第8話


         ※


 再び葉月から連絡を受けた俺は、リュックサック一つに担げるだけの生活用品を詰め込んでマンションを出た。そう葉月に指示されたのだ。もちろん、名刺と写真は持っている。

 流石に血生臭いのはどうかと思い、俺は適当な服装に着替えておいた。


 夕日が没し、空の大勢が橙色から紺色へと移り変わっている。そんな中、俺はファミレスへと向かい、すぐに目的の車両を発見した。運転席から、葉月が手招きをしている。

 フォックススタイルのサングラスを着用していた。きりっとした彼女のイメージにぴったりだ。

 って、今は服装のことはどうでもいい。俺は質問をぶつけようと、口を開きかけた。が、しかし。


「やあ、佐山」

「やあ、って……」


 その一言に、俺は言葉を封殺されてしまった。今回の被害規模や犯人の心当たりなど、尋ねたいことはたくさんあったのだが、葉月の態度はあまりにもお気楽だった。

 代わりに俺の口を突いて出たのは、素朴な疑問である。


「葉月、君は十八歳以上なのか? もう車の免許を持ってるってことは」


 すると、葉月は小さく噴き出した。


「出会って二日の女性に年齢を尋ねるのか? デリカシーがないな、君は」


 いや、根が真面目なのか。そう言って、葉月は助手席の俺をじっと見た。

 異性にそうじろじろ見られる経験がなかった俺は、落ち着かなくなって座席に座り直した。


「で、どうなんだよ?」

「君と同じく、十七歳だが?」

「え?」


 それって、道交法違反じゃねえか。

 その疑問が顔に出たのだろう、葉月は『心配するな』というように俺の肩を叩いた。


「偽造運転免許証は持っているし、ドクに運転を習ったからな。事故なんて起こしたりはしない」


 そういう奴こそ事故るものだと思うのだが。それより気になったのは、再び出てきた『ドク』なる人物についてだ。俺が尋ねようと口を開きかけると、葉月は


「すぐにドクに会ってもらうからな。百聞は一見に如かず、だ」


 と言って、何の前置きもなしにアクセルを踏み込んだ。おっと、シートベルトをしなければ。


         ※


 そこから先は、長い道のりだった。少なくとも都内は出ただろう。バイパス上の標識に『横浜』の文字が見える。

 この間、俺も葉月も、口を利こうとはしなかった。俺は、これから訪れる未知の領域に想像を巡らせるのに精一杯だったし、葉月は、恐らく俺について何もかも調べ切ってしまっているのだろう、質問一つ寄越さない。


 車内に声が響いたのは、出発から一時間ほど経ってからのことだ。


「佐山、このあたりの地理は覚えてもらうぞ。少なくとも、私たちのアジトと情報統括部の間はな」

「アジト?」

「ああ。『海上保安庁南関東支部支援課第三分署』なんて長ったらしい名前がついているが」

「で、情報統括部、ってのは?」

「今そこに向かっている。もうじきだ」


 すると、微かな振動が俺たちを震わせた。窓の外を見ると、既に外は真っ暗だ。日が沈んだ、ということもあるだろう。だが、どうやら山林に入ったために、余計に暗くなった様子でもある。


 蛇行したり、坂を登ったりしている時間は、あっという間に過ぎ去った。


「着いたぞ」


 葉月の声に、前方に目を遣ると、そこはやや開けた場所だった。山頂部に位置しているのか、地面は平らである。目を凝らすと、そこに一つの建築物があるのが見えた。寺だ。ひどくボロボロで、車のヘッドライトがなければ『寺である』と認識するのは困難だったかもしれない。


 車は緩やかに停車し、俺は地面に降り立った。じっとりとした空気の中に、木々の匂いが混じっている。


「私は車を置いてくる。しばらくここで待っていてくれ」

「分かった」


 静かな排気音が遠ざかり、寺の裏手へと回っていく。そのテールライトが見えなくなった、直後のことだった。


「動くな」

「ッ!」


 静かで重い声が、背後からかけられた。俺は危うく、悲鳴を上げるところだった。

 何者かに、背後を取られた。それがいかに危険な状態であるか、ボクシング経験者である俺にはすぐに察せられた。同時に響いた、カチリ、という固い金属音。これって、まさか――拳銃、か?


