④太陽と日陰~淫夢で成就した恋

 夢を見た。

 心の底に眠る汚い部分を力ずくでこじ開けられたようなーーそんな恥ずかしくて、みっともない夢。

 だけど、それも、紛れもなく僕だった。

 僕がずっと王子の仮面で隠し続けた、僕のーー本当の姿。

       *

 互いに溶け合うように、何度も混じり合った。

 普段の大人しい彼女からは想像もできない程に淫らで妖艶でいて――

「何を、考えているの?」

 僕の下で、彼女が問うた。

 こんな体勢なのに、これでは彼女が主導権を握っているようで、少しだけ悔しい。

「恥ずかしくなんて、ないよ」

 彼女が、言った。僕が心の底に隠してきた弱い部分などお見通しのように。

「いつも周りに気を遣って、みんなにいい顔して、大変ね。だけど、私は知っているわ。あなたの本当の姿」

 首の後ろに腕を回し、耳元で彼女が囁いた。たったそれだけの仕草で、身体の内に眠る熱が再び暴れ出した。

「あなたは王子様。優しくて紳士的で、きっとどの女の子もあなたの虜になるでしょうね。誰にでも優しいあなたは、まさしくみんなの理想よ。だけどね、たまには休んでもいいのよ」

「でも、僕は……」

「私、知っているわよ。あなた、いつも私の身体……見ていたでしょ」

 そう言いながら、彼女の手が僕の手に重なり、そのまま豊満な胸元へと誘われた。

 最初は彼女に誘われる形で力を込めていたが、段々と僕自身の意思で手に力を込め始めた。

 掌の中で弾力が何度も弾み、形が変わるそれは視覚的にも淫らで――そして魅力的だった。

「あんっ……」

 彼女が顔を歪めると、思わず手の動きを止めるが、労るように彼女が僕の背中に手を回し、一気に距離が縮まった。

「いいの。何度も言っているでしょう。あなたの好きにして、いいの。ほら……もっと、私を夢中にさせて」

「僕は、王子なんかじゃない。君の言う通りだ。いつも僕は、格好いい僕を演じていただけ。本当は、女の子にも興味あるし、こうやって……」

「やんっ……」

「ずっと、触れてみたいって思っていた。こんな男が王子なわけない。僕に夢見ている子達が、僕のこんな姿を見たら、きっと軽蔑す……っ……」

 次の言葉は、彼女の唇に飲み込まれた。

 互いの唾液が何度も行き来し、生き物のように舌が動く。

 酸素が足りなくて途中何度も意識が飛びかけた。それすら楽しむための前座のようで、どんどんと体内の欲が掻き立てられる。

 一度は鎮まった筈の熱が暴発しそうな程に高まる。

 普段大人しい彼女によってリードされる今の状況も、僕の中の僕が暴かれてゆく様も、さらなる興奮を呼ぶだけでーーもう、何もかもどうでもよくなってきた。

「ねえ、教えて。王子の仮面の下の獣を、私にだけ見せて? どんなあなたも、私にとっては魅力的なあなたでしかないの。だから、もう隠さないで……私に、溺れて」

「……っ」

 その一言がとどめになり、僕の中の熱が弾けた。

 

 その後は、もう溺れるだけだ。


 ――だけど、どうしてこの子だったんだろう。

 ――話した事もなかった、この子に、どうしてこんなにも溺れているんだろう。

 ――それに、この子の身体って、こんなに……。


 まるで彼女の顔をした誰かが、彼女を演じているようで――。


 ――まあ、いいか。どうせ夢なんだから。


      *


 随分と官能的な夢を見た。

 なんで今更劇団をやめたあの子の事を夢で見たのか分からないが。

 ――でも、あの子って気は弱いけど優しそうだったからな。

 あまり関わった事がないから、彼女がどういう人間かは知らないが、いつも裏方スタッフとして僕らをサポートしてくれた。劇場の予約や大道具の手配など、どれも的確で、僕らはいつも助けられていた。目立たないから、今まで気付かなかったが、改めて彼女について考えると、とても気遣いが出来る素敵な女性だった――ような気がする。

 ――あの子なら、もしかしたら、夢と同じように、僕の全てを受け入れてくれるんじゃ……。


「あ、輝君!」


 そんな事を考えているうちに劇団に着いた。

 僕の姿を見るなり、派手好きで有名な女優の一人が駆け寄ってきた。

 彼女のあからさまな態度からして、きっと僕に気があるんだろうがーー正直、彼女は苦手だ。僕に何を期待しているか分からないが、この人はきっと本当の僕を受け入れられないだろう。

