Episode2 〆切前には朝食が捗る
翌朝、七時。
白川愛結は、部屋の外から聞こえる鳥の鳴き声で目を覚ました。具体的な名前はわからないが、複数の種類の鳥の鳴き声がはっきりと聞こえてくる。
目を開け、ぼんやりとした頭で布団から身体を起こし、周囲を見回す。
小説家・海老ヒカリこと海老原優佳理の住んでいるマンションの一室。
8畳ほどの和室で、調度品は愛結が寝ていた布団の他には、小さなテーブルと座椅子のみ。お客さんを泊めるための部屋で、これまでは主にヒカリの担当編集者で愛結の従姉妹でもある白川京が、ヒカリの原稿を徹夜で待つために使用していたらしい。
今日からは、ここが愛結の主に生活する部屋になる。
物がほとんどないせいもあって、愛結の実家の自室よりもずっと広く感じる。
京の紹介とはいえ、本当に昨日会ったばかりの人の厄介になってもいいのだろうか。しかもあんな女神みたいに綺麗な――。
「……!」
数時間前にお風呂場で見たヒカリの裸が脳裏に浮かび、愛結は慌ててその映像を頭から振り払った。
ヒカリが愛結を家に置いてくれるのは、愛結が同性だからだ。もしも自分が彼女に抱いている邪な気持ちを知られてしまったら、きっと追い出されるだろう。
なるべく感情が表に出ないように気をつけないと。クールに。クールになるんだ。
「ふぅ……」
呼吸を整え、愛結は立ち上がり、パジャマ代わりのTシャツ&高校ジャージのまま和室の引き戸に手を掛けた。
和室はリビング・ダイニングキッチンと直接繋がっている。
引き戸を開けた途端、聞こえていた鳥の鳴き声がより大きくなった。鳥の声が窓の外からではなくリビングのほうから聞こえていたことに、愛結はようやく気づく。
まさか部屋の中に鳥の巣でもあるのだろうか。
驚いて上のほうに視線を彷徨わせると、鳥の声が聞こえてくるのは天井のスピーカー付き照明からだと気づく。
愛結の実家では朝に窓を開ければ雀の鳴き声がうるさいくらい聞こえた。わざわざ鳥の鳴き声なんかをスピーカーから流すなんて、
「さすが東京……」
うちのクソ田舎とは違う。
愛結が思わず感動の声を漏らすと、
「なにがさすがなの?」
「ひゃっ」
急に声を掛けられ驚く。
見るとリビングのソファの上で、この家の主――海老ヒカリがむくりと身体を起こしてこちらに顔を向けてきた。
「おはよー。えーと…………白川、愛結ちゃん?」
眠たげな目で愛結を見ながら、ヒカリがゆっくりと立ち上がり、微笑んで挨拶する。水色のパジャマが可愛い。
「おっ、おはようございます――」
慌てて愛結も挨拶を返し、彼女のことを何と呼ぶべきか思案する。「海老原さん」「優佳理さん」「海老さん」「海老先生」「ヒカリさん」「ヒカリ先生」ああもうほんとにパジャマ可愛い。
結局名前を呼ぶことは諦め、
「……あの、そこで寝てたんですか?」
「ん。みゃーさん帰ったあとワイン飲んだら一瞬で寝落ちしちゃったみたい」
見ればたしかにソファ前のローテーブルの上には赤ワインのボトルと、中身が少し残っているグラスが置かれていた。
「ふあぁぁ……」
大きな欠伸をしながらヒカリがスマホを操作すると、スピーカーから流れていた鳥の声がストップした。
「なんで鳥の声を……?」
愛結が訊ねるとヒカリは微苦笑を浮かべ、
「このへん、朝は雀の鳴き声がうるさくて。鴉とかもいるし。あんまり好きな音じゃないから、対抗して毎朝7時にランダムで他の鳥の鳴き声を流すように設定してあるの」
そう言いながら、ヒカリは部屋の小窓を少し開けた。チュンチュンと愛結の聞き慣れた鳴き声が部屋に響く。都会にも雀はいた。おのれ雀。
「もしかして鳥の声がうるさくて起こしちゃった? ごめんね」
再び窓を閉めヒカリが訊ねる。
「い、いえ。いつもはもっと早く起きてたので」
「そっかー。高校生だもんね」
「え、あ、はい……」
ばつが悪くなって目を逸らす愛結。
彼女は京からどこまで愛結の事情を聞いているのだろう。そもそも京にも詳しい事情を伝えてないのだが、少なくとも「田舎から家出してきた女子高生」だということはヒカリもわかっているはずだ。そんなあからさまな厄介者を自分の家に住まわせることを、歓迎する人なんているわけがない。やっぱり迷惑かな、あたし――。
