第22話

 マドゥーが脱力したタイミングを逃さず、葉月はすぐにナイフを遠ざけた。素早く振り返って拳銃を向ける。しかし、そこにマドゥーの姿はない。


「な、何があった……?」


 喉元を擦りながら、葉月は呆然として呟いた。マドゥーは既に事切れていることは明らかだ。葉月が口元に手を遣ると、ちょうど拍子を合わせたかのように、マドゥーの下半身も反対側にばったりと倒れ込んだ。

 べちゃり、と臓物が床に落ち、太い血管から血液を迸らせ、葉月のコンバットブーツを真っ赤に染める。


「潤一、大丈夫か?」


 憲明が俺に肩を貸してくる。そして、ヘッドセットのマイクに吹き込んだ。


「和也、何も言わずに撃ったな?」


 ああ、そうか。和也が対戦車ライフルで、マドゥーを狙撃したのか。全く、無茶をする。あんなものを人間に向かって使うとは。

 俺は状況を飲み込むのがやっとだったが、憲明はそこから一歩踏み込んだ。


「少しでも銃身や風向きが逸れたら、葉月を殺すことになっていたんだぞ? 分かっているのか?」

《だ、だって、放っておいたら葉月が首を斬られていたじゃないか!》

「お前の位置から見えなかったのか、俺の立ち位置が? 俺はマドゥーの足を撃ち抜ける場所にいたんだぞ」

《でも、ジュンだってRCが切れちゃったみたいだったし……》

「マドゥーを生け捕りにすれば得られたはずの情報を、てめえは台無しにしたんだぞ、和也?」

《ぼ、僕は葉月のことが心配だったから!》


 飽くまで冷徹に畳みかける憲明。追い詰められ、幼児性が見え隠れする和也。そんな中、和也に助け船を出したのは葉月だった。


「反省会はきちんと開くし、和也の弁明も聞かせてもらう。今はここから脱出するのが第一だ。憲明、警察や消防への自動通報システムは?」

「ぶち壊したに決まってんだろうが」

「よし。階下にいる敵は全滅させた。早く降りよう。憲明、佐山を頼む。和也はライフルを解体して、そのビルの裏手で待機してくれ」

《分かった》


 いつになく沈んだ口調で、和也は答えた。


「憲明、今度は全員でゴンドラに乗ろう。マドゥーの遺体に情報痕があるかどうかが気になるが……」


 そうか。このままでは、マドゥーの死体を運ぶのに人手が足りない。


「葉月、憲明、俺は大丈夫だ」


 そう言いながら、俺は憲明の腕をゆっくりと押し返した。


「大丈夫なのか、潤一?」


 珍しく、気遣わし気にこちらを覗き込む憲明。俺は片手を上げてそれに応じた。


「階段は使わないんだろう? なら大丈夫」

「そうか」


 すると憲明は、ゆっくりとマドゥーの遺体に近づいた。バックパックから、大きなビニール製の青い袋を取り出す。それから、慣れた手つきで、マドゥーの遺体とその飛散物を回収し始めた。

 葉月もそれを手伝おうと、屈んで手を伸ばしかけたが、


「葉月、お前は潤一を支えてやれ。回収作業はすぐ終わる」


 と、憲明に押し留められた。葉月は無言でそれに従う。


「悪いな、葉月」

「い、いや」


 俺に肩を貸すにしては、葉月の体躯はやや華奢すぎるように思えた。今までそんな風に思ったことはなかったのだが……。

 まあ、葉月も疲れているのだろう。その時の俺には、その程度の洞察しかできなかった。


         ※


 同日午後三時過ぎ。

 ダリ・マドゥーの遺体(とその付属物)をドクの元へ届けに行った憲明がアジトに帰ってきた。

 

 その場の雰囲気といったら、未だかつてないほど、暑苦しくて寒々しいものだった。今回の反省会の会場は会議室が選ばれたのだが、エアコンの低い稼働音以外に鼓膜を震わせるものはなく、代わりに心を揺さぶるような不気味な空気が漂っていた。


 憲明の登場で少しは晴れるかと思った、この不穏な空気。しかし、それが望めない事実であることは、彼の険しい表情が雄弁に語っていた。


 無謀にも、この場の歪みに立ち向かったのは和也だった。


「だっ、だってあの時葉月は!」


 俺はテーブルに肘をつき、眉間に手を遣った。葉月、葉月と連呼するだけでは物事は解決しない。戦場の中心は葉月ではないし、言い換えれば、葉月だけを見ていては状況を好転させることは不可能だ。

