第5話

「あー、潤一くん? 聞いているかい?」


 俺の思考を元の路線に戻したのは、伯父の言葉だ。


「あ、はい」

「君の住むことになるマンションの住所は、ここだ」


 スマホをかざしてくる伯父。なんだ、元の家からそう離れてはいないじゃないか。毎日見かけていたあの高層マンションが、伯父の所有する物件だったとは。


「一週間以内に、家政婦を二、三人手配する。本来なら、私が君の身元引受人になるべきなんだろうが、生憎と私も妻も多忙でね。子供の面倒を見ている余裕はないんだ」

「はあ」


 胸中が煮えくり返っている割には、俺の声は気の抜けたものだった。

『子供の面倒』とは、全く見くびられたものである。だが、その認識が新たな怒りの火種になることはなかった。

 掃除、洗濯、食事の用意。それらは全て、専業主婦であった母の担当していたことだ。俺ができる家事といえば、皿洗いや風呂掃除くらいのもので、とても一人で真っ当な暮らしができるとは思えない。


 ここは伯父のような『大人』の世話になるしかないのか。しかし、それに対する強烈な拒絶感を、俺は覚えていた。

 この葬儀に集った大人たちは、皆が俺の存在を忘れたかのように振る舞っている。

 うちの両親があまり親戚付き合いをしてこなかった、ということは問題だったかもしれない。だが、かけがえのない家族を喪った俺に対して、あまりにも無頓着ではないか。冷淡ではないか。その冷たさ、関心のなさは、残酷なまでに俺の心を削いでいった。


 沈黙した俺に向かい、伯父は不器用な笑みを見せた。


「まあ、潤一くんは成績優秀だし、しっかりしている。大丈夫だ、これからも頑張っていこう!」


 はっ、と俺は息を飲んだ。

 伯父は今、何と言った? 『頑張れ』と言ったのか? 

 生憎、俺は心理学に詳しいわけではない。だが、その一言は、一撃で俺の心を貫いた。

 そんな言葉、誰にも言ってほしくはなかった。ただひたすらに、俺は休みたかった。両親の喪失という現実に押し潰されないよう、余計なことをしたくはなかったのだ。


 それだけ。俺の望みはたったそれだけだ。にも拘らず、伯父は平然とした口調で『頑張れ』と言い放ち、俺という存在を切り捨てた。

 金銭が問題なのではない。俺の心に寄り添うこともなく、それを試みることさえなく、応援の言葉を以てして、おれを自分の人生から切り離した。


『頑張れ』――そんな残酷な言葉があることを、俺は初めて知った。


 何か気まずいものを感じ取ったのだろう、伯父は別れの挨拶もそこそこに、この場を辞退した。

 俺は何かを考える気力すら奪われ、受け取った鍵を握りしめたまま、そこに座し続けた。


 適当なざわめきが、俺の鼓膜を震わせ、しかし脳に至ることなく流れていく。

 そんな中、俺の耳朶を打つ言葉が、やや離れたテーブルから発せられた。いや、『耳朶を打つ』などという生易しいものではない。それは、耳から脳に無理やり捻じり込まれるような、鋭利な言葉だった。


「今回の仏さん、爆弾で月まで吹っ飛んだらしいぜ。へへっ」


 俺はゼンマイ仕掛けの人形のように、カクカクとそちらに顔を向けた。中年の赤ら顔をした男が、ビール瓶を片手に大声を上げている。面識はないが、親戚なのだろう。


 そこまで考えて、俺の思考回路はぷつりと切れた。俺は無意識のまま立ち上がり、すたすたと畳の間を横切って、その男のいる丸テーブルの前に立った。


「おう兄ちゃん、せっかく親戚が揃ったんだ、お前も飲め!」

「馬鹿、こいつはまだ未成年だよ。あー、潤一くん、だったか? 何か用かね?」

「そう固いこと言うなって! ビールの一杯くらい、どうってこともないんじゃ――」


 直後、いろんなことが一瞬の間に起こった。

 まず、俺の右足に鈍痛が走った。同時に目の前のテーブルがひっくり返る。鋭い音がぐしゃぐしゃと聞こえたのは直後のことだ。置かれていた皿や瓶などが落ちて、割れたり欠けたりしたのだろう。


