Episode1 〆切前には出逢いが捗る⑤

 目を開けると見知らぬ天井だった。

 具体的には、照明が紐で吊り下がった正方形のやつではなく、真ん中にスピーカーが付いた丸いシーリングライト。

 愛結が寝ていたのはリビングにあるソファーの上で、身体には毛布が掛けられている。

 目をこすりながら身体を起こすと、だんだん意識がはっきりしてきた。

 夕食を食べたあとソファに座って休んでいると急に強烈な睡魔が襲ってきて、そのまま眠ってしまったらしい。

 夜行バスでは全然寝られなかったし、東京に着いてからも気が休まることがなかったから、思った以上に疲れていたのだろう。

 周囲を見回すと、ダイニングテーブルで京がノートパソコンで作業をしていた。

 リビングの壁掛け時計を見ると、時刻は午前2時を過ぎたところだった。

「あ、起きたのね」

 立ち上がった愛結に気づいて、京が声をかけてきた。

「うん……。みやちゃんは何やってるの?」

「ん? 仕事よ」

「こんな夜遅くなのに? 編集者って大変なんだね」

 驚く愛結に京は、

「そのぶん朝は遅いけどね。うちの業界は大体、お昼に出社して深夜まで仕事する人が多いかな」

「へー、なんで?」

「作家とかイラストレーターとか、あとアニメ関係者とかに夜型の人が多いから、その相手をする編集者も自然とそうなっちゃうのよね」

「へー」

 そういう業界もあるのか、と愛結は少し感心し、

「あの、ところで先生は?」

「ヒカリなら仕事部屋で原稿書いてるわよ。朝までには上がるって信じたいけど……」

 不安げな京に、愛結は疑問を抱く。

「あれ? 〆切って昨日じゃなかったの?」

「……この業界にはね、『次の日の午前中までは今日のうち』っていう言葉があるの」

「次の日の午前中までは今日……!?」

 明らかにおかしな日本語に、愛結は混乱する。京は苦笑を浮かべ、

「駄目なクリエイターの駄目理論だから、あっちゃんは覚えなくていいわ。それより、寝室に布団敷いてあるから着替えて寝なさい。って、そういえば着替えって持ってきてる?」