 仲間とはいえ、いや、仲間だからこそ、互いを一個の戦闘単位として見做すことができなければ、戦闘は乗り切れない。


 意外だったのは、そんな和也に対する憲明の態度だった。今日こそ爆発して激するかと思いきや、胸の前で腕を組んだまま大きくため息をついたのだ。


 俺はそんな憲明の態度から、彼の胸中を推し測ろうとした。しかし、アジトに戻ってから少し休んでいたとはいえ、頭が平常運業に戻るには、まだ休息が足りなかった。

 それでも察せられたこと。それは、『これほど優秀でありながら、優柔不断な狙撃手をチームメイトと認めるか否か』ということを、憲明が必死に計算している、ということだ。


 俺がその横顔を見つめていると、憲明はぐっとその上体を俺に向けた。


「潤一、お前はもう休め」

「え?」

「お前の親父さんのことは、まだ情報不足だ。だがひとまず、お前はお袋さんの仇であるダリ・マドゥーを仕留めた。もうこのチームを抜けても、誰も文句は言わない」


 呆気に取られる俺に代わり、慌てたのは葉月だ。


「ちょ、ちょっと待て憲明! 佐山は私たちの切り札だぞ! それをむざむざ――」


 そう言いかけた葉月は、憲明の一瞥を受けて沈黙した。


「本当にそれだけか、葉月? お前は潤一を、ただの戦力として見ているわけじゃねえんだろう?」

「どう意味なのさ、ノリ?」


 すぐに言葉を発したのは和也だ。憲明は和也に向き直りながら、『なあに、簡単な話だ』と言って肩を竦めた。


「和也、お前は葉月が好き。だが葉月は潤一に好意を抱いてる。そして潤一には、その気持ちを受け止めるだけの精神的余裕はない。見事な三角関係じゃねえか」


 憲明が冷たい視線を俺たちに投げる。和也が驚愕する一方、葉月が羞恥の念に打たれたことを、俺は察した。

 では、俺自身は? 何をどう捉えているのか? それを自分で把握しようと、俺は脳と心の両方をフル稼働させた。

 しかし、それは不可能だった。他人の様子から心情を汲むことは、大まかにはできる。だが、自分自身が何を思い、どうしたいかと考えた時、俺は全くその先を読めずにいた。


 それでも、真っ暗な思考の中で、灯りになる言葉は憲明によって掲げられた。『三角関係』だ。同時に『痴情のもつれ』という言葉もまた、思い返される。

 俺が、葉月の関心を和也から奪ってしまったのか? そして、チームワークに溝を作ってしまったのか?


 確かに、俺自身が強大な戦力であることは否定できない。だが、チームの欠点となってしまっていることも事実だ。俺はチームにいるべきなのか? それとも去るべきなのか?


 瞬きも忘れるような、混沌とした思考の嵐。その暴風に揉まれながら、俺は憲明が再び俺に視線を合わせていることに気づいた。


「考えろ、潤一。チームに入って日の浅いお前なら、まだ一般人に戻れる。ドクやエレナが情報を偽造して、お前を元の高校に戻してやることだってできる。そのチャンスをふいにしてまで戦うというなら、誰も引き留めはしないがな」


 そこまでの憲明の言葉を咀嚼してから、俺はゆっくりと腰を上げた。


「休むのか、潤一? 階段は登れるか?」


 いつになく心配そうな顔つきの憲明。そんな彼に頷き、しかしそれ以上の挙動を取れないままで、俺は会議室をあとにした。


         ※


 真っ白い空間がある。床に足はついているものの、天井や壁といったものは見当たらない。どこまでも白く、広いとも狭いともいえる空間だ。

 俺が振り返ると、そこには二人分の人影があった。


「助けてくれ、佐山!」

「ッ!」


 葉月がいた。そして彼女を羽交い絞めにし、その首元にナイフをかざそうとする人物がいる。その顔を見て、俺は自分の視界がブレるような錯覚に陥った。


「ダリ・マドゥー……!」


 馬鹿な。さっき仕留めたはずなのに。どうして生きている? いや、そんな疑問を抱くことは無益だ。今大事なのは、冷静に相手を戦闘不能に陥らせ、葉月を救出すること。


「動くな! 彼女を解放しろ!」


 叫びながら腰元に手を伸ばす。が、しかし。


「⁉」


 そこにホルスターはなかった。拳銃がない。感覚からして、ブーツに挟み込んでいるはずのナイフもない。俺は完全に丸腰だった。


 そんなはずはない。俺が無防備だなんて。だが、今は状況を受け入れるしかない。せめて威嚇だけでもしておこうと顔を上げた時、マドゥーの腕の中に葉月はいなかった。代わりにいたのは、憲明だった。


「潤一、助けてくれ!」


 いつの間にすり替わったのか。俺は一度、ぎゅっと目を閉じてかぶりを振った。すると今度は、


「助けて! ジュン! 殺される!」


 和也がマドゥーの腕の中にいた。直後、和也の姿はさっと消え去り、マドゥーの腕の中には


「エレナ!」


 俺は叫んだ。彼女が戦場に出てくるはずはないのに。その背後で、口角を吊り上げるマドゥー。そして最後に現れたのは、


「潤一、お願い! 助けて!」

「か、母さん……」


 俺は構えていた拳を下ろした。あまりにもショックだったからだ。

 母さんは爆弾テロで殺されてしまったはずだ。それが再び、マドゥーの手によって命を奪われようとしている。


 その背後で、マドゥーの唇は耳まで裂けた。あれは人間ではない。悪魔だ。俺に絶望をもたらすために遣わされたのだ。


「止めろ、止めてくれ!」


 俺は完全に戦闘体勢を解き、その場にひざまずいた。しかし、膝を地面に着ける直前、マドゥーは何の躊躇いもなく、腕をさっと引いた。

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