「てめえ、何者だ?」

「ぁ……」


 答えることはできない。隠し立てしているのではなく、恐怖で身体が硬直しているのだ。


「三つ数える。その間に答えろ。数え終わる前に答えなかったら、てめえの頭は吹っ飛ぶ」


 カウントダウンを開始しようとしたのだろう、何者かがすっと息を吸い込む気配がする。拳銃抜きで、真正面からぶつかり合ったとしても、この男には敵うまい。俺が両手を掲げた、まさにその時だった。


「おい、憲明!」


 怒声が寺の境内から飛んできた。葉月だ。


「止めろ! 彼は佐山潤一だ。今日私が連れてくると言っただろう?」

「ああ、佐山ってのか、てめえ」


 拳銃は後頭部に突きつけられたままである。


「葉月、こんなビビリが役に立つのか? 足を引っ張られたら、容赦しねえぞ」

「それはドクが決める! 憲明こそ、新入りを脅すのは止めろ!」

「へいへい、そいつぁ失礼ござんした」


 すると、すうっ、と俺の背後から何かが消え去った。これが殺気というものだろう。

 俺の背後にいたのは、随分と肩幅のある、長身の男だった。こちらに背中を向けたまま、拳銃をホルスターに戻す。彼の手中にあっては、拳銃でさえ小さな幼児の玩具のように見えた。


「すまない、佐山。ちょっと確かめたかっただけなんだ、あいつは」


 ほう。確かめるだけで随分と手荒なことをするものだな。


「さあ、入ってくれ」


 境内から手招きする葉月。俺は『お邪魔します』と言いたかったが、微かな呻き声が漏れるだけだった。さっきの大男に脅されて、一時的に身体感覚が麻痺したのだろう。

 千鳥足にならないよう気を付けながら、一歩一歩進んでいく。


「こっちだ」


 葉月に促され、境内へ上がる。土足のままでいいらしい。

 しかし、こんなボロ屋敷のような場所が、情報統括部だって? 本当に?

 そんな俺の疑念は、すぐさま払拭されることになった。襖を一枚抜けると、目の前には金属製のスライドドアがあったのだ。突然SF映画の世界に紛れ込んでしまったような錯覚に囚われる。

 葉月が、そばにあった小さなパネルに掌を押し当てると、扉はすっと開放された。


 そこは、この寺の外観からは想像できないほど、衛生的な部屋になっていた。畳敷きで、主に木材で構成されているものの、そこには埃一つない。毎日緻密に清掃作業が為されていることは、初めて立ち入る俺にも想像できた。


 俺がぐるりと周囲を見渡していると、小柄な人影がぴょこぴょこと近づいてきた。


「おっかえりー、葉月!」

「ただいま、和也」

「もう、心配したんだよ? 帰りが遅いから!」

「遅くなると言っておいただろう? そう気にするな」

「ぶー」


 ふくれっ面を作る人影、もとい和也。すると彼は、すぐさま俺に顔を向け直し、ニッと口角を上げた。

 俺より頭一つ分は小さな体躯で、一見ひ弱そうに見える。だが、か細い四肢の隅々にまでエネルギーが溢れているようで、一言で言えば落ち着きがない。彼流のファッションなのか、前髪が伸びていて、右目が隠れている。


「君かあ、新入りって! 僕、小野和也っていうんだ。君は佐山潤一くん、でしょ? ジュンって呼んでいい?」

「あ、ああ」

「よっろしくー!」


 手を握られ、ぶんぶん上下に振られる。ふと彼の顔を正面から見下ろして、俺はある違和感に気づいた。するとそれを悟ったのか、和也は自分から説明し出した。

 

「僕の目が気になるかい? 実は義眼なんだ、これ」

「えっ……」


 俺は思わず、息を飲んだ。


「うちの親ったら虐待してくるんだもの、敵わないよ。右目はその時やられたんだ。痣を隠すのに一年中長袖長ズボンだけど、いいよね?」


 いや、いい悪いの問題ではないだろう。


「小野、和也くん」

「和也でいいよ!」

「じゃあ和也、それが君の戦う理由なのか?」


 何が楽しいのか、和也はその場でくるくる回りながら『まーねー』と一言。それから俺の正面でぴたりと止まる。


「どうせ犯罪を犯す大人なんてロクなもんじゃないっしょ? だから僕は葉月の仲間に入れてもらったんだ!」

「そ、そうなのか」

「おーいノリ、君も挨拶しなよ、新入りだよ!」


 振り返る和也。その視線を追って、俺は背筋が凍る思いがした。

 そこには、さっき俺の後頭部に拳銃を突きつけてきた男がいたのだ。俺の存在など完全に無視して、今は自動小銃と思しき銃器の分解作業を行っている。

 和也がリスのような小動物タイプだとすれば、この男は熊だ。今まさに爪を研いでいる、凶暴な熊だ。


 膝の震えに襲われる俺を無視して、葉月が言った。


「そうはしゃぐな、和也。佐山はこれから、ドクに見てもらわなきゃならないんだ。憲明の紹介は、また後で。佐山、来てくれ。この奥だ」


 俺はこの場から立ち去れることに感謝しながら、慎重に葉月の後について行った。

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