「それじゃ、せっかく起きたんだしさっそく朝ご飯を作ってもらおうかしら」
愛結の内心の葛藤に気づいた様子もなく、ヒカリが朗らかな声でそう言った。
「朝ご飯、ですか?」
「うん」とヒカリは頷き、
「愛結ちゃんの初仕事ね。みゃーさんが言ってたけど、ものすごく料理が上手なんでしょう? どんな美味しい朝食が食べられるのか楽しみだわ。ふふ」
悪戯っぽく笑うヒカリに、愛結は慌てる。
「そ、そんなに期待しないでください……。えっと、何が食べたいですか?」
「なんでもいいわよ。食材や調味料はあるものを好きに使って。簡単なものでいいわ」
自由に、簡単に、なんでもいい。
正直、一番困る注文だった。
もっと具体的に指示してほしい――そう言おうとして、愛結はハッとする。
ヒカリは自分でも料理ができる人間だ。「なんでもいい」という注文が一番困るということくらい、彼女だって百も承知のはず。
なのにあえてそんな注文をしたということは、これは『試験』なのかもしれない。愛結がこの家の食事係として、どれくらい使い物になるかを見極めるための。
「……わかり、ました。がんばります」
緊張に唾を飲み込みつつ、愛結はキッチンへと向かう。
実家のキッチンより格段に綺麗で立派なアイランドキッチン。コンロは3口。IHではなくガスなので愛結は少し安心する。IHコンロは使ったことがないのだ。調理スペースもシンクも広く、複数人でも快適に料理ができそうだ。エプロン姿のヒカリと並んで料理をする光景をついつい妄想してしまう。
ファミリー向けサイズの大型冷蔵庫。その横にはワインセラー。冷蔵庫を開けてみると、ケチャップ、マヨネーズ、ドレッシング、焼き肉のタレ、それからなんとかジャン(漢字が読めない)に、なんとかジャン、なんとかジャン、なんとかジャンなどの調味料、ジュースやお酒など飲み物類は充実しているのだが、肝心の食材が少ない。特に野菜は皆無。
続いて冷凍室を確認すると、空きの目立つ冷蔵室とは対称的に、肉、魚介類、白米、アイスクリーム、冷凍食品など様々なものがギチギチに詰め込まれていた。しかしやっぱり野菜は見当たらない。
「なんでこんなに冷凍……」
愛結が思わず呟くと、
「あはは、ふるさと納税とか通販とかでいろいろ頼み過ぎちゃって。一人だとなかなか消費しきれないのよね」
いつの間にかアイランドキッチンの対面からこちらを覗いていたヒカリが言った。
……ここにある食材を使えば相当にいい料理が作れそうだが、朝食にステーキやら鯛やらカニやらというのもどうかと思うのでとりあえず保留し、冷凍室を閉める。
さらにキッチン下の収納を確認すると、多種多様な調味料や香辛料が見つかった。塩、胡椒、味の素、味覇といった愛結も使い慣れたものに、トリュフ塩とかいうなんか高そうなやつ。バジル、ローズマリー、コリアンダーといった、名前は知ってるけど違いはよく知らないハーブ各種、ターメリック、カルダモン、ガラムマサラなどカレーの材料というのはわかるが実際に使ったことはないスパイス類。
調理器具も充実しており、大きさの違う鍋やフライパン数個、用途別の包丁数本、お玉やフライ返しなど基本的なものは当然完備されており、用途がわからない道具も幾つか。
そのうちの一つ、金属の棒に丸いカップが付いた謎の道具を取り、ヒカリに訊ねる。
「あの……コレはなんですか?」
「それ? えーと、たしか卵の殻を割る道具ね」
「……卵の殻を、割る、道具……?」
オウム返しに呟く愛結。卵の殻を割るのに道具を使うという発想が愛結にはなかった。さすが東京の人。
「ええと、じゃあコレはなんですか?」
「ゆで卵をスライスするマスィーン」
「……包丁を使えばいいんじゃ……?」
「それを使うと一度にスライスできるのよ」
「なるほど……。それは便利……です、ね?」
「そのためだけに取り出す手間と洗う手間を考えると包丁を使った方が手軽だけどね」
小首を傾げる愛結に、優佳理が身も蓋もないことを言った。
「えっと、それならコレは?」