「あ、輝くーん」

 その時、彼女の取り巻きの一人が駆け寄ってきた。

「聞いてよー。ほら、この間、使えなくてやめた奴いたじゃん? あいつが、挨拶だとかでまーた来ているんだよ」

「あー、あの暗い奴? 何で今更来るわけー、うっざ。ていうか、何しに来たわけ?」

「なんか、書類とかの渡し漏れがあったとかで、団長が呼んだらしいよ」

「そんくらい郵送しろよ。団長つかえねー」

「ほんそれ」

 悪びれた様子もなく、二人は楽しそうに談笑していた。

 ――あの子、来ているんだ。

 昨夜の夢のせいで、妙に胸が高鳴った。

「ねえ、その子って、まだいるのかな?」

 僕はいつも通り作り上げた王子様の微笑みで彼女に問うと、彼女は一瞬嬉しそうにするが、不機嫌そうに答えた。

「あー、まだ楽屋じゃないかな。急にやめたから、ひと通り挨拶するとか言っていたし」

「やめたんなら、とっとと帰れよー」

「ほんと、ほんと……って、輝君? どうしたの?」

 僕が楽屋に駆け出すのを見て、彼女が慌てて呼び止めるように言った。

「あ、えっと、僕も彼女には世話になったし、ちゃんと挨拶しておこうと思って」

「えー、やめておきなよ。惚れられちゃうかもよー」

「そうそう。大体、世話にって、あいつ全然使えないじゃん」

 使えない、か。

 今の会話で、大体の事情は察した。

 いくらその手の話題に疎い僕でも分かる単純な事だ。

 辞めたという報告だけ受けたから、何があったかは分からなかったが。

 この業界ではいきなり辞めるなんて話よくある事で、最初は気にも留めなかった。

 ――だけど、何でだろう。

 今は、ほんの些細な事すら、気になってしょうがない。

 たとえ、それが何気ない悪口でも。 

「そんな事ないよ。彼女は、いつも僕らをサポートしてくれた。大道具や衣装、小さな事だけど、彼女の仕事は、僕らに必要だった。あの子がいなければ、成功しない舞台もあっただろうね」

「えー、ただの裏方じゃん。あんなのいくらでも代わりが……」

「いいや、裏方だからこそ代わりがきかないんだ。どこに何が置いてあるか、今誰が何を必要か。全てを覚えている彼女じゃなきゃ、成り立たない。少なくとも、僕は彼女には感謝している。お世話になった人に挨拶も出来ないなんて、人として終わっていると思わない?」

「え、輝君、どうしたの?」

「ま、まあ、輝君は優しいから、ねえ?」

 優しい、か。

 ふいに、夢の中の彼女があの時僕を誘ったように、見えない何かが僕の背中を押してくれたような気がした。

「哀しいものだね」

「え?」

「世話になった人に挨拶も出来なければ、悪口以外話題がない。どんなに美しく着飾っても、そんな性根の腐った人間は……醜すぎて、抱けないよ。気持ち悪い」

「なっ」

 顔を真っ赤にして、二人は言葉を失った。

「はあ? 輝君、マジどうしたの。あんな豚の方を持つなんて」

「そ、そうだよ。ちょっと顔がいいからって調子に乗らないで。あんたみたいな顔だけ取り柄の大根役者、うちじゃなきゃ使ってくれないよ」

「おや、それが君達の本心かい? 実に汚い」

 僕が嘲るように言うと、彼女達は目を吊り上げた。

 ――ああ、早くあの美しい人の元へ行きたいのに。


「あ、あの」


 その時、背中から愛しい人の声がした。

 高鳴る胸を抑えながら振り返ると――美しい人が立っていた。

 顔を隠すように伸ばしていた髪をばっさり切り、髪も少しだが明るく染めている。いつもは人の目から隠れるように暗い色の服を着込んでいたが、それらを脱ぎ捨て、明るい色の流行り物を着ており、一見よくいる女子大生のような格好だ。

 あまりの変わり様に、後ろの彼女達は目を見開き、少しの間固まっていた。

「すみません、お話が聞こえてしまって。でも、どうか、私の事で争わないでください」

「ああ、ごめんね。つい、許せなくて」

「い、いえ、庇って頂き、ありがとうございました」

 彼女が小さく頭を下げた。その時、胸元が少しだけ見え、昨夜の行為を覚えているのか、身体が僅かな反応を示した。

「へ、へえ、随分変わったね。イメチェン?」

「え、ええ、まあ。少し思う所がありまして」

 と、彼女はまだ少し慣れない様子で気恥ずかしそうに俯いた。しかし、それじゃダメだと自分の叱責するように顔を上げた。

 少しの間、視線が重なった。そこから勇気でも貰ったように、彼女は顔を真っ赤にしながら言った。

「ごめんなさい。確かに、劇団にいた時の私は、人を怖がってばかりで、厄介物だったと思います。勝手に自分を低評価して、勝手に太陽だって憧れて」

「え?」

 太陽とは、僕の事なんだろうか?

