人形師の手稿 Ⅰ
一
どこか遠くへ行きたかった。行く為だけに汽車へ乗った。どこへ向かうのか、どこが終点なのか、どこを終点とするのか―――そんな事は考えもせず。ただ私は、茫漠たる思いを抱きながら、汽車へと飛び乗ったのである。そうして私の行き着いた、私にとっての終点で、暫くぼんやりと、今後の人生について考えようと、私は漠然と考えていた。
汽車の窓から見える、紫色した夕焼けを眺めながら、私は、こうした行動に至った顛末を、思い出していた。私が決心に至った最終的な理由を―――。
「貴方は私の、何を好いたの」
泣きはらす彼女の言葉に、私が答えうる術は、「外見が私にとって好ましかったから」という理由しかなかった。ほかに何が良いかと訪ねられても、私が伝えることの出来る本心は、ただ、そればかりだったのである。
今に思えば、私は大変、愚かなる青年であったとしか云いようがない。祖父の資産を受け継ぎ、金ばかり有していた私には、そうした考えしか浮かばなかったのである。匣庭の中で育てられた、造り物の私には。………
然し私は、確かに、私自身の価値観として、彼女を心底愛していたから、嘘偽り無く接しようと、
「私は外面を好いている」
そう、率直に、素直に申し上げた。
然し―――
「貴方には心がない」
そう吐き捨てて、彼女は、私を捨てていった。力なく地面に横たわり、頬の赤く腫れた私を、私以外の人間たちは、何も云わず、ただクスクスと眺めながら、笑っていた。脆弱なる私の心は―――彼女に『無い』と云われた心は―――このとき無惨にも引きずり出され、ずたずたに切り裂かれたのである。そして、もう、元に戻る術を、完全に見失ってしまった。
「貴方には心がない」
その言葉は一言で、私自身の愚かな様相を表しているように感じられた。私には恐らく、確かに心がないのだろう。心がないから、私は他人に対し、思いやる言葉を伝える事が出来ぬのだと、そう、思い至った。だからこそ私には、友と呼べる者もなく、敬愛すべき何かを抱くことが出来ない―――本心というものを、そもそも有していないが為に。だから心を知りたいと、私は思った。
二
そうして辿り着いたのが、少し小高い、森林の生い茂った小山をすぐ傍に有する旅館だった。庭先の池に、逆さに映る旅館の灯りと、昔ながらの伝統を受け継ぐ外観が照り返すその様は、私の茫漠たる心に、少しの安息を与えた。
「いらっしゃいませ。さ、こちらへ」
曲がり鼻が印象に残る、白髪の混じり始めた親父だった。私は彼の促すままに、旅館の中を、私の泊まるべき部屋を目指し、ついていった。オレンジ色の灯りに照らされた、板張りの廊下を、鏡池を右手にすうっと行き過ぎ、私は漸く、私が暫く滞在する事になるであろう部屋―――突き当たりの部屋へ行き着いた。
そして私はその部屋で、衝撃と対面した。
三
それは、額縁の中に収められた、白黒の写真であった。
少女が一人、洋風の椅子に坐り、こちらを見据えているのだが―――少女はただの人間ではなく、球体関節の身体を持つ、人形少女であったのだ。
幼い丸みを帯びた、大きな球体の腹の上に、あばらの浮き出た華奢な上躯が、白く薄い、可愛らしい、ようやく膨らみだしたであろう乳房を晒すまま、肋骨と腹の結合部の間に、何とも言えない絶妙な隙間を、生じさせている。下躯は恥骨から、なだらかなる曲がりのままに、外縁は秘部へと至ってゆく。浮き出た鎖骨の両端、肩幅の狭い、球体から伸びる腕。脚。その連続。連なり。関節。指の一本一本。細部の隅々、至る所にまで行き届いた、美の感覚。彼女をこの世に生かす為だけに造られたであろう肉体。長いまつげの下に有する、流し目に遠くを眺める瞳の輝き。その儚さ。ふわり、ふわりと、甘い香りさえ匂い立ちそうな、細く美しい、肩口へ撓垂れかかる灰色の髪。そして何とも恐ろしかったのは、その、少女の表情の、なんとも憂いを帯びた、悲しげで、然し穏やかなる笑みを与えているとも感じる、頬と口元の歪みであった。そしてその身体総てを、薄い柔布が暖かなヴェールで包み、守っている。その美しさを一つも隠すことなく、こちらへと、おくり届けて。………
