第七章 回帰

 その朝も、私はいつも通り七時ちょうどに目覚まし時計の音で目を覚ました。

 とにかくこの世界では、自分達で作らない限り「一日」という単位が存在しない。朝の目覚めはその単位を維持する上で重要だった。

 ちょっとでも妥協してしまうとそれが一気に崩れてしまいそうなのが不安で、私はむしろ普段学校に行くときよりもきっちり起きるようになっていた。「あと五分だけ寝かせて」なんてことをしていた頃がすでに懐かしい。

 まあ、これだけきっちり起きられるのは、毎日することがろくになくて、体力を持て余しているせいもあったかもしれない。


 そのノックの音がしたのは、目を覚ましてからちょうど五分後のことだった。

「お嬢様」とほこらの声がした。若干慌てているような響きがある。

「どうぞ」

「失礼します」

 祠が入ってくる。私はちょうど着替えをしている最中だった。

「一人で着られるから、大丈夫だよー」と私はおどけてみせる。

「報告することがあります。お急ぎにならなくていいので、そのままでお聞き下さい」

「え、なに」と私は思わず手を止めた。「それってもしかして深刻なこと?」

「まあ……はい」

「まあ?」


 ちょっとニュアンスを掴みかねるところがあった。

 どうやら何か深刻なことが起きたことは起きたらしい。しかしそれにしては呑気というか、危険な匂いのまるでしない言い方だ。お急ぎになる必要もないという。それなら遠慮なくゆっくり着替えさせてもらうが。

「何があったの?」

「厨房と、あと倉庫なんですが――」と祠は言い、そこでいったん言葉を止めた。そのまま言って通じるものか迷っているような、そんな間だった。「戻ってるんです」

「戻ってる?」

「はい」

「どういう意味で?」

「ちょっと――信じられないことなので、実際に目で見たほうが早いと思います。とにかく、お急ぎにならなくても大丈夫ですので、着替えを終えられたら一緒にいらして下さい」

「……はあ」

 私は曖昧な返事をして、着替えを続けた。間もなくして、祠の態度の意味をよくよく理解することになる。


 ◆


 祠に連れられて倉庫に入ると、中には銀見ぎんみさんと春沙はるささん、それに雨傘あまがさがいた。三人が三人とも、信じられないものを見るような目で備蓄品の積まれた棚を見つめていた。

「なに、どうしたの?」と私は訊ねる。

「ご覧下さい」と祠は食料品の並んだ棚を指差す。

 棚には以前見たのと同じように、びっしりと様々な物が並んでいた。一週間目の夜に最初に手をつけた缶詰のカレー、ツナや鯖やロブスター、パンの類。それらは賞味期限に従ってきちんと整列され、棚を埋め尽くしている――。

 ――あれ?

 埋め尽くしている?


「ねえこれ」と私は四人の顔を見回した。「もしかして――」

「はい」と代表して祠が言う。「使った分が、すべて元に戻ってるんです」

「非常食だけではありません」と銀見さんが言った。「他に使用した消耗品もすべて、最初の――この世界へやって来たときの状態に戻っているのです」

「全部?」

「はい、先程確認を終えました。あらゆるものがすべて元通りになっています」

 そんなことが――起こり得るのか?


「倉庫だけじゃないんです」と春沙さんが言った。混乱しているようでいて、何故か少し嬉しそうでもある。「厨房もすべて元に戻っているんです。冷蔵庫の中まで全部」

「厨房もですか」

「そうです。今日からまた料理を作れるんです。意味不明ですが、私にとっては天の恵みのようなものです。あ、そうそう、以前お渡しした包丁、真都衣お嬢様はまだ持っておられましたよね?」

「え? ああ、そういえば――まだ部屋に置いてあるわ」

「それも、戻ってるんです」

「え?」

「お嬢様のお部屋にある包丁は、いまもまだありますか?」

「ええと――」

 私は頭をひねる。あれは確か机の上に無造作に置いて、そのままになっていて……今朝も確か、同じように捨て置かれていたはずだ。

「あったと思う」

「それも厨房にあるんです」

「それって」

「はい、包丁が増殖しました」


 増殖。包丁が増殖。

「ちょっと待って、寝起きのせいか頭が追いつかない」私は両目を閉じてそれを指で押す。「もう一度確認するね。厨房と、倉庫が、この世界に来た初日の状態になってるってこと?」