「黄身と白身を簡単に分けることができるハイテク機器よ」
「へー」
これはちょっと便利かもしれない。まあ欲しいかと言われると別にいらないけど。
他にもよくわからない道具はいろいろあったが、キリがないのでやめておく。
愛結は再び冷蔵庫の前に行き、思案する。どんな朝食を作ればヒカリの期待に応えられるだろう。
「う~~~~ん……」
「ふふ……」
唸りながら悩む自分のことをヒカリが可笑しそうにじっと見ていることに気づき、愛結は頬を赤らめ、
「あの、見られてると落ち着かないんですけど」
「そう? じゃああっちで待ってるけど、お腹すいたからなるべく早くお願いね」
「わ、わかりました」
*
やけに気負ってるみたいだけど、大丈夫かしら。
リビングのソファに座ってタブレット端末でニュースサイトを眺めながら、海老原優佳理は後ろで料理を始めた愛結に意識を向ける。
食材も道具も気にせず適当に使って、簡単なものをパパッと作ってくれればそれでいいのだが。なんなら卵かけご飯とかトーストを焼くだけでもいいし。
……どうせ、大して期待もしていないのだから。
京によれば料理上手とのことだが、ただの女子高生にそこまでクオリティの高い料理が作れるとも思えない。
優佳理は普段、食事にあまり時間と労力を割かない。
昨日のローストビーフのように突発的に凝った料理を作ることはあるが、普段の食事は基本的にレトルト食品やコンビニのお弁当など手間がかからないものばかりである。急に本格的な中華料理やカレーを作りたくなって揃えた調味料や香辛料も、数えるほどしか使ってない。コンビニの海老チリやカレーだって結構美味しいし。
それにしても、久しぶりに見たわね。卵割りマシン(正式名称は忘れた)。
ゆで卵スライサーも黄身と白身分ける君(仮称)も、買ったはいいが使わなすぎて正直存在すら忘れかけていた。
昔からああいう、ただ一つの微妙な用途にしか使えないアイテムが妙に好きで、必要もないのについ買ってしまう。
たった一つの目的のために作られ、その役割を果たすためにのみ存在し、たとえ使われずとも忘れ去られようとも、何も言わず何も考えず、出番の時を待ち続ける。
選択の余地のないそんな在り方が、たまに羨ましくなるのだ。
……ただ一つのことしか出来なければ、生き方に迷うこともないのだから。
*
悩んだ結果愛結が作った朝食は、実家で作り慣れたメニューだった。
主食は白米(冷凍庫に一食分ずつ分けて保存してあったのをレンチン)、わかめと豆腐の味噌汁、卵焼き、胡麻とちりめんを炒って作ったふりかけ、鶏肉の煮物、豆腐としらすと梅とわかめのサラダ。
本当は野菜料理も作りたかったのだが、野菜がなかったので仕方なく乾燥わかめを代理とした。
どれもこれも簡単に作れるものばかりで、『試験』に出すには気が引けた。しかし使ったことのない調味料や食材に挑戦して、ヒカリに美味しくないものを食べさせるよりはマシだと思ったのだ。
「ど、どうですか」
「…………」
テーブルの上に並べられた料理を、ヒカリはしばしジッと見つめ、
「すごいわね……期待以上だわ」
「え?」
意外な言葉に愛結は驚く。
「どれも簡単なものばかりなんですけど……」
「一つ一つはそうなんでしょうけど。なんか、家のご飯みたいだなって思って」
「いえのごはん?」
よくわからない評価に愛結が首を傾げると、
「私の実家のご飯って、毎日こんな感じでたくさんお皿が出てくるのよ。一人暮らしするようになって初めて気づいたんだけど、それってすごいなって。だってめんどくさいじゃない、いろいろ作るのも、準備するのも、片付けるのも。しかもそれを毎日よ?」
……そういうものなのだろうか。
愛結の実家でも毎食一汁三菜が基本で、それが当たり前のことだと思っていた。準備も調理も片付けも完全に日常の一部だったから、めんどくさいと思うこともなかった。
「私が自分で料理を作るときって、大抵一皿だけなのよね。ローストビーフならローストビーフだけ、カレーならカレーだけ、丼物ならどんぶり一つだけで汁物とか副菜とか一切なし」
「せめて野菜は食べてください」
「サプリとか野菜ジュース飲んでるからへーきへーき」