そうした外面のまま、椅子の上に坐る彼女は、私に対し、その美しさを悉く示していった。そしてその存在は、私の価値観の総てを破壊しうる―――正に衝撃としか形容することのできない美しき球体間接人形への、恋慕を誘った。
「この写真が―――この写真に写る人形が欲しい」
こうして私は、この、球体関節人形の少女の、虜となった。
四
「この写真は」
振り返り、私は宿屋の主人に訪ねる。
「ああ。この、人形の写真でございますか」主人は苦笑いをして云った。
「亡き父が幼き頃、或る御方を介抱したのですが、その際、池の傍に落ちていたカメラから現像した写真なのだと。そう聞いております。何でも、彼が人を呼びに行って戻ってくれば、もう、そのお方はこつ然と、消え去っていたのだそうで御座いますよ」
そう云って、曲がり鼻の主人は、写真を見た。
「是非とも、譲って頂きたいのですが」私は尋ねた。「そしてもしご存じであれば―――ここに写る人形の所在を、お教え頂けないでしょうか。是非とも、是非とも手に入れたいと、思いましたので」
勢いのまま。
気付けば私は、そう、口走っていた。
「―――宜しいのですか」
目を見開き、驚いた様子で、主人は身を引く。
威勢が良すぎたらしい。
「申し訳ありません」私は主人に詫びた。「ここに写る人形が、あまりにも見事な造形でありましたから、つい、感情ばかりが先走ってしまったのです。お父上の遺品でしたら、やはり、大事にしていらっしゃる品なのですよね。失礼な申し出を致しました」
すると主人は、曲がり鼻を掻き、苦笑いをして、
「いや―――なんと申しますか。正直私は、この人形を『不気味』としか思えず。どうしたものかと困っていたところなので御座います。父からの言いつけで、きちんと部屋に飾って置くよう、そう申しつけらたのですが、この不気味な有様です。どうにもお客様には不評で、『夜中に寝ていると飛び出してきそうだ』『不気味だから取り外してくれ』と、口々に申される始末でしてね。………」
そう云って、主人は写真を見据える。
「父がその御仁を介抱したときは、それはもう『大変な事件』が起きていましたから、こんな時にいたずらを云いおってと、父はきつく、叱られたのだそうでございますよ」
笑いながら、主人は曲がり鼻をポリポリと掻く。
「その、事件と云うのは」私は訪ねた。
「ああ」主人が答える。
「山の上の屋敷が、―――この人形を作った人形師の屋敷が、燃えたので御座いますよ」
五
「燃えたですって」私は愕然とした。
「ええ―――ほら」
主人は廊下にでると、池の向こうの小山を指さした。
見るとそこには、闇夜に森林が生い茂っているばかりであったが、よくよく見ると、朽ち果てずに残った、煉瓦造りの壁の一面が、月明かりに照らされるまま、鎮座していた。女の濡れ髪のようにして、沢山の蔦が、側面にへばり付いている。
「異国の御仁だったそうです。片眼鏡が印象的な、端正な顔立ちの御仁であったと。―――この写真に写る人形は、彼が最期に造った、人形だったのだそうでございます。屋敷の燃える、数日前に。―――この人形は哀れにも、その身体を失いながら、姿見だけはこうして、残っているのです。
それも相まって、この写真には娘の怨念が乗り移っているだとか、覗き込むと狂ってしまうだとか、そうした逸話も出る始末で―――何せもう、それはそれは酷い焼け跡だったそうですからね。屋敷のご主人のご遺体は、とても、人間とは思えぬ御姿だったそうで御座いますよ」
落胆、しかなかった。
途轍もない衝撃と共に、眼前に現れた写真。その写真に写る人形に、私は恋をしてしまった、その直後に―――写真の中の彼女、球体間接人形の少女は、「既にこの世に存在しない」と知らされたからであるから。
然しそうした、多大なる激震を味わった挙げ句―――私の中に、或る決意が生じ始めていた。
それはつまり、こういう事である。
『ならば私が、この、写真の中の少女の為に、新しい身体を造ってやればよいのだ。その為に日々を使えば―――その後の人生の総てを使えば、私も、そしてこの人形も本望であろう』と。
「是非とも私に譲ってください」
こうして私は、この写真―――球体間接人形の少女の写真を、手に入れるに至ったのである。
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