「その通りです」と祠は言った。

「他の部屋は?」

「これまで確認した限りでは、変化は見られないようです」

「あ、ただ」と春沙さんが思い出したように言う。「私、以前包丁が一本足りないみたいだって言ったじゃないですか。あれは戻ってる様子がないんですよねえ」


「ですからそれは、あなたの勘違いではないのですか?」

 背後から声がした。振り返ると、糸氏いとうじさんが冠奈かんなを連れてこちらへ歩いてくるところだった。

「話は聞きました」と冠奈は言った。「明らかに異常な現象ですが、私達にとって悪い方向のものではない、と解釈していいのかしら」

「少なくとも、また一週間はまともな料理をお出しすることができます」春沙さんは顔を輝かせる。

「世界がこうなってから今日が何日目か、誰かわかりますか?」

「十五日目です」と銀見さんが言った。気温の件もそうだが、銀見さんはいろいろな数字を几帳面に把握する性格である。

「つまり、十四日間――」

「もしかして、姉さんが考えてるのはこういうこと?」と私は言った。「さらに十四日後には、また同じように物が元通りになるかもしれない」

「……ええ」

「そうなったら助かるね。食べ物の他にもトイレットペーパーとか、備蓄がなくなったらどうしようって心配だったから。戻ってくれるならその心配も当分はしなくて済むよ」


 もちろん限界はある。倉庫に備蓄されていない生活用品もいろいろあって、それらは消耗しきれば無くなってしまう。

 しかし当初は一ヶ月ほどで食料が尽きると試算されていたのだ。それに比べると、私達に与えられた猶予は飛躍的に伸びることになる。

 そんなに長いあいだこんな状態でいたくないという感情は置いておくとしてだ。


「それにしても、まるで夢を見ているみたい」と冠奈は言った。「ある意味では、周りの世界のことより奇妙な出来事かもしれないわ」

「具体的にいつ元通りになったのか、疑問に思うところです」糸氏さんが淡々と言う。「昨日、最後にここに入ったのは恐らく私だと思います。夜の十時くらいのことでした。春沙さんは厨房にいつ頃までいましたか?」

「ええと、夕食の片付けをして、今朝の食事にするものをここから持ち運んだあとは入っていません。何しろ包丁を研ぐ必要もない日々でしたので」

「そして今朝の六時半頃でしたか、私が再びここへ来たときには、すでにこのようになっていました。ですから素直に考えれば、夜の十時から朝の六時半までのあいだにこれが起きたことになります」


「一瞬でパッと戻るのか、何かこう逆再生みたいに戻っていくのか、興味あるね」

「たとえば十四日後の夜から朝にかけてずっとこの場に居合わせていれば、その瞬間を見ることができるのでしょうか?」

 糸氏さんは誰にともなく問いかける。私達はしばし沈黙する。

「……何となくこう思う、ってだけで意見を言っていい?」と私は言った。

「構わないわ、何でも言って」冠奈が促す。

「まったく根拠はないんだけど、ずっと見てたら何も起こらない気がする。仮に十四日周期で元に戻るとして、そこからまた十四日待たなくちゃならなくなるんじゃないかって」

「あの……べつの可能性、いいですか?」祠がそっと手を挙げる。

「どうぞ」

「部屋が丸ごと元通りになるということは、無くなった物が復活するだけでなく、部屋の中に新たに加わった余計な物が消え去るということでもあるかもしれません。そうすると最悪の場合、部屋を監視していた人は、元通りになるときに消えて無くなってしまうことに――」


 背中がぞくりとする。あくまで一つの可能性に過ぎないが、この状況になって初めて「あちら側の悪意」のようなものを具体的に感じた。雨傘が不安そうにあたりをきょろきょろと見渡し始める。


「それを聞いちゃったら、もう試せないねえ」と私は言った。

「確かに。でも、誰かが消えてからそれを悟るよりはずっとましね。居合わせようとするのは控えておいたほうがよさそう」

「黙ってお恵みを受けましょう、ということで」

「――仮説」と糸氏さんが言い、祠を見た。「これで少しは絞れてくるのではないかしら」

「……そうですね」祠は頷く。そして言葉を選ぶようにゆっくりと続ける。「少なくとも、ただどこかに飛ばされたのではないことになります。俄然有力になったのは、仮想世界とか、意識の中とか――そういう系統でしょうか。ひっくるめて言えば、何者かの意思が反映される作り物の世界、です」