 彼女は情熱的な目で僕を見つめた後、震えながら言った。

「白崎君。私は、ずっとあなたが好きでした」

「……っ」

 青春時代を思い出させるような、真っ直ぐで純粋な告白に、僕はがらにもなく戸惑った。告白されるのは初めてではないが、こんなにもピュアな気持ちはいつ以来だろう。

「でも、ごめんなさい。私、あなたの事、勝手に太陽みたいな人だって決めつけて、勝手に憧れて……」

「そんな事……」

 いつもは「そうなんだ、ありがとう」「気持ちは嬉しいけど、ごめんね」その二つで済ませてきた返事が、今日は出てこない。

 顔を上げた彼女の顔に、影は見当たらない。さながらスポットライトを浴びた役者のように、真っ直ぐ観客だけを見つめる。

「最初は、これが恋なのか、分かりませんでした。明るい貴方は、私にとって異性以上に、人としての憧れでした。誰からも好かれて、誰からも信頼されて……私、貴方のようになりたかった。だけど、どこかで諦めていた。私は日陰で、貴方は太陽。決してなれるわけない、って。だけど……もうこんな暗い自分は嫌。私も、太陽と釣り合うように輝きたい。そう思って、思い切って髪を切ったりしてみたんですが……」

 彼女は恥ずかしそうに髪をいじりながら言った。

「だから、恋人になりたいとかじゃないです。ただ、言わずに去ったままだと、きっと今までと変わらないから。勇気を持って、貴方に伝えたかった」

「本当に、伝えるだけでいいの?」

「え?」

 気付けば、僕は彼女に接近していた。

 そして、彼女の腰に手を回し、正面から彼女を抱きしめた。

「君の気持ち、すごく嬉しい」

「……っ」

 僕を見上げる彼女の瞳に涙が光った。

「僕は王子様なんかじゃない。格好悪い所もいっぱいある」

 今だって、君の姿を見て興奮している。

「勇気がないのは、僕も同じだ。いつも本心を隠して、王子の仮面で周りを騙してきた。こんな嘘だらけの王子様でも、君は受け入れてくれますか? 僕の美しい君」

「……夢、みたい」

 数滴の涙を零しながら、彼女は笑った。初めて見せる、笑顔だ。

「僕も、夢みたいです」

 互いに微笑み合うと、どちらからもなく口づけを交わした。

 ただ触れ合うだけのものだったが、昨夜の夢の出来事を身体が覚えているのか、次第に体内の奥に眠っていた熱が動き出し、激しく求め合った。

「……っ……」

 時折、唇を離しては酸素を招き入れ、再度重なり合う。

 緊張してもどかしい動きの舌を口内に侵入して絡み取り、何度も擦り合わせた。

 行為に似た口づけに身体が熱を持ち始めた時、ようやく僕らは唇を離した。

「はあっ……本当に、夢のようだ」

「……はい、夢のようです」

 そう互いに見つめ合い。僕らは微笑んだ。

 ――これが、恋なのか。

 以前の僕は彼女に気が合ったか分からない。

 だけど、今は彼女の事で頭がいっぱいだ。きっとこういうみっともないくらいに焦がれる事を、恋と呼ぶのだろう。

 そんな三流役者のセリフに似た言葉が、脳裏をよぎった。



 途中、僕らの行為を見ていた女優達の悲鳴に似た抗議と、騒ぎを聞きつけた団長に止められるまで、僕らは互いの手を強く握り、口づけを交わしていた。


 団長にこっぴどく叱られたが、自然と気持ちは晴れやかなものだった。

 その時、叱られる僕ら二人の姿を、窓の外から野良猫が覗いていた。

 その猫の眼差しに妙な既視感を覚えたが――きっと気のせいだろう。猫なんて、みんな似たような顔をしているし。


 それより今は――


      *


 数ヶ月後。


「本当に、僕がいなくて大丈夫?」

「大丈夫ですよ」

 アパートの入り口で見送る彼女に、僕は再度問うが、彼女はいつも通り笑って返すだけだった。

 出会った頃は何もかも新鮮な反応で、初恋を連想させるような彼女。それは今も変わらない。きっとこれからも変わらないのだろう。

 唯一変わった所といえば――

「じゃあ、いってくるね」

 僕は膨らみのある彼女の腹部に触れると、腹の中で答えるように何かが動いたような気がした。

「ええ、いってらっしゃい……お父さん」


 優しい妻に見送られ、僕は仕事へと向かった。

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