「あ、うん……一応少しは」

 家を出るとき、バッグに下着とかTシャツを適当に詰め込んできた。スマホと財布、そして何日か分の着替えだけが今の愛結の持ち物全部だ。

「そっか、ならよかった。あ、寝る前にお風呂入る?」

 京に訊ねられ、愛結は自分の身体に目をやる。目立った汚れなどはないが、街を歩き回って汗をかいたので少し臭うかもしれない。

「うん……入る」

「わかった。……ヒカリー! お風呂使うわよー!」

 ヒカリの仕事部屋の扉に向かって京が声を掛けるが、返事はない。

「寝てるんじゃないでしょうね……」

 立ち上がり、京は仕事部屋の扉を半分ほど開けた。愛結も京の後ろから部屋の中を覗く。

 四方の壁を本棚で埋め尽くされた八畳ほどの部屋。

 その中でヒカリはデスクトップパソコンに向かって小説を書いていた。ヘッドフォンで音楽か何かを聴きながら作業しており、そのため京の声も聞こえなかったらしい。

「ふーん……ちゃんとやってるみたいね」

 京が安堵の息を吐き、

「それじゃ、お風呂の準備するわね」

 仕事部屋の扉を静かに閉め、京は勝手知ったる様子で風呂場に向かう。

 それから十五分ほど経って、リビングの壁に設置された給湯器のリモコンから『お風呂が沸きました』と音声が流れた。

「お風呂は廊下に出てすぐ右だから。タオルとかシャンプーは好きに使って。ヒカリは気にしないと思うから」

「う、うん」

 京に言われ、愛結はバッグから着替えを取り出し、リビングを出て脱衣所の扉を開けた。

 他人の家のお風呂に入るのは何年ぶりだろう。自分が同性愛者であると自覚してからは、お泊まり会的なイベントに誘われても理由を付けて断っていたのだ。

 服を脱ぎ、浴室へと入る。

 身体を普段よりも入念に洗ってから、ゆっくりとお湯に身体を沈めていく。

 浴槽は愛結の実家のものよりもかなり大きくて、足を伸ばしてもまだ余裕があった。

「ふぁ~~~」

 浴槽のふちに頭を預け、深々と息を吐く。

 身体と心に溜まった疲れが、まとめてお湯に溶けていくかのように感じられた。

 明日からこの家で、自分の新しい人生が始まるのだ。

 未知の生活に対する不安、勢いで家を飛び出して東京まで来てしまった後悔、衝動的に人を殴ってしまった反省、家族や友人と断絶してしまった悲しみ――それらは決して頭を離れてくれないけれど、それでも今は希望の方が強かった。

 京は相変わらず優しくて頼りになるし、それに――。

 海老ヒカリの顔を思い浮かべ、愛結の身体が火照る。

 と、そのとき。

 ガラリと浴室の扉が開かれ、ヒカリが中に入ってきた。

 お風呂なので当然、一糸纏わぬ姿である。

 どこかぼんやりした顔でシャワーヘッドを手に取ったところで、

「うん……?」

 口をぱくぱくさせている愛結に気づき、ヒカリが眉根を寄せた。

「え、なんでお風呂に女の子が……?」

 不思議そうに呟いたあと、ヒカリはその完璧な裸身を愛結に向けたまましばらく立ち尽くしたあと、「あぁっ!」と大きく目を開いた。

「えーっと、たしか愛結ちゃん! みゃーさんの従妹の愛結ちゃんね! バイトの! ごめんねー、眠すぎて頭回ってなくて。……あーよかった、てっきりいつの間にか死んじゃってギャルゲーの世界に転生したのかと思って焦ったわー」

 誤魔化すように笑うヒカリに、愛結は顔を真っ赤にして、

「あ、え、えっと、勝手にお風呂入ってすいません! すぐに出ます!」

「ううん、気にしないでそのまま入ってていいわよ。私はちょっとシャワーで頭スッキリさせに来ただけだから」

 ヒカリはそう言ってハンドルを捻り、シャワーを全開にして自分の頭からかけ始めた。

 お湯が彼女の全身を濡らし、滑らかな肌を伝って落ちてゆく。

 エロいのにどこか神々しくもある光景から、愛結は目が離せなかった。

 ヒカリは一分ほどシャワーを浴び続け、

「はーっ、スッキリしたー」

 お湯を止め、両手で顔を拭い、愛結の方に顔を向ける。

 慌てて顔を半分お湯に沈める愛結に、ヒカリはくすっと微笑んで、

「それじゃ、ごゆっくりー」

 浴室を出て行くヒカリの後ろ姿を、愛結は自然と目で追ってしまう。背中もお尻も脚も吸い込まれそうなほど綺麗で、手を伸ばして触りたくなる。

 顔が熱い。心臓が今にも爆発しそうなほど激しく脈打つ。ヒカリが浴室を出たあとも、彼女の裸が視界に焼き付いて離れない。身体の奥が疼き、切ない吐息が漏れる。

「……っ!」

 無意識のうちに右手が下腹部へと伸びていたことに気づき、羞恥で目に涙が浮かぶ。

 あぁ、今のあたし、すごい気持ち悪い。


 ――だって、やっぱり気持ち悪い。体育の着替えのときとか、あたし達のことキモい目で見てたってことでしょ。


 友達に拒絶されるのも当然だった。

 ついさっきまで新しい人生への希望にときめいていた心が、自分の浅ましさに対する嫌悪感で塗り潰されていく。

 こんな自分、絶対にあの人には知られないようにしないと――。

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