⑱天使VS淫魔~淫夢でもう一度始める恋
「はぁ、ただいま」
疲労しきった身体で、アパートに帰宅する。
いつもの癖で、ついその言葉を口にしてしまい――言った後に返ってきた沈黙が、私を待っている人がもういない事を教えてくれた。
「何やってんだろ、癒姫が出て行ってから、結構経つのに」
乾いた笑みが零れた。
――まだ少し寂しいのかな。
みんなが思っている程、私は「一人」に慣れていないのかも知れない。
今まで、私は一人で何でも出来ると思われる事が多く、頼られる事も多かった。「そんな事ない、出来る事と出来ない事がある」と口で言いつつ、頭の隅では「一人で何でも出来る」と思っていた。
実際は、就職するために田舎から出てきた時も癒姫が一緒だったから出来た事で――進学した時も、就職した時も、何から何まで、私の傍には癒姫がいた。
――何度目だろう、部屋が広く感じるのは。
「なんて、何やってんだろ。明日も早いんだし、お風呂入って寝よう」
「ふぅ」
我ながらおっさん化していると思いつつ、私は湯船に入ると大きく息を吐いた。
元々ルームシェア用のため、一人で使うには少し広い部屋。
風呂場はそれ程広くないが、その形跡が今も残っている。
少女趣味なあの子らしい桃色のシャンプーやリンスのケース。花の形の石鹸。最初は苦手だった、妙に甘ったるい香りのする入浴剤も、今では好んで使っている。
――『ダメよ、サユリ。折角綺麗な髪しているんだから、ちゃんと効果のあるシャンプーを買わないと』
値段で判断してシャンプーやリンスを購入していたら、癒姫に叱られた事があった。最初は削れる所は削らないと、と思って消耗品は安い物ばかり選んでいたが、それが肌に合わなかったのか、すぐに荒れてしまい――それからは癒姫の言う通り、安くはないが、高級品とまでいかない平均の値段の物を選ぶようになった。
――『サユリさんの髪って、いい香りがしますね。今の私の癒やしですー』
そういえば、花園ちゃんに懐かれたのも、それがきっかけだった。
本当に、癒姫には感謝だな。
人付き合いが苦手で、友達もろくに作れなかった私――その傍に、飽きず寄り添っていてくれたのが癒姫だった。
あの子が隣に立っていたから、私は何とか人並み程度の付き合いが出来た。今の職場で、普通に話せるのも、きっとあの子のお蔭で。
彼と打ち解けたのも、きっと――。
「……やめよ」
もう無い物を数えても意味がない。
――明日も、早いし……今日は早めに寝よう。
頭を切り換えるためにも、湯船まで顔をつけた後、私はお風呂から出た。
*
――夢を、見ている。
本当にそれが夢かどうかは分からない。今、眠っているのかも――。
ただ、これだけははっきりと分かった。これは、現実ではない、と。
――ここは、何処だろう……。
ただ白い景色だけが永遠と続く。
あまりに同じ景色ばかりが続くせいで方向感覚がおかしくなっていく。
今、前を向いているのか、後ろを向いているのか。右なのか、左なのか。
得体の知れない物に纏わり付かれているようで、少し不気味だ。しかし――
――不思議と、怖くはない。
おかしな夢を見ている筈なのに、恐怖は感じない。むしろ、不思議な安堵感すら――。
「……っ」
ふいに、誰かが私の背後に立った。
その気配から、相手が誰なのか、すぐに分かった。
「どうして……」
絞り出した言葉は、あまりにも弱々しく響いた。
『夢だからだよ』
脳内に直接声が届くように、その子は言った。
『これは、夢。だから、今から起きる事も、全部夢の出来事』
「夢? 夢でも、あなたは、私を苦しめるの?」
振り返らずに、私は言った。
「やっと、前を向けそうだったのに……なのに、どうして、そっちから追いかけてくるの」
『会いたくは、なかったの?』
「会いたくなかった。私は、あなた達どちらも、好き。だからこそ、会いたくなかった。幸せそうな二人を見ていると、たまに、無性に……死にたくなる時がある」
興味が無いふりをして自分を誤魔化しても、全部納得して諦めたつもりでいても――時折、胸がひどくざわつく。心臓が痛んで、声が出なくなる。
「たまに、無性に叫び出したくなる時が、あるの。こんなの一時的だ。乗り越えなきゃって必死に自分に言い聞かせても、その衝動は毎晩のように現れる。だから、お願い……もう私の前には現れないで。これ以上、私を、ひどい女にしないで」
『ひどくなんてないよ』
「どこがよ? 私、ずっと嫉妬しているのよ。おめでとう、って笑顔で祝福しながら、腹の中では嫉んでばかりで……最低じゃない。乗り越えなきゃ、忘れなきゃって必死に自分納得させて……でも、全然ダメで、部長にまで気を遣わせてしまった。お願いだから、もう……」
これが夢だと告げられたせいか、今まで抑え込んでいた何かが、蓋を開けて外に飛び出してくる。
――誰も見ていないと、こんなにも荒れて……やっぱり、私、最低だ。
――これじゃあ、あの子が私に見向きもしなかったのも、分かる。こんな女、誰だって嫌だよね。
『そんな事ないよ』
いつの間にか、座り込んでいた私に、背後からあの子が優しく声をかける。
「やめて……」
『あなたは、酷くなんてない。だって、嫉妬は醜くはないから』
子どもを諫めるように、優しい言葉が、徐々に背後から全身を包み込んでいく。
『知っているよ、君の優しさ、愛情……いつも、君の愛情に守られてきたから。だから、知っているんだ』
「優しくなんて……」
『さっきの話の続きをしようか。嫉妬は、醜くなんてない。だって、誰かを嫉み、感情に振り回されて、どうしようもなくなる程に、深く愛してくれていたんでしょ?』
愛、か。物はいいようだな。
綺麗な言葉で片付けようとしても、私がした事なんて結局ない物ねだりで、せめてもの抵抗に嫉妬した醜い心を誰にも見られないように抑え込むくらい。
『恋って、綺麗な事ばかりじゃないんだよ。深く愛せば、嫉妬もするし、傷つきもする。そういうものなんだよ。だからこそ、人の恋は、偉大なんだ』
「どういう意味?」
『”僕”は、少しだけ羨ましく思うよ。そこまで誰かを愛した君の事を……』
ぼく?
――おかしいな。あの子は、自分の事を「僕」とは呼ばなかった筈だけど……。
まるで、誰かがあの子のふりをしているみたいで――。
その疑心は一瞬のもので、すぐに気配から笑い方、纏う空気まで、全てがあの子のそれになった。
『さて、じゃあ、恋の続きをしようか』
「恋の続きって……」
『言った筈。ここは、夢の世界。現実じゃない。だから、ここで何が起きても、君が何をして、何を言っても、誰も知らないまま……ねえ、だったら、もう我慢する事ないんじゃない?』
急に、あの子を纏う雰囲気に色気が増し、怖いくらい妖艶なものになった。
『ねえ、全部、ここで吐き出しちゃいなよ……サユリ』
座り込んだ体勢の私の背に手を回すと、ずっと欲しいと望んでいた気配が、ぐっと近付いた。
「ダメ、だよ。だって、あなたはもう……」
『大丈夫。これは、夢だよ。甘く、淫らで、いやしくて、情熱的で……そんな、君だけしか知らない、夢の物語。だから、ねえ……サユリ。今は、せめて、今だけは……我慢しないで。“私”に溺れて』
「……癒姫」
彼女――癒姫は、情欲を秘めた瞳で私を捉えると、とても優しく微笑んだ。
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