 その時、大人たちがどんな顔をしていたのかは分からない。そんなことに興味もない。明らかだったのは、俺の右足がテーブルを蹴飛ばしたということだ。


 俺は肩を上下させ、大きなため息をついた。何かを叫びたかったが、一瞬で沈黙したこの場で、これ以上注目を浴びるだけの勇気はなかった。

 無意識に目元を拭った俺は、踵を返して畳の間を横切った。四方から射るような視線が寄越されるのを感じたが、そんなことには頓着しない。


 ただ一つ気にかかったこと。それは、先ほどまで出なかったはずの涙が、急に溢れ出てきたことだ。

 今や、俺の心の中は滅茶苦茶である。皮肉なことだが、俺のことを顧みない横暴な大人たちの言動によって、俺は感情を取り戻した。憎しみという、忌むべき感情を。

 それは怒りや悔しさを内包し、俺の涙腺を痛いほどに刺激した。


 気づいた時には、俺は斎場の外の駐車場に立っていた。傘もささず、靴も履かず、雨に打たれるがままになって。


「畜生……」


 その悪態をついたのが自分自身であることに気づくのに、数秒の時間を要した。


「畜生、畜生!」


 俺はアスファルトに膝を着き、上半身を折って地面を拳で殴打した。


「畜生、畜生、畜生ッ!」


 ボクシングの型も何もあったものではない。ただ、拳で地面を割ろうとでもいうかのように、俺は打撃を繰り返した。


 このまま俺も死んでしまいたい。どうせ俺にできることなど、周囲の身勝手な大人たちに媚を売って、捨てられないようにすることだけなのだ。その大人たちがあの体たらくである。だったら、死んでしまった方がいい。


 この拳でアスファルトを、地盤を、プレートさえ割ることができたなら、俺はマグマに呑まれて死ぬことだってできるのに。


 俺の脳裏にあったのは、『死ぬ』という後ろ向きな衝動だった。

それがより活動的で攻撃的なものに切り替わるまで、一週間ほど俺は放置されることになった。


         ※


 一週間後。

 俺は伯父に与えられたマンションの一室で、ぼんやりとテレビを眺めていた。時刻はちょうど午前零時を回ったところだが、テレビ以外の光源は、この部屋にはない。


 待てよ。本当に一週間経ったのか? スマホを見てみると、確かに日付は経過しているようだ。その時、数回着信があったことに、ようやく俺は気づいた。伯父からだ。

 誰かと話すには、今はあまりにも気力がなさすぎる。そう思った俺は、折り返すことをせずに留守電のメッセージを聞くことにした。


《あー、潤一くん。私だ。冷蔵庫と冷凍庫の中は見てくれたかな? 一週間分の食事の準備はしておいたんだが。家政婦をつけるのに手間取ってね、明後日には来てくれるそうだ。それまでの間は、高校の学食やコンビニ弁当で済ませてくれ。すまないね》


 あっそう。俺は胸中で呟いた。

 実際のところ、冷凍庫には手つかずの食品がまだまだ残っていた。食欲などあるわけがない。あと一日、二日なら、余裕で持ちこたえられるだろう。


 それよりも、家政婦に来てもらうというのが億劫だ。今は放っておいてほしいのに。

 高校の話題も出たが、それもまた現実味のない話だ。友人の顔を思い浮かべようとしてみたものの、上手く輪郭が掴めない。まあ、彼らが俺や両親のことを揶揄するような発言をすることはないと思う。だが、きっと腫れ物に触るような扱いは受けざるを得ないだろう。きっと理解は得られない。


「独りぼっち、だな」


 俺は体育座りをし、膝の間に顔を埋めた。その時だった。明瞭なチャイムの音が聞こえたのは。

 

 俺は勝手に、自分の顔がしかめっ面になるのが分かった。こんな夜中に何者かという疑問は当然ある。だがそれ以上に、俺の孤独を邪魔されたくないという気持ちもあった。


 二回目のチャイム。すると同時に、人間の声が聞こえてきた。


「佐山さん、佐山潤一さん、お届け物です」


 はあ? 宅配業者? こんな夜中に、か? そもそも俺は何も頼んではいない。

 それに、声も不自然だ。やや低めだが、若い女性の声である。宅配業者にしては珍しいのではないか。


 そう訝しんでいる間に、三回目のチャイムが鳴った。こうなったら、とにかく荷物を受け取る外あるまい。俺は無言で玄関までの短い廊下を歩き、ロックを外して向こう側へとドアを押し開けた。


 そこに立っていたのは、やはり若い女性だった。もしかすると、俺と同い年くらいではあるまいか。

 全体的にきりっとした顔立ちである。頬から顎のラインはすっきりとしていて、口や鼻は『控え目な』印象を受ける。何に対して控え目なのかと言えば、その瞳に対してだ。

 鋭い眼光は猛禽類のそれを思わせ、俺は僅かな恐怖心を抱いた。しかしそれも束の間、鋭さは消えて、やがて俺を興味深く観察するような視線に切り替わった。


「失礼致します」


 女性は宅配業者の帽子を脱ぎ、一つお辞儀をして、大きな段ボール箱を抱えたまま俺の部屋に上がり込んできた。

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