Episode1 〆切前には出逢いが捗る③

 海老かいろうヒカリの家は、喫茶店からタクシーで十五分ほどの場所にあった。

 築浅の低層マンションが多数並び立つ閑静なエリアにある、五階建てのお洒落なマンション。地下一階から地上四階まではそれぞれ三戸、最上階は一戸だけで面積の三分の一がルーフバルコニーになっている。その最上階、五〇一号室が、海老ヒカリの住居兼仕事場らしい。

 都心の家賃相場などまったく知らない愛結あゆにも、相当高い物件であることはわかる。こんなマンションに一人で住んでいるなんて、一体どんな人なんだろう……。

 京がエントランスで501と入力してインターフォンを押す。しかし、反応は返ってこなかった。

「留守?」

 愛結が小首を傾げると、京は無表情でスマホを取り出し電話をかけた。

「……開けなさい」

 ドスの効いた低い声で京が言うと、間もなく扉が静かに開いた。

「ったく、往生際が悪いわね」

 ぼやく京とともにエレベーターに乗り、五〇一号室の前に辿り着く。

 京がチャイムを鳴らすと、ゆっくりと扉が開いて中から女神が現れた。

 女神。

 少なくとも愛結は本気でそう思った。

 どこか気だるげな微笑を浮かべた、目を見張るほど整った顔立ち。

 ふんわりとウェーブのかかった、少し色素の薄い灰色っぽい髪。

 瞳の色が左右で微妙に違い、右目は黒、左目は銀。

 すらりとした長身に、理想的なバランスの胸と腰。

 服装は上下ともグレイのスウェットなのに、何故か神々しさすら感じる。

 目も心も一瞬で奪われた。

 自分のクソみたいな人生は彼女と巡り逢うためにあったのだ。

 一目惚れというのは本当にあるのだと、愛結は今初めて知ったのだった。

「お疲れ様DEATH海老先生」

 京が感情を殺した声で淡々と挨拶すると、彼女――海老ヒカリは京の《圧》を軽く受け流して、「お疲れ様ですー」と涼やかな声で返した。

 それから視線を、京の後ろに隠れるように立っていた愛結へと向ける。

 目が合った瞬間、愛結の心臓が大きく跳ね上がり、体温が一気に上昇し、頬に朱が差した。

 ヒカリは不思議そうな顔を浮かべ、京に視線を戻した。

「みゃーさん、そちらの方は?」

「電話で言ったでしょ。あたしの従姉妹の白川愛結ちゃん。今日からあんたの面倒をみてくれる子よ」

「え、あれって本当だったんですか!?」

「本当に決まってるでしょ」

「いやー、ホントに連れてくるなんて普通は思わないじゃないですか常識的に考えて」

「あんたに常識を語られたくないんだけど……。作家に原稿を書かせるためなら何でもする――それが編集者よ」

「ワァオ、頭おかC……」

 ヒカリは頬を引きつらせて大げさに肩をすくめ、それから愛結をまじまじと見つめた。

「ええと……愛結ちゃんさん? 本当にうちで働いてくれるの?」

「は、はいっ!」

 愛結は上擦った声で答えた。

「こう言うとアレだけど、うちはとってもブラックよ? ブラックバイトよ?」

「そ、そうなんですか?」

 ブラックバイトってたしかニュースで聞いたことがある。さすが都会こわい……。

 ビビる愛結にヒカリはシリアスな口調で、

「うん。毎日3回もご飯を作ったり、掃除とか洗濯をしたり買い物をしたり郵便受けを確認しないといけないの」

「え……それくらいなら全然……」

「あっちゃんはこう見えて家事万能よ。料理も上手いし」と京が口を挟む。

 幼い頃から「これが女の役割だ」と家事全般を手伝わされてきた結果なので、複雑な気持ちだった。

「なかなかやるわね……。でもそれだけでは駄目よ。料理を作るだけでなく、食べたあと食器や調理器具を洗うという激務もあるんだから!」

「それって当たり前じゃ……」

 思わず口走った愛結に、京が「その当たり前ができない子も世の中にはいるのよ。例えばここに」と呟いた。

「むむ、私はできないんじゃなくてやらないだけですぅー」

 ヒカリは不本意そうに反論し、

「うーん、じゃあ他にはねー……」

 さらに何かを言おうとするのを愛結は遮り、

「あ、あの! あたし、なんでもします! だから働かせてください!」

 勢いよく頭を下げた愛結を睥睨し、ヒカリは「ほほーう?」と意地の悪い笑みを浮かべた。

「なんでもするー? ほんとにー?」

「はい!」

「エッチなことでも?」

「いいんですか!?」

「え!?」

 目を見開いて反射的に聞き返した愛結に、ヒカリが驚いた顔をした。

「ちょっとヒカリ! あたしの従姉妹に変なこと言わない!」

 京がヒカリを咎める。

 二人のそんな反応に、今のはヒカリの冗談だったのだと気づく。

「い、いいわけないです! 間違えました! でも、どうしてもって言うなら……」

 頬を赤らめて見つめる愛結に、ヒカリは苦笑を浮かべ、

「安心して。私は可愛い女の子が好きだけど、じゃないから」

 はっきりと言われ、愛結は曖昧な笑みを返しながらも、内心落胆するのだった。

 自分の人生が彼女と巡り逢うためにあったというのは、どうやら勘違いだったらしい。

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