Episode4 〆切前には買い物が捗る①
午前十時を回る頃、愛結は新生活に必要なものをいろいろ買い揃えるため、ヒカリ(鎖骨は折ってない)と一緒にマンションを出た。
パジャマから着替えたヒカリの服装は、ゆったりしたシャツとクロップドパンツ、履き物はサンダル。それから、アンダーリムの眼鏡を掛けている。知的な顔立ちに眼鏡がとてもよく似合い、ついまじまじと見つめてしまう。
愛結の視線に気づいたヒカリが怪訝な顔をしたので、愛結は慌てて、
「あ、あの。先生は目が悪いんですか?」
するとヒカリは、
「ああ、これはサングラスよ。色はついてないけど」
「サングラス……もしかして変装のためですか?」
「そうよ。私ほどの売れっ子になると、街でファンに見つかったら大騒ぎになっちゃうから」
「へえ……大変なんですね……」
外を歩くだけで気を遣わないといけないなんて大変そうだが、まるで芸能人のようでかっこいいとも思う。
と、そこでヒカリは小さく噴き出し、
「冗談よ。本気にしないで」
「え!?」
「私はメディアに顔出ししてないから。サイン会のときは馬のマスク被ってるし、そもそも私程度の作家じゃ顔バレしても大した騒ぎにはならないわ」
「むー……」
可笑しそうに言うヒカリに愛結は少しむくれる。
「愛結ちゃんは素直ね」
そう言うと、ヒカリは不意に自分の顔を愛結の目の前に近づけてきた。
いきなりのことに驚き、愛結の頬がかあっと熱くなる。
整った目鼻立ちに、灰色がかったサラサラの髪、色の違う目。改めて間近で見ても、やはり女神か妖精のように美しい顔だと思う。小説家としての彼女のことはよく知らないが、顔が天才すぎる。
「ほら私の目って、よく見ると左だけ色素薄子さんでしょう? 太陽の下に出るときはサングラスがないと少し眩しいのよ」
「な、なるほど……大変なんですね」
ドキドキしながら、愛結はヒカリの綺麗な瞳からそっと目を逸らした。
ヒカリも顔を離し、
「それじゃ、行きましょうか。まずは日用品かしらね。食器とか歯ブラシとか。このあたりで雑貨屋さんを探すか、新宿の百貨店とかに行くか、どっちにしようかしら」
「あ、あの、私の日用品なんて適当でいいです……コンビニで売ってるやつとかでも」
「そうなの?」
「はい」
頷く愛結にヒカリは少し思案顔を浮かべ、
「でも雑貨屋さんには行きましょう。なぜかというと私が新しいコップなどを買いたいからです。愛結ちゃんは私のお下がりでいいかしら?」
「先生のお下がり、ですか」
それはつまり、ヒカリが口をつけたコップとかお皿とか歯ブラシとか――
「やっぱりイヤかしら?」
「い、いえ! 全然大丈夫です」
「それなら決まりね」
ヒカリは機嫌良さそうに笑い、
「あ、さすがに歯ブラシは新しいのを買ってあげるから安心してね」
その言葉に、安心と同時に少しがっかりする愛結だった。
*
優佳理が愛結を連れて訪れたのは、新宿のタカシマヤだった。この中に出店しているホームセンター・東急ハンズは優佳理のお気に入りの店の一つで、たまに目的もなくフラッと訪れては必要もない物をいろいろ買ってしまう。
タクシーを降りて店内へと入ると、そこで愛結が硬い表情でぽつりと「……ここが東京のデパート……」と呟いた。
優佳理は小さく噴き出しつつ、「タカシマヤ、東京以外にもいろんな都市にあるんだけど」と内心でツッコむ。
愛結の地元がどこなのかは知らないが、この娘は東京のことを特別視しすぎているような気がする。生まれも育ちも東京の優佳理にとってはよくわからない感覚だったが、ここはあえてその幻想を壊すような真似はせず、
「そうよ。ここが東京のデパート。そういえば愛結ちゃん、身分証明書は持ってる?」
「え?」
不思議そうな顔をする愛結に、優佳理は真顔で、
「身分証明書よ。東京の一流百貨店ではまずそこの入館受付で買い物許可証を発行してもらわないといけないんだけど、そのためには身分証明書が必要なの」
「そ、そうなんですか」
愛結は目を丸くし、「……あの、東京じゃない高校の学生証でも大丈夫ですか?」と不安そうに訊ねてきた。
「埼玉県以外の高校だったら大丈夫よ」
「よかった……それなら鞄に入ってます」
「んぐ……っ」
優佳理は笑いを噛み殺しながら穏やかに微笑み、
「私はここで待ってるから、はやく買い物許可証を貰ってきなさいな」
「わ、わかりました!」
インフォメーションへと早足で歩いていき、真面目な顔でコンシェルジュに学生証を提示する愛結の姿に、優佳理は声を抑えるのが大変だった。
そして三分後。
「なんでしょうもない嘘つくんですかぁ!」
戻ってきた愛結が、顔を真っ赤にして涙目で優佳理に抗議してきた。
「ごめんなさい、まさか信じるとは思わなくて。素直で可愛いわね」
「か、可愛いって……!」
ますますむくれる愛結に優佳理は笑って、
「東京って言ったって所詮は日本の一部よ。愛結ちゃんの地元と同じように、お金さえあれば大抵のお店で自由に買い物ができるわ。わかってもらえたかしら」
優しく諭すように言った優佳理に、愛結はハッと目を見開き、
「先生、まさかそれを教えるためにあんな嘘を……?」