「……」
もしも試験に合格したら、絶対に毎日野菜を出そう。
「さてと、じゃあ冷めないうちにいただきましょうか。愛結ちゃんも座って」
「あ、はい」
ヒカリに促され、愛結は彼女の対面の席に座る。
「いただきまーす」とヒカリが最初に箸をつけたのは卵焼きだった。
「ふーん、愛結ちゃんの卵焼きは甘口なのね」
「あ、いえ、右側三つが甘いので、真ん中三つがプレーンで、左三つがしょっぱいやつです。好みがわからなかったので……」
「わざわざ三種類作ったってこと? やりおるわね愛結ちゃん……」
愛結の説明にヒカリは驚きの色を浮かべた。続いて他の味付けの卵焼きを食べ、
「……うん、どれも美味しいわ」
「よかったです」
安堵の息を吐く愛結に、
「ちなみに、チーズ入りとか明太子入りって作れる?」
「材料さえあれば……」
愛結の返答にヒカリは目を輝かせ、
「じゃあ明日はチーズ入りでお願い。ノーマルな卵焼きは私も作れるんだけど、何かを入れると形が崩れちゃうのよね。ノーマルでもこんなふわふわには出来ないし」
明日。
「……明日も、あたしが作っていいんですか?」
おずおずと訊ねる愛結にヒカリは小首を傾げ、「それが仕事でしょう?」と当然のように言って、
「あ、そうだ。仕事といえば、お給料を決めないとね。住み込みのお手伝いさんの相場っていくらくらいなのかしら……」
「い、いいですお金なんて! ここに泊めてもらえるだけで十分です」
「そういうわけにはいかないわ――と言いたいところだけど、実はみゃーさんからも同じこと言われてるのよね。じゃあ当面はお給料という形での支払いはナシで、食費とか諸々の生活費を全部私が持つということで。臨時でお金が必要なときはその都度相談。働き次第で臨時報酬っていうかお小遣いをあげます。これでどう?」
「は、はい。大丈夫です」
つらつらと述べるヒカリに、愛結は頷くしかなかった。
初対面の人間を自宅に住まわせることをあっさり受け容れたこともそうだが、この人は、他人を上から使うことに慣れている――そんな感じがする。
「じゃ、食べ終わったら家の案内をするわね」
そう言って再び料理に箸を伸ばすヒカリに、
「あ、あのっ」
「うん?」
「えっと……」
「ん?」
愛結は頬を赤らめながらも真っ直ぐにヒカリの顔を見て、
「ど、どう呼べばいいですか!」
「うん?」とヒカリは不思議そうな顔をした。
「その……呼び方です。あなたの」
「あー」
理解したヒカリが何度か小さく頷き、それから悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「そうねー、じゃあ『ご主人様』で」
「ご主人様!?」
想定外の言葉に愛結は驚きながらも、
「……えっと……わかりました……ご、ごしゅじんさま」
「お、おお……思った以上に罪悪感がすごいわね……。やっぱり今のナシで! ご主人様って呼ばせてるなんてみゃーさんに知られたら鎖骨折られちゃう……」
冷や汗を浮かべてヒカリは言った。
「じゃあなんて呼べば……」
「好きなように呼べばいいよ。海老原でも海老でも優佳理でもヒカリでもエビワラーでもエビっちでもゆかりんでも。知り合いのクソさっ――先輩作家さんはエビ公とか呼ぶわね」
エビっちとかゆかりんというのはきっと過去に友達に付けられたあだ名なのだろう。そしてエビ公は酷い。
いずれにせよ年上の人をあだ名で呼ぶのは気が引けるし、いきなり下の名前も馴れ馴れしい気がする。だとしたら「海老原さん」「海老さん」あたりが無難だが――。
しばらく迷った末、
「……じゃあ、海老先生って呼びます」
この呼び方が、『小説家、海老ヒカリの世話係』という今の自分の立場に最も相応しいと思ったのだ。
他人行儀だと気を悪くされないかと心配だったが、ヒカリにそんな様子はなく、「ん、りょーかい」と軽く頷いた。
「じゃ、改めてよろしくね、愛結ちゃん」
「は、はい。よろしくお願いします……海老先生」
こうして、二人の新しい生活が幕を開けた。
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