「作り物か……」と冠奈が呟く。


 皆の頭にいま何がよぎっているのかは何となく想像がつく。初日の夜の、あのやりとりだ。

 特にあの子のくだり。

 皆おいそれとそれを口にすべきではないと思っているようだが、考えてしまうことを止めることはできないし、それは仕方ないところだろう。

 でも、私には違和感がある。


「……この世界の主――がいたとして、何がしたいんだろうね」

「目的があるのかしら」

「あるんじゃないかなあ。これがしたいのか、何かの副産物がこれなのかはわからないけど。ただ思うのは、私達を寿命まで閉じ込めておくつもりはないんだろうなって」

「それは何故?」

「食べ物とか戻しただけじゃ、限度があるもん。すごく一時凌ぎっていう感じがする。まるで何かが終わるまでのあいだ私達を待たせているみたい」


 冠奈がまた何かを考え込む。しかしもちろん答は出ないだろう。

 世界の主――そのような存在がいるなら、それはほとんど神様みたいなものだ。神様の考えなんて理解できるかどうかわからないし、仮に理解できるとしても、いまの私達には判断材料が足りない、というよりまったく無い。

 世界の主のしたいこと――と冠奈が独り言のように言う。

 私達はそれに対して、何か特別なことをする必要があるのだろうか。それとも何もせずにただ時計の針が何千周も何万周もするのを見守っていればいいのだろうか。


 ◆


 昼の三時頃、私がジュースを飲みに厨房へやって来ると、そこには春沙さんの他に、羽子うずと雨傘の姿があった。

 羽子が食事をしていて、雨傘が傍らに立ってそれを見守っているという構図。夕食以外では久しく見なかった光景に、私は少なからず驚いた。


「遅めのお昼?」と私は訊ねる。

 羽子はサンドイッチをもぐもぐとやりながら私のほうを見て、一つ頷く。

「珍しいね、こんなところで食べてるなんて。……あ、いや、こんなところっていうのは変な意味じゃないですよ」

 私は春沙さんに釈明する。春沙さんは笑って、わかってます――と言った。

「羽子お嬢様が昼食を摂るのにお部屋から出てくるのは、本当に久しぶりのことです。それで真都衣お嬢様は何のご用ですか?」

「オレンジジュース」

「承知しました」

 春沙さんは言い、冷蔵庫を開ける。その中に再びたっぷりの食材が並んだのが本当に嬉しそうだ。


「ここと倉庫の件、うずまきに説明した?」と私は雨傘に訊ねる。

「はい、させて戴きました」

「まあそういうわけなのよ」と言い、私は羽子の隣に腰掛けた。

「……気持ち悪いといえば気持ち悪い」

「それは言える。でも確実に助かった」

「どうせ助けてくれるなら、元の世界に戻してくれればいい」

「うん、それはまあそうだ」私は笑い、羽子の横顔を眺めながら頬杖をつく。「いずれにせよ十四日後の夜中は、たとえ起きててお腹が空いててもここに来ちゃ駄目だよ。祠曰く、消えて無くなっちゃうかもしれない」

「――いっそスッキリするかもね」羽子は言い、牛乳を一口飲む。

「そういうこと言わない」私は羽子の頬を指でつついた。「いいからそれいっぱい飲んで身長も胸も大きくなりなさい」


「二週間経って特別牛乳が使えるなんて、本当に奇跡です。あ、どうぞ」

 春沙さんが戻ってきて、私の前にオレンジジュースの入ったグラスを置く。

「ありがとうございます。倉庫にあった牛乳は長持ちするタイプなんですよね」

「ロングライフ牛乳というやつです。二ヶ月くらい保ちます。低品質ではないんですが、いま羽子お嬢様がお飲みになっているこれとは比較になりません」

「生ゴミ」と羽子は唐突に言った。「腐ってる?」


「え?」その唐突さに、春沙さんは三秒くらい固まる。それから気を取り直して答える。「生ゴミは毎日出ていますが、厳重に封をして外に出してあります。腐敗は……ちょっとお待ち下さい」

