第9話


         ※


 葉月の先導で、俺は畳の間の真正面にあったもう一枚のスライドドアを潜り抜けた。その部屋は真っ暗で、電子機器と思われる機材の小さなランプがところどころに灯っている。一歩踏み込んだ瞬間、ふっと冷気が足元から這い上がってきて、俺は全身を包み込まれた。


 両手を交差させ、自分の上腕を擦っていると、その様子を見て取ったのか、葉月は言った。


「ここは情報統括部の頭脳であり、心臓だ。スパコンや諜報用の器材が何台も置かれているから、冷房がかかっているんだよ。熱暴走しないようにな」

「そうなのか」


 先ほど、憲明に脅かされたせいで、俺は冷や汗に塗れていた。そんな状態で身体を冷やされるののは、正直辛い。

 だが、そんな泣き言を言っている暇はない。葉月は早速、『ドク、いますか?』と、部屋の奥の方へと呼びかけている。様々な機材が置かれているせいで、見通しはかなり悪い。


 その時、暗闇からシャッ、と何かが滑る音がした。ちょうど俺たちの真横だ。視線を遣ると、キャスター付きの回転椅子とそれに腰かけた人物が、猛スピードで突っ込んでくるところだった。


「うわ!」

「きゃっ!」


 俺と葉月は身を固めたが、回転椅子は衝突直前で急停止した。続けて、朗らかな笑い声が響く。


「ははははは、いやあ、すまないね。二人を少し驚かせてみようと思ったんだ。失敬」


 椅子に座っていたのは、ひょろりと背の長い禿頭の男性だった。暗くてよく見えないが、六十代くらいだろうか。にしては声に張りがある。彼が『ドク』なのだろう。


「あー、葉月くん? そろそろ潤一くんを解放してあげてはどうかね?」

「え?」


 俺が首を傾けると、葉月が両手を俺の肩に載せていた。


「あっ、ご、ごめん!」


 慌てて手を離し、俺から距離を取る葉月。暗闇の中とはいえ、彼女の顔が少し紅潮しているように見えたのは気のせいだろうか? それはさておき。


「君が佐山潤一くん、だね?」

「は、はい!」


 何故か俺は背筋を伸ばし、直立不動の体勢を取った。


「そう堅苦しい姿勢を取らなくとも構わんよ。私は大した人間じゃない。前線を退いたロートルだ」

「は、はあ」


 そうなんですか、と胸中で呟く。同時に、またお悔やみの言葉でもかけられるのではないかと思い、俺は少しだけ反抗的な顔を作った。そのままドクと視線を合わせる。

 しかし、ドクはそんな野暮なことはしなかった。パチンと掌と膝を打ち合わせ、こう言ったのだ。


「では、潤一くんの戦闘スキルを見てみようか!」

「は、はい?」


 戦闘スキル? なんじゃそりゃ。

 思案顔に切り替わった俺の顔を見ながら、ドクは語る。


「君がどのくらい強いか、あるいはどんな体術を使うかを見させてもらって、特性を掴もうというわけさ。早速裏庭へ」

「分かりました」


 答えたのは葉月だ。ドクは床に足を着いて、回転椅子を滑らせて部屋の奥へと消えていく。


「私たちはこっちだ」


 手招きする葉月と共に、情報統括室をあとにする俺。


「なあ、葉月」

「何だ?」

「さっきの『きゃっ!』っていう悲鳴、君の声か?」

「なっ……!」


 俺は葉月が言葉に詰まるのを初めて見た。同時に、微かに頬に朱色が差す。


「わっ、悪いか! 私だって驚くことはある!」

「そうか」


 会話を打ち切る俺。流石に、このプライドの高そうな同年代の少女をからかう度胸はない。


 しばらく、寺内を歩いた。補強工事がされているところや野ざらしになっているところ、また、隅々まで綺麗に整理整頓された廊下など、いろんな場所がある。

 歩き始めて五分ほど経っただろうか。


「ここだ」


 葉月に並んで足を止めると、そこは竹林に囲まれた開けた場所だった。靴は、憲明や和也がいた部屋の前で脱ぎっぱなしだったので、その場にあった作業靴を拝借する。

 昨日、小雨が降ったせいか、地面はやや泥でぬかるんでいた。


 確かドクは、俺の戦闘スキルを計ると言っていた。ということは、ここで戦いになる、ということだろう。俺は、一週間ぶりに意識を戦闘態勢に切り替えた。拳を頬の高さにまで上げて、素早く腕を突き出す。ジムで習ってきた、典型的なボクシングの動きだ。


「やる気満々のようだね、潤一くん」


 声のした方に振り返ると、ドクが立っていた。足音を忍ばせてここまで距離を詰めた(約五メートルほどだ)とすれば、かなりの手練れであることは俺にも分かった。


「葉月くん、潤一くんにあれを」


『はい』と淀みなく答えて、葉月は俺に何かを差し出した。


「これを使ってくれ」

「いや、俺はボクシングを習っていたから――」

「いいから! 体術だけではあまりに不利だぞ、佐山」


 その時になって、俺はようやく差し出されたものを見下ろし、そしてぎょっとした。


「こ、これって……」

「実銃だ。エアガンじゃない」


 鈍く銀色に光る物体。誰がどう見ても拳銃である。実銃かエアガンかは、すぐには見分けがつかない。しかし、葉月が実銃だというのなら、その通りなのだろう。


「お、俺は要らねえよ! こんな危なっかしいものを……!」

「心配するな。ドクと戦えば分かる。私たちは安全なところで観戦してるから、好きにやってくれ」

「安全なところって……」


 ふと視線を上げると、憲明と和也が境内に立っていた。月明りが反射している。きっと、俺と彼らの間には、防弾ガラスのようなものがあるらしい。葉月もすぐに、境内の方へと駆けて行ってしまった。


