第16話

 襖を抜けると、エレナが畳の間の掃き掃除をしていた。


「おはよう、エレナ」


 そう声をかけると、エレナはびっくりした様子で肩を震わせた。


「ああ、ごめん。驚かせるつもりじゃなかったんだ。ちょっとドクに呼ばれてね」


 すると、エレナは急に俯き、掃除の手を止めてしまった。『どうしたんだ』と俺が声をかけるより早く、エレナは何かを言いかけ、しかしそれは声にならず、再び目線を落としてしまう。


「じゃあ、一つだけ訊かせてくれ。エレナ、お前は今回、ドクが俺だけを呼び出した理由に心当たりはあるか?」


 エレナは俯いたままだったが、その大きな瞳をパチパチと瞬かせた。どうやら、ドクが俺にだけ明かそうとしている理由を知っているらしい。


「分かった。ありがとうな」


 子猫のように縮こまるエレナを見つめているのが苦しくて、俺はすぐに彼女のそばを通り抜け、奥の通信室へと向かった。


「ドク、佐山です。入ってもいいですか?」

「ああ、潤一くんか。すまないが少し待ってくれ」


 その時、俺はドクの声に違和感を覚えた。

 いつもは確信に満ちた声音で、俺たちを導いてくれていた。だが今は、そこに戸惑いの色が垣間見える。

 俺に知らせるべきか否か、情報を再確認しているのだろうか? だったらそれは徒労というものだ。俺は両親の仇を討つために戦っているのだし、討つべき仇が何者であろうと、退く気は毛頭ないのだから。

 

 すると間もなく、『入ってくれ』とお呼びがかかった。


「失礼します」


 と言って、俺は通信室へ踏み込んだ。


 ドクは、真正面に座っていた。いつものキャスター付きの回転椅子の上に。だが、やはり妙だ。顎に手を遣り、じっと何かについて深く考え込んでいる。それは瞑想しているようにも見えた。


「あの、ドク?」


 声をかけてはみたものの、ドクはすぐに椅子を回し、こちらに背を向けてしまった。


「やはり、直接聞いてもらった方がいいだろうな」

「な、何を……?」


 続くはずの言葉は、しかしすぐに打ち切られた。


《土田基樹のバイタルサイン、消えました。どうやら連中に仕留められたようです》

《……》

《何か仰ってください、博士。我々は彼らを過小評価していたんです。直に、ダリ・マドゥーの一味も倒されるかもしれません》

《ふむ。それはそれで面白い展開ではないか?》


 その言葉に、俺は思わず手を口元に遣った。今の声、まさか……!


《取り敢えず警戒するよう伝えておけ。計画に変更はない》

《分かりました、佐山博士》


 俺が呆然としている間に、ドクが振り返った。

 

「土田の情報痕に残されていた音声データだ。君たちが土田を殺害した時に為された会話らしい」


 俺はすぐに言葉を紡ぐことができなかった。


「あの声、それに佐山博士って……」

「そうだ」


 ドクはこちらに身を乗り出して、じっと俺の目を覗き込んだ。


「潤一くん、君のお父様は存命だ。そして、ダリ・マドゥーと繋がっている可能性が極めて高い」

「う、嘘だ、そんなの嘘だ! ドクは父さんがテロリストと組んでる、って言いたいんですか⁉」

「可能性が高い、と言っただけだよ」


 飽くまでもドクは冷淡な姿勢を崩さなかった。

 対する俺は、混乱の極みにあった。ダリ・マドゥーは父さんと母さんを殺した仇敵だ。俺が自分で殺すと誓った相手だ。そんな奴と父さんが、共同で何かをしようとしている? そんな馬鹿な話があってたまるか。


「落ち着け、と言って落ち着ける状態ではないだろうがね、潤一くん。私の仮説を聞いてくれ」

「嫌だ! 父さんがテロリストだなんて、そんなの嫌だ!」


 俺はジリジリと後退し、尻餅をついた。ディスプレイ群の光が逆光となって、ドクの表情は窺えない。それが俺の恐怖心を一層掻き立てた。

 しかしドクは、


「そう。君のお父様がテロリストの一味である、あるいはテロリストを利用している。それ以上は私にも何も言えない」


 と言ったきり、肘掛に両腕を載せて、じっと俺を見下ろしていた。

 俺は荒い呼吸を何とか抑えようと、胸に手を遣った。鼓動が早い。というより、異常だ。これが不整脈というものなのだろうか?


「息をしろ、潤一くん。深く息を吸い込むんだ」


 しかし、ドクの言葉も虚しく、俺は息ができなくなってパッタリと意識を失ってしまった。


         ※


 ひんやりとした感触に、額がむず痒さを覚える。ゆっくりと目を開けると、俺の眼前にはエレナの顔があった。俺が意識を取り戻したことに気づいたのか、エレナはぱっと顔を離し、しかし安堵の表情を浮かべて俺を見つめた。額の違和感は、エレナが濡れたタオルを載せてくれていたために生じたものらしい。


