第19話 残光
幻視の予兆はほぼない。大抵は前触れなく唐突に始まるから、幻視という現象に慣れるまでは転んだりぶつかったりして、幻を視ること以上に皆に心配をかけた。
長じるにつれ身につけたのが「幻視が来るとわかった時点でしゃがむ、壁にもたれるなどして身体の安定を確保する」やり方で、そのお陰か、道端でうずくまっていても、家屋の壁に寄りかかっていても、また何かを視ているのだなと誰もが察してくれるようになった。親切な者は幻視が終わるまで待って、具合はどうかと声をかけてくれる。
「だいじょうぶ?」
幻が去り、眉間を揉んで目を開けると、腕一本ぶん離れたところにイナサがいた。ナオがぎりぎり不快にならない距離で、これより内側に入ってこられると近寄りすぎだと感じるし、人によっては体臭が加わってより気分が悪くなる。
……と伝えた記憶はないのだが、彼女は厳密にその距離を守るから、ありがたいようなそうでもないような、何と言うべきかいつも迷う。
昔はナオがイナサのストッパーだった。落ち着きがなく、あちこち歩いていったりよじ登ったり、一時もじっとしていない彼女は頻繁に怪我をし迷子になるので、田畑の手伝いに行くときやよその区の探掘チームが来訪したとき、
いつの間に、手が届かぬ距離に行ってしまったのだったか。記憶を掘り起こし、また埋めた。そうだ、彼女から血のにおいがしたから怪我でもしたのかと尋ねたら、たいそう気まずい顔をされたのだった。当時は、彼女のよそよそしさに腹をたて、あるいは俺が気に障ることをしたのかもと落ち込んだ。無知の恐ろしさに頭を抱える。
あの時から、ストッパーは不要になった。ふたりとも子どもではなくなって、分別もついたから。
「だいじょうぶ? あ、あたし、もしかして汗くさい? もうちょい離れるね」
「いや、そういうんじゃなくて。……大丈夫、だから」
ランニングの途中だったらしいイナサは首にかけたタオルをくんくんと嗅いで、ベンチに腰を下ろした。間に落ちたひとりぶんの空間に秋の風が通って、いやに肌寒い。
「珍しいね、こんな時間に外にいるの。何かあった?」
「ちび達がどんぐりを拾ってこいってうるさくて」
けれどももう夕方で、最近は陽が落ちるのが早いから、子どもたちには部屋の片づけと夕食の準備を言いつけ、ナオが人数分のどんぐりを拾いに出てきたのだった。その最中に幻視が来て、今に至る。
公園とも言えない広場だが、クヌギやシイ、ナラの木のほか、砂場があって、滑り台があって、ぶらんこがあるから子ども達に人気の場所だった。何より高台に位置するお陰で、見晴らしがいい。
折しも、遠い西の稜線に太陽が飲み込まれてゆくところだった。東の空はとうに青黒く、長い夜の訪れを告げている。一番星は天頂付近のベガ、次いで南東の低い空にフォマルハウト。冬が迫ったこの時期にも夏の大三角形が見えることが当然のような不思議なような、宇宙のルールの偉大さと、人間の営みのちっぽけさにひどく不安になった。
口を開けて空を見るイナサの横顔は昔と同じで、ここは足がつく水辺だったとようやく思い出す。そう、また暗い海を往く魚を視たのだ。蛇のように長く
幻視が、夢占いのように精神状態の発露や比喩であった例はない。子どもが泣くのを視ればその子は泣いているし、廃墟に埋まる何かを視たらそれは廃墟にある――麗威のように。遠い未来や過去の光景を視ることもなく、確かめられた限りは、身近なものごとをほぼリアルタイムで視る。だからこそ探掘家でいられるのだが、魚の幻だけ説明がつかない。
この魚だけ繰り返し視るのには意味があるのだろうか。ただ暗い海を泳ぎ、星のように光るプランクトンを喰うだけの魚に。どれだけ考えても心当たりがない。
「ナオはさ、『はかない』だ」
「は?」
唐突な物言いにむっとしたが、事実なので言い返せない。それにしても「儚い」とは。もう少し言いようがあるだろう。ないのか。
「日の暮れる頃はねえ、王子さまがいっとう好きな時間なんだよ」
王子? 麗威のお話か? 疑問符が全身を埋め尽くしたが、残照を見つめるイナサの焦点はずっと遠くで結ばれていて、何ひとつとして言葉にはならなかった。
弾みをつけて立ち上がった彼女の手が昔のままに伸びてきて、どきりとする。
「冷えるから、早くかえろ」
「……うん」
冷たい指だった。
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