 春沙さんはつかつかと奥まで歩いていき、裏口の扉を開けて外に出る。しばらくして、いかにも嫌なものを見たという顔で戻ってきた。

「お食事中に失礼します。しっかり腐ってました」

「じゃあ、腐敗細菌とか微生物とかがいるってことになる。他の生き物はいないのに」と羽子は言った。「少なくとも、そういうイメージでこの世界は成り立ってる」

「……うずまき。あんた目の付け所がいいね」

「あと」と羽子は続ける。「生ゴミ、溜まっていくのが気になるなら試しに十四日目にこの部屋に移してみればいい。消えてくれるかもしれない」

「――ああ、なるほど!」春沙さんが両手をぱん、と合わせる。「それができたら便利ですね」

「世界の主に回収して貰うってわけね」と私は言った。「ちょっとした仕返しみたいで面白いかも」

「お嬢様……」雨傘が小さく漏らす。ちょっと感動している様子だった。


「いやあ、いまは何だか変なことになってますけど」と春沙さんが言う。「私はこのお屋敷に来てほんと良かったと思ってますよ。旦那様も奥様もお嬢様方も、他の使用人の方々も皆良い人ばかりで、腕の振るい甲斐があります」

「春沙さん、すっかり元気になりましたね」私は苦笑する。「非常食出してるときはすごく落ち込んでたのに」

「料理人は料理を作ってなんぼですから」

「わかりますけど、こんな状況になっても、料理を作れるか作れないかが春沙さんにとっての優先順位の一番目に見えるのが、何だかすごいなあって」

 春沙さんは合わせた両手を口の前に持っていき、んー、と何か考えるように声を出す。それから両手をぱっと開いて、厨房全体を指した。

「このお屋敷に来る前の私はくすぶってましたから。私はこのお屋敷と運命を共にする女なんです。とりあえず当分のあいだは」


「あの……勢いで立ち入ったこと訊いちゃうんですけど」と私は恐る恐る言った。「くすぶっていたというのはやっぱりその、女性が料理人になるというあたりの事情ですか?」

「その通りです」春沙さんは特に抵抗もなく答える。「まあ、料理の世界というのは男社会ですから。基本的に引かれてましたよ、前の職場では」

「上下関係とか、厳しい世界だって聞きますけど」

「まあ確かに。でも普通に上下関係が厳しいならいいんですよ、そういうものだと覚悟して飛び込むわけですから。ただ私の場合……私よりあとに入った男の子達のほうが特に理由もなく優遇されちゃったり。感じの悪い言い方ですけど、その子らべつにそんな腕前じゃなかったんですよ。自慢じゃないですけど――いや割と自慢ですけど、私、包丁さばきも味つけも火加減も、人より五割増しくらいで上達してたんですから。それを認めてくれる先輩も、いたことはいたんです」

「でも大多数はそういう人じゃなかった……?」

「ですねえ。そこそこいろんな目に遭いましたよ。私だけ妙に雑用をたくさん押しつけられたり、明らかに間違ってない味つけを話にならないとか言って皆の前で全否定されたり。セクハラっぽいのもありましたねえ。女体盛りの皿役だったらいつでも空いてるぞ、とか」

「にょたいもり?」

「裸の女の体に刺身とか盛りつけること」羽子が即座に説明する。

「うずまき、なんでそんなこと知ってるの」

「一般知識の範囲だと思う。最近は海外でも一部で通じる」

 そうなのか。しかし年下に教わる内容でもない気がして、何だか恥ずかしくなってくる。


「で、そういうのは結局、仕事で見返すしかないわけで、割と無茶してましたよ。休暇も取らずに練習したり、新作料理なんかあれこれ考えちゃったりして」

「すごい。かっこいいですね」

「どうだったんでしょうねえ。修行始めて数年の人間が新作料理で認めて貰おうというのは、いまにして思えば自己アピールの方向がずれていたように思います。あのときは必死で、なりふり構っていられなかったんですが」