「大丈夫かね、潤一くん」


 ドクの声がする。その一声で、俺は何故自分が気絶したのか、記憶をいっぺんに取り戻した。しかし、先ほどのように気が動転することはない。

 畳の間に寝かされていること、気絶してから約一時間が経過したことを確認する。それから、ぼんやりとエレナとドクの顔を交互に見遣った。


「親父は……父はやっぱりテロリストなんですか」


 そう問うた声は、自分でも驚くほど掠れていた。ドクは短いため息をつき、答えた。


「テロリストというよりは、テロリストと共闘関係にある何者か、と言った方がいいだろう。私たちが傍受した通信内容からするに、君の父上はテロ行為や麻薬の売買には関与していない。しかし、テロリストとは関連のある立場にいる。それ以上は、私からは何も言えない」


 俺は片肘をついて起こしかけていた上半身を、再び横たえた。そのまま胸の上で、両手を組み合わせる。


「そのままの姿勢で構わないが、少し私の話を聞いてくれないか」

「えっ?」


 俺は思わず、枕の上で顔を傾けた。

 確かにドクは、俺たちにいつも『指示』をくれる。しかしそれは『話』ではない。一体何を言い出すつもりなのだろうか。


「若い頃、そうだな、三、四十年前、私はとある、大変貧しい国の軍隊で、衛生兵として従軍していた」

「衛生兵?」


 ドクは目線を上げ、どこか遠くを見るような表情で言葉を続ける。そうか。だから愛称が『ドク』なのか。


「繰り返すようだがその国は大変貧しくてね。年端もゆかない少年少女たちが、ライフルを持たされてジャングルや砂漠、荒廃した市街地に駆り出されるような、そんな社会だった」


 しばし、瞬きを繰り返すドク。俺はじっとその目を下から覗き込んで、次の言葉を待った。


「だが、戦場は過酷で悲惨だった。特に、私には」

「え? 『私には』ですか?」


 俺はすぐに口をつぐんだが、時既に遅し。


「そう、潤一くんが疑問に思うのも無理はない。矢面に立っているのは若者たちなのに、衛生兵である私が先に音を上げるなど、情けないにも程がある。だが、実際はそうだったんだ」


 するとドクは視線を落とし、自分の両の掌を見つめた。


「この手で何人、何十人、いや、何百人という若者たちを治療してきた。銃弾が飛び交い、砂塵が舞い散り、手榴弾の破片が舞い散る中でね。今でも忘れられないよ。あの少年の穿たれた腹部、あの少女の吹き飛ばされた右腕、最早性別も分からないほど血塗れになって倒れ伏した若者の、その飛び出した臓器……」


 それでも。


「それでも、私が退くわけにはいかなかった。衛生兵は戦場の要だ。一人の衛生兵がダウンするだけで、一個小隊が道連れになるとさえ言われていたからね。私を守るために、自ら盾になった少年兵たちの数は、どう考えても人の指では数え切れない」


 俺は俯いた。ドクの無感動な目を見ているのが、あまりに辛かったのだ。

 しかし、次のドクの一言で、俺は目を上げることになる。


「そこで、私は逃げ出したんだ」

「逃げ出した? ドクが?」

「情けない話だがね。衛生兵から諜報部員に転職したのさ。ちょうど、諜報部に人手が足りなかったこと、私の身のこなしが諜報向きだったことなど、都合のいい事態が重なったんだ」


 まあ――。


「それは『私にとって』都合がよかっただけであって、私が衛生兵を続けていたら、より救われた命があったかもしれないし、そうでもなかったかもしれない。あとは神のみぞ知る、といったところかな」

「そう、なんですか」

「そんなものだよ、殺し合いなんて」


 いつの間に用意してあったのか、俺のそばに置かれたテーブルには、マグカップが二つ、湯気を立てていた。


「エレナくんは料理だけでなく、コーヒーの粉の挽き方も巧みでね。畳の間でコーヒーというのも妙な取り合わせだとは思うが、付き合ってくれると嬉しい」

「あっ、はい」

「ブラックで大丈夫かね?」

「大丈夫です」


 俺は茶色い液面に映った自分の顔を見つめながら、ドクに問うてみた。


「ドク、どうしてあなたは俺たちの支援をしているんです?」


 すると、コトリ、と音を立てて、ドクはカップをテーブルに置いた。


「日頃君たちには、申し訳ないと思っている」

「も、申し訳ないって、一体何が……?」

「自分はこんな寺に引き籠って、代わりに君たちに戦いを強いている、ということさ」


 俺は肩を落としたドクの姿を初めて見た。


「そんな、俺たちは俺たちの目的があって戦っているんです。ドクがいなければ、自暴自棄になってすぐに全滅させられるところだったかもしれない」

「君は優しいな、潤一くん。彼女が恋い焦がれるわけだ」

「そんな、俺は優しくなんか……って、え?」


 ドクは今、何と言った? 恋い焦がれる、だって? 一体誰が誰に――俺に?

 俺はあたふたと周囲を見回したが、エレナは自分のカップでコーヒーをすすり、知らん顔をしている。


「佐山潤一くん」

「は、はいっ!」


 急に居住まいを正したドクを前に、俺もまた正座して対峙した。


「君の許可を頂きたい。テロリスト側に君の父上がいることを、他の皆に伝えても大丈夫かね?」


 その頃には、俺の頭はすっかりクリアになっていた。前進あるのみ。それを親父が阻むなら、ダリ・マドゥー諸共ぶっ倒す。それだけだ。

 俺はすっと息を吸って、『はい!』と返答した。

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