Episode1 〆切前には出逢いが捗る②

 彼女にとって、その日はよくある〆切直前の一日だった。

 海老原えびわら優佳理ゆかり、二十二歳。

 職業は小説家、ペンネームは海老かいろうヒカリ。

 高校時代にとあるライトノベル系の新人賞で大賞(※もっとも優秀な作品に与えられる)を受賞してデビューし、これまでに十数冊の本を出版した。そのうちの何作かはかなりヒットし、漫画化、映画化、アニメ化、ドラマ化も軒並み経験している、押しも押されぬ売れっ子作家の一人である。

 昼過ぎに起床してシャワーを浴びて、優佳理はパソコンに向かい、〆切が今夜にもかかわらずまだ半分くらいしか書けていないウェブ連載用の原稿を書き始める。

 ……が、三十分かけて数行だけ書くとぴたりと手を止め、大きく伸びをして立ち上がり、仕事部屋を出てキッチンに向かった。

 広々としたリビングに設置された開放的なアイランドキッチンの前に立ち、作業を開始する優佳理。

 シャワーを浴びる前に冷蔵庫から取り出しておいた、六〇〇グラムの牛もものブロック肉に、塩と黒胡椒を手で丹念にすり込んだあと、三時間ほどモンハンをやりながら肉に味が染み込むのを待つ。

 フライパンでバターと一緒に肉を焼き、表面にほんのり焦げ目を付ける。

「~♪ 上手に焼けました~♪」

 ハミングしながらローリエをまぶしてアルミホイルで包み、一〇〇度に余熱したオーブンで一時間焼く。

 フライパンに残った肉汁にワイン、バルサミコ酢、醤油、みりん、すり下ろしにんにくを混ぜて煮詰めてソースを作り、家庭用カラオケでアニソンを気持ちよく熱唱しながら肉が焼き上がるのを待つ。

 焼き上がった肉をオーブンから取り出し、アルミホイルに包んだまま置いておき二時間ほど映画を観る。

 アルミホイルを外し、スライサーで薄く切り分ける。

「ふふ……!」

 滲み出てきたミオグロビンと綺麗なピンク色の断面を見て、優佳理の顔に笑みが浮かんだ。

 こうして良い感じのローストビーフが作れるようになるまで、何度かの試行錯誤が必要だった。最初は火が通り過ぎて中まで灰色になってしまったものだが、今では肉の大きさ、厚さ、部位によって、最適な焼き加減やオーブンの温度と時間がなんとなくわかる。

 今からこれを、ルーフバルコニーで赤ワインを飲みながら食べてやるのだ。

 至福のひとときに心を弾ませながら切ったローストビーフを皿に盛り付け、ソースをかけようとしたそのとき、スマホから着信音が鳴り響いた。

「うぇー……」

 顔をしかめながら画面を確認すると、相手は予想どおり担当編集の白川京だった。

 無視しても何度でもかけ直してくるのはわかっているので、仕方なく通話に出る。

「……はい。海老です」

『お疲れ様です、ブランチヒルの白川です。約束どおり今からそっち行くから。もちろん原稿はできてるわよね?』

 一方的に告げられ、優佳理は頬を引きつらせながら、

「いやー、実はあとちょっとのところで詰まってて! ホントあとちょっとなんですけど! わざわざみゃーさんにご足労いただくのも悪いので今日のところは――」

『ううん、気にしないで。書き上がるまで部屋で待つから。ずっと。いつまでも。いつまでも』

 ハイテンションで押し切ろうとする優佳理に対し、京は穏やかな、しかしどこか底冷えのする声音で淡々と言い切った。

 あー、これは断れないわ……と優佳理は早々に諦める。

 京が優佳理の家まで来て原稿が上がるまでずっと待っているのは今回が初めてではなく、京が仮眠を取るための布団まで用意してあるほどだ。

(一応、上がってはいるんですけどね。……モンハンのハンターランクが!)

 そんな冗談を思いついたが、それが許される雰囲気でもなさそうなので自重する。

「ふぇーい……じゃあ、お待ちしてまーす」

 うんざりした顔でそう言って、優佳理が通話を切ろうとすると、

『あー、ちょっと待ってまだ切らないで』

「ほえ?」

『前にあんた、身の回りの世話をしてくれる美少女が欲しいって言ってたわよね。ちゃんと生活を管理してくれる子がいたら〆切守るのにーって』

 〆切を破って叱られているときに、たまたま「一人暮らしの少年のもとに美少女が押しかけてきて世話を焼いてくれる」というよくある感じのラブコメ漫画が目に入って、そんなことを言った記憶がある。もちろんただの冗談のつもりだったが。

「あー、言ったことがあるような気はします」

『見つかったから今から連れて行くわ』

「ふぁあ?」

 京の言葉に、優佳理は思わず間の抜けた声を上げてしまった。

『だから、見つかったの。あんたのところで働いてくれる美少女が。だから大人しく待ってなさいよ。逃げたらエビフライにしてやるから』

「えっ、ちょ、待っ、みゃーさ――」

 通話が切られる。

 優佳理はしばしその場で立ち尽くし、

「……みゃーさん、ついに頭がおかしくなっちゃったのかしら……」

 だとしたら、その原因の〇・数パーセントくらいは自分にあるのかもしれない。少し反省する優佳理だった。

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