優佳理はそれを肯定するべく穏やかに微笑え――もうとして、こらえきれず「ぷふっ」と噴き出してしまった。
「や、やっぱりからかっただけですね!? うう……やっぱり折る……鎖骨折るぅ……!」
「ほら、あまり騒ぐと迷惑よ。行きましょうか」
怒りで震えている愛結にそう言って、優佳理はすたすたと歩き出した。
この娘はからかい甲斐があって面白い。あまりやりすぎると本気で嫌われてしまうかもしれないが……――まあ、それならそれで、べつに。
*
ヒカリが最初に向かったのは、東急ハンズの日用雑貨売り場だった。
たくさんの商品に愛結が目移りしているうちに、ヒカリは茶碗、マグカップ、小皿を一つずつ手に取った。
「愛結ちゃん、何か欲しいものあった?」
「え、いえ、特には……」
というか、いろいろありすぎて目の前の棚にある商品すら全部は見ていない。
「じゃあ私、お会計してくるからこのへんで待っててね」
「えっ、もう買うもの決めたんですか?」
驚いて訊ねる愛結に、ヒカリは「うん」と頷く。
「早いですね……」
「そう? まあ直感でグッときたのを選ぶだけだからねー」
「そんな決め方で、あとで後悔したりしないんですか?」
「それはよくあるけど、イマイチだと思ったらまた新しいのを買えばいいのよ」
優佳理は柔らかな声でさらりと言い放った。
「いらなくなった方はどうするんですか?」
「誰かに譲るか処分しちゃうわ」
自分とは感覚が全然違うな……と愛結は思う。
愛結は昔から文房具や小物を買うときものすごく時間をかけて悩むほうで、そうやって選んだものはボロボロになるまでずっと使い続ける。東京に着いた直後には結構無計画に服などを買って散財してしまったが、あれは自分を都会色に生まれ変わらせるために必要な行為で、例外中の例外だ。
この違いは愛結が子供で、ヒカリがお金持ちの社会人だからなのか、それとも金銭感覚とはまたべつの話なのか――。
「あっ、そうだ歯ブラシも買わないと」
ヒカリの言葉で愛結の懊悩は断ち切られた。
「ここって歯ブラシも売ってるんですか?」
愛結が訊ねると、
「私がいま使ってる歯ブラシもハンズで買った記憶があるわ。このフロアかどうかは忘れたけど。愛結ちゃんのこれまで使ってた歯ブラシって電動? 普通の?」
「普通のです」
「電動のがいいと思うわよ? 磨きにくいところも磨けるし」
「でも……電動歯ブラシって高いじゃないですか」
金のことなんて気にするなと言われそうだが、やっぱり気になってしまう。
「うーん、私の使ってるのはたしか三万円くらいだったかしら。それと同じのでいい?」
「さ、三万……っ!」
愛結の今年のお年玉と同じくらいだ。
「やっぱり普通のでいいです!」
「……五年くらい前にね、私の下のお兄ちゃんが酷い虫歯になったのよ」
やたら真剣な顔で突然そんな話を始めたヒカリに、愛結は戸惑う。
「はい?」
「……虫歯になったのは手動で磨きづらい場所に生えちゃった親不知で、虫歯菌が顎の骨まで到達寸前でね、手術には四時間くらいかかったみたい。その後も半年くらい通院しないといけなかったし」
「……」
想像するだけで恐ろしい。
「手術は上手くいって術後の経過も良好だったんだけど、特注の器具が必要で保険もきかない治療だったから、合計で百万円以上かかったって言ってたっけ」
「ひゃ、ひゃくまん……!」
「それ以来、うちのきょうだいはみんな電動ブラシ派。ちなみにお兄ちゃん、後にそこでお世話になった歯科衛生士さんと結婚したわ。虫歯になったことで結果的に幸せになって良かったんだけど、これは話のテーマがブレるから忘れてね」
「ええー……」
むしろその馴れ初めが気になるのだが。百万かかったものの虫歯も無事治せてさらに運命の人と出逢えたのなら、意外と悪くないような気もする。
「とにかく、虫歯は痛いしお金もかかるし、歯医者さんに通う時間もとられるし。それと比べたら、歯ブラシ代三万円なんて安いものでしょう、っていう話よ」
「まあ、そう言われると、そうかもしれないですけど……」
だからといって三万円のものをポンと買ってもらうのは気が引ける。
逡巡する愛結に、ヒカリは微笑み、
「歯ブラシもそうだけど、これからお金のことで私に遠慮するのは禁止します。これは雇い主としての命令だからね」
やんわりと、しかし有無を言わせぬ口調で言った。
それからどこか妖しげな笑みを浮かべ、
「遠慮なんてしなくても、代償ならこれから愛結ちゃんの身体でたっぷり支払ってもらうんだから、ね」
「か、身体で……!?」
いかがわしい意味ではなく、単に「そのぶん働いてもらう」という意味なのはもちろん愛結も言われるまでもなく解っているが、それでも顔が熱くなる。
「わ、わかりました。お世話になるぶんは私の……か、カラダで払いますっ」
決意を込めて言う愛結に、ヒカリは若干戸惑いの色を浮かべ、
「……あの、一応言っておくけど、いかがわしい意味じゃないからね?」
愛結としてはいかがわしい意味でも全然かまわなかったのだが、勿論それを口には出さなかった。
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