 少し春沙さんに対する印象が変わりそうだ。

 料理の世界が厳しいのはわかっていたことなのだから、当然春沙さんにも厳しい過去があることは想像すべきだったのだろう。

 でも本人のちょっととぼけた人柄のためか、いままでそういうことには考えが至らなかったのだ。


「で、まあいろいろありまして」と春沙さんは言い、調理場を両手で示す。「こちらで腕を奮わせて戴くことになった次第です」

「いろいろ、ですか」

「はい、いろいろありました」春沙さんは照れ笑いのようなものを浮かべた。「ちょっとその辺りはプライベートということでお願いしたいところです。ともあれ旦那様に認めて戴いたのは私にとっては大きな喜びでした。しかも旦那様は、このお屋敷を離れてキャリアを積みたくなったらどこでも紹介してやるとまで言ってくださったのです。この世にあんな仏様のような方がいらっしゃるとは、私はそれまで思ってもみませんでした」

 仏様か。娘としては少々イメージが違うのだが、そういうのは立場によりけりなのだろう。とりあえず、春沙さんの忠誠心のようなものは十二分に伝わってきた。


「私が何をしたわけでもないんですが」と私は言った。「この家を好きでいてくれる人に料理を作ってもらうのはとても嬉しいです。ねえうずまき?」

「……ごちそうさま」

 羽子はそう言って、空になった皿とカップをすっと春沙さんの前に押し出した。

 羽子のごちそうさまを聞いたのは、いったいどれくらいぶりのことだろう。この子なりに、いまの話に感じ入るものがあったようにも見える。

 お粗末さまでした――と言って、春沙さんが微笑む。


 羽子はいつものように音を立てずに椅子を引いて立ち上がった。

「部屋に戻るの?」

「外に出てみる」と羽子は言った。「そういえば一度も出てみたことがなかった」

「あ、じゃあ私も付き合うよ」

 私はオレンジジュースの残りを一気に飲み干すと、羽子の出したカップの横に置いて立ち上がる。

「――夕食、楽しみにしてます」

「食材の種類に限度はありますが」と春沙さんは言い、ガッツポーズを作る。「頑張りますよー。春沙めぐみの真骨頂をお見せします」


 ◆


 玄関のドアを開けて外に出ると、門のところに先客がいるのが見えた。冠奈だ。

「姉さん」

 私は歩きながら冠奈を呼んだ。冠奈が振り返り、一人ずつ確認するように私達の顔を順繰りに見る。

「――最近、あなた達は仲が良いわね」

「ん、仲が良いっていうか、いろんなこと話したりしてる。気づいてたんだ」

「気づくわよ。家としては広いかもしれないけど、しょせん一つ屋根の下の集団生活だもの」

「まあ、そうか」

「良いことね」と冠奈は言い、近づいてきた羽子の顔を覗き込むように見た。「羽子が外に出るのは珍しいわね」

「ここに来て初めて」と羽子は言った。

「そう。――ほら、こんな感じよ。窓から見たまんま、これがどこまでも続いてる」


 羽子は門の外に出て、わかりきった答を改めて網膜に刻み込むように周囲をきょろきょろと見渡す。

 果てがあるのかすらわからない地平線の向こうを眺め、足下に広がる剥き出しの赤茶けた地面を眺め、一色ですべてを描けてしまう空を眺め、自分の名字を思い出すように表札を眺める。

 それからもう一度上空に顔を向ける。


「……雨、まったく降らない」

「そうね。いまのところそれで困ることはないけど、変化がないのは不気味だわ」

「雨が降ったら、弥々と散歩するのに」

 羽子は雨の日が好きなようで、引きこもるようになってからも、雨が降るとたまに雨傘を連れて近くへ散歩に出ていた。

 真冬でも薄着だったが、それで風邪を引いたという話は聞いたことがない。

 裸足で外を歩き回ってきたのが発覚したときはさすがにお母様のお叱りの声が飛んだが、それを一身に受けたのはもちろん羽子ではなく雨傘のほうである。


 冠奈は雨傘を見る。雨傘はどう反応したらいいものかわからない様子で、ただ畏まる。

「――冠奈姉さん」と地平の彼方を見たままふいに羽子が言った。

 冠奈は羽子に向き直る。「なにかしら?」

「私は確かに引きこもってる。世界から逃げてる。それは事実だから、あれこれ想像されても仕方ないと思う」

「羽子」少し困ったように冠奈は眉をしかめる。「あのときのことは気にしないで。皆もうあなたのことを疑ったりはしていないから――」

「そういうのは要らない」羽子はきっぱりと言う。「気に入らないことだけど、もうそんなにムカツいてない。というか、あのときも言ったけど、当然の発想だから余計ムカツいてたの。だからフォローは要らない」


