には私がつく。後方支援は和也の狙撃用ライフルと――」

「俺のガトリング砲でどうだ? 相手が何者か分からねえ以上、相応の装備は必要だろうからな」


 やや得意気な色を滲ませて、憲明が告げる。

 葉月に異論はなかったらしく、『それでは、解散』という言葉と共に、この作戦会議はお開きとなった。


         ※


 部屋に戻った俺は、愛銃二丁の整備を始めた。一度分解し、油を差し、チェンバーに一発を送り込む。弾倉には十五発の弾丸を込めた。


 この手慣れた挙動の中で、俺は全く関係のないことを考えていた。先ほどの夢のことだ。

 今の俺は、精神的に不安定であることは認めざるを得ない。現実世界で、葉月がマドゥーの人質に取られた時の絶望感が、ひたひたと心を下から冷やしていく。

 この負の感情を取り払うべく、俺はチームの皆に相談しようと考えた。


 俺が想像した皆のリアクションはこうだ。


『ただの夢だろうが。任務に集中しろ』――憲明。

『ジュンなら大丈夫だよ! 葉月の援護は任せて!』――和也。


 生憎だが、これでは励ましにも慰めにもならない。


 しかし、どうしても分からない人物がいる。『分からない』とは、どのような返答を寄越すのかが分からない、ということだ。


「葉月」


 二丁目の拳銃の整備を完了し、バチンと弾倉を込めてから、俺は呟いた。


 そうだ。葉月に訊いてみよう。俺は拳銃をホルスターに収め、クローゼットの奥に仕舞い込んでから、廊下に出て葉月の部屋に向かった。


 ロックはされていなかった。『在室中』のランプが点いている。俺は少し躊躇ってから、ドアをノックした。


「葉月、潤一だ。ちょっといいか?」


 返答はない。片づけでもしているのか? だが、あの葉月のことだ。このタイミングで掃除や部屋の衣替えなど、現実逃避的なことをし出すことはあるまい。

 いや、仮にそうだとしても、『少し待ってくれ』とでも言ってくれそうなものだが。


 その場に立っているのが、何故だか葉月に申し訳なくなってきて、俺は立ち去ろうかと考えた。一応、頭は冴えてきたところだ。夕飯の時にでも、葉月の言動から彼女の考えを読み取ることはできるかもしれない。


 そう考えて踵を返そうとした、その時だった。


「佐山、まだいるか?」


 微かにドアが引かれ、真っ赤な夕日が廊下にまで差し込んできた。

 俺は何か、心を鷲掴みにされたような勢いで、すぐさま振り返った。


「ああ、葉月。少し話したいことがあるんだ。もし都合が悪ければ出直すけど」

「いや、今でいい。というより、今がいい。入ってくれ」

「分かった。失礼します」


 葉月の部屋の様子は、以前と特に変わりはなかった。葉月はベッドに腰を下ろし、ぽんぽんと隣を叩いて俺を見つめてくる。ここに座れ、ということか。


「実は私も、佐山にその、あー、えっと」


 葉月は軽く混乱しているようだった。しかし、俺が『出直すか?』と尋ねると、『今がいい』と繰り返して俺を引き留める。


 何を語り出すつもりなのだろうか。

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