「それでは始めようか、潤一くん」

「は、はいっ」


 俺はごくり、と唾を飲んで、拳銃を構えた。狙うは、ドクの胴体。頭や四肢に当てられはしないだろうと考えてのことだ。

 対するドクは、全くの無防備だった。ひょろりとした長身で、袈裟を身に着けている。格闘技の姿勢を取ることすらせずに、両の掌を合わせ、こちらをじっと見つめている。


 もう戦いは始まったのだ。俺は腕の震えをどうにか押さえながら、引き金を引く『はずだった』。

 裏庭に響いたのは、パン、という音が一回。最初は俺が撃ってしまったのかと思ったが、違う。拳銃は俺の手から叩き落されていた。同時に、僅かに左頬に痛みを感じる。


「ああ、早すぎたかな。加減はしたつもりだったんだが」


 つまり、ドクは俺の気が逸れた一瞬をついて接近し、拳銃を落としてから俺の頬を打ったのだ。

 何が起こったのか、ようやく理解が追いついた俺。するとドクは、こんな提案をした。


「では、今度はもう少しゆっくりと動くことにしよう。だが、打撃は強くなる。それでいいかね?」


 曖昧に頷く俺。拳銃を拾い上げ、今度こそ、と思った時には手遅れだった。今度は軽いフックを浴びせられた。身体が回転し、膝を着く。


 そこから先は、まさにドクによる演舞と言ってもよかった。俺は殴られ、蹴られ、突き飛ばされた。その度に、僅かに出血したり、泥が口に入ったり、平衡感覚を失ったりする。

 拳銃を持っていようがいまいが、全く関係ない。


 恐らく十回ほど、地面に倒れた時だった。


「ドク、今日はもうこれ以上は……」


 という控え目な葉月の声が聞こえた。

 情けない。全く情けない。俺は、両親の復讐を誓ったばかりではないか。それがこんな無様なやられっぷり。相手が数々の実戦を潜り抜けてきた歴戦の猛者だとしても、拳一発当てられないなんて。


「ぐ……」


 俺が血の混じった唾を吐き捨てながら立ち上がりかけた、その時だった。

 シャツの後ろ襟を、思いっきり引っ張られた。


「うわっ⁉」


 同時にぐるりと半回転させられ、勢いよく鼻先をぶん殴られた。ドクの戦い方ではない。もっと短絡的で直接的な暴力だ。


「止めろ憲明!」


 悲鳴に近い葉月の声。それに対し、熊のような大男、憲明は全く従おうとはしなかった。


「あのなあ新入り」


 尻餅をついていた俺を勢いよく引っ張り上げ、ぐいっと顔を近づける。


「お前、本気でテロリストを狩るつもりか? こんなに弱いんじゃ、話にならねえ」

「ぐ……」

「俺の両親はな、一昨年の今頃、デモ行進中に警官隊に発砲されて死んだんだ。証拠映像もあるが、今は政府が握り潰している。俺はそれが許せなくて、このチームに入ったんだ。この入団試験でも、俺はドクに二、三発は拳を喰らわせたんだぞ? それに比べて、てめえは何だ? 何にもできねえでやられる一方じゃねえか」


 静かな口調ながらも、いや、それ故に、憲明の怒りが伝わってくる。ふつふつと煮え立つような怒りだ。

 憲明は俺を突き飛ばし、自前の拳銃を取り出した。


「とっとと失せろ。さもなきゃ俺が、今ここでお前を殺す」


 俺は身動き一つ取れなかった。圧倒的な暴力を前にして、全身が麻痺してしまったのだ。


「何とか言えよ、てめえっ!」

「よせ、憲明!」


 葉月の悲鳴を無視して、憲明は拳銃の把手で俺の左側頭部を殴打した。再び泥の中に没する俺。俺の人生は、ここまでだったか。


 しかし、それにしては妙だ。殴られた直後から、全身に力が満ちてくるような、不自然な感覚に囚われたのだ。恐怖心もまた、霧が晴れるように消えてしまった。


 俺は平静を保ったまま、ゆっくりと立ち上がり、憲明を真正面から見つめた。彼は恐れこそ見せなかったものの、怪訝そうに、警戒心のこもった目で俺を睨みつける。


「まだ殴られ足りねえのか!」


 次の憲明の拳は、しかし俺の顔に達する前に止まってしまった。無造作に上げた俺の手が、彼の拳を受け止めていたのだ。

 そのままぐるり、と腕を捻ると、憲明の巨体はばしゃり、と泥の上に落ちた。

 立ち上がろうとした憲明に、俺は情け容赦ない追撃を加えた。ただの蹴りだ。だが、その爪先は見事に憲明の鳩尾にめり込んだ。


「がはっ!」


 憲明の手から、拳銃が落ちる。俺はゆっくりと近づき、それを拾い上げた。

 初弾が装填されているかを確かめて、セーフティを解除した。そのままさっと銃口をずらし、憲明の眉間に合わせた。憲明は、もはや何が起きたのか分からない様子だった。


 俺が躊躇いなく引き金を引く、まさにその直前。俺は背後から、凄まじい勢いでタックルを喰らった。ドクの仕業だ。俺はばしゃりばしゃりと、


「止めるんだ潤一くん! さもなければ、私は君を殺さなければならなくなる!」


 そして俺は、泥の上をばしゃばしゃと転がった。最後に知覚されたのは、ドクの拳による、右側頭部への打撃だった。

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