 冠奈はどう返答すべきか考えあぐねているようで、黙っている。

 私はあいだに入って何かを言うべきか少し考えたが、何も言わないことにした。

 珍しく羽子が自分の意思で冠奈にものを伝えようとしている。それを静かに見守るべきところなのだろうと思った。


「実際、可能性はゼロじゃない。いまのこの私は何も自覚がないけど、私の中の世界じゃないっていう証拠は何も出せない」

「……それは誰にも出せないわ」

「うん、でも」と羽子は言う。どんな顔をしているのかはわからない。「私がいちばんそれをしなきゃいけないんだと思う。そういう流れ」


 しばし沈黙の時間が続く。物音のしない世界だから、それは本当に純粋な沈黙だ。

「……それでね」と羽子がその沈黙を破る。「証拠なんて出せないけど――でも言っておきたいことがある」

「何かしら」

「私は」

 羽子はこちらを振り返った。

 ……その表情をどのように言い表せばいいだろう。少し寂しげで、でもどこかほっこりするような――相反する幾つもの感情を少しずつ取り出して混ぜたみたいな、とても掴み所のない表情だった。


「外の世界から離れて暮らしてる。他の人間と接するのはとても苦痛。でもそれは、外の世界がなくなってしまえば解決することじゃない。私は毎日、外の世界の人達が作り上げたものに触れて暮らしてる。私はそれなしには生きられない。私はこの体で直接外の世界との繋がりを持つことからは逃げたけど――でもべつの形で繋がってきたし、繋がっていたいの」

 私達は何も言わない。羽子の言葉に続きがあることがわかる。それを待っている。

「――私は」と羽子は言い、自らの胸を押さえる。「何かに暴力を振るいたくなったことはないし――学校や世の中がなくなってしまえと思ったこともない。深層心理みたいなことは何とも言えない。でも――この私は、こんな世界を望んだりはしていないの」


 言い終わるか終わらないかというところで、冠奈が羽子に歩み寄っていく。そして静かに羽子の背中に腕を回し、彼女を抱きしめる。

「うん……うん」と冠奈は言った。「ごめんなさい――ごめんね。あなたはとても優しい子だものね」


 私の違和感の正体。それは、羽子の世界にしてはいまさら過ぎる、ということだ。

 彼女が引きこもるようになってから一年が経っている。そして世界がこうなる直前まで、彼女はむしろほんの少しずつ他者に歩み寄る方向に変わっていこうとしていた。

 そんな折にこのような世界を生み出して私達とこのような生活を望むだろうか。あれだけ好きこのんで繋がっていたネットを捨ててまで。


 私は漠然と考える。もしこの世界が誰かによって作られた世界なら――それは羽子のように日常的に世界と距離を置いた結果ではなく、もっと突発的な何かの結果なのではないだろうか。

 そしてそうなってくると、もはや全員の立場は等しくなる。普段の生き方はまるで関係がなくなってくるからだ。


 羽子は黙って抱きしめられている。冠奈の肩越しに見えるその目は、心なしかいつもより安らかに見える。

 一方私の横では、雨傘が涙ぐんでいる。何だか私だけがドライな女であるような光景だが、言うまでもなく私も結構感じ入っている。姉妹愛は強いほうだ。


「私はあなたとどう接していいかわからなくて、あなたから逃げていた」と冠奈は言った。「それで余計あなたのことがわからなくなって、いっそう接することが難しくなって。だから変なことを考えてしまったんだわ。真都衣まといはそれにいち早く気づいたのね」

「……まあ、そうね」私は答える。少し照れる。

「これからはいろいろお話しましょう。それでより近くなれれば、もう実の妹を怖がるなんて馬鹿な真似はしなくて済むわ」

「……うん」と小さく羽子は言った。


 荒涼とした風景の中に、束の間、温かいものが流れる。私達姉妹はもしかしたらまた昔のように戻れるのかもしれない。それはとても嬉しいことだ。

 しかし――私達は考えなければいけない。

 羽子の世界ではないのなら、ではこの世界はいったい何なのか。この世界の主は何がしたいのか。私達はどうすればこの世界から抜け出せるのか――いや、そもそも抜け出せるものなのか否か。

 真相は相変わらず闇の奥深くに潜んでいる。

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