第六章 対話

 二日目、三日目、四日目――と過ぎていったが、何か特別なことが起きる気配はなく、時間の流れはいつまでも緩慢なままだった。

 もし我々を観察している者がいるなら、早いうちに何かしらの刺激を投下するのではないかと当初は思われたが、どうやらまだその準備ができていないか、あるいは観察したいのは私達がじわじわと削られていく様であるか、どちらかのようであった。

 これでは仮説も一向に絞られてこない。


 不安であると同時に、抗いがたい倦怠感もあった。

 だらだらと過ごしただけで終わった休日を「何も無かった日」と表現することがあるが、現在の「何も無さ」はその比ではない。

 普段はよく朝と夕方にカラスの鳴き声を聞くのだが、いまは他に何の生き物の音も気配もない。ほんの数日前、彼らが仲間内でカアカアと大声で何か言い合っているのを聞いて、うるさいなあと少し腹を立てたのが、何だか勿体なく思えてくる。謝るからここで鳴いてみてくれないだろうか、などと考えてしまう。


 朝も昼も夜も、空模様にまったく変化がない。一時停止させた映像のように、いつ見ても寸分違わない灰色だ。

 二日目から銀見ぎんみさんが外気温を測っているのだが、ずっと変わらず、摂氏二十四度を保っている。

 明るい日中と暗い夜の落差はどこかへ消えてしまった。いまの私達は時計を見なければ一日という時間のくくりを認識することができない。

 朝と思しき時間に起きて、夜と思しき時間まで活動し、眠る。時計を見ながら一日の生活を人為的に組み立てるという感覚が、以前よりずっと強くなった。


 さながら、ゆるい牢獄である。


 不幸中の幸いと言えるのは、お話によく出てくるようなパニックを起こす人物が一人も出てこないことだった。

 ほこら曰く、この種の出来事が起こる物語では、展開を面白くするために大抵誰か一人はまともに理性を保つことができなくなり、滅茶苦茶な行動に走って事態を悪化させてしまうらしい。

 そういうことが無かったのは有り難いことだ。あるいは、実際には人間というのはそう簡単に狂ってしまったりはしないものなのかもしれない。


 ◆


 ただ、いつまでも完全に同じように過ごすことができるわけでもなかった。

 春沙はるささんが以前に予測した通り、一週間が経ったところで、(ほぼ)普段通りの食事をするための食材が尽きた。

 ここからは倉庫に収められた非常用の食料に手をつけていかなければならない。このことは私達により深いリアリティをもたらした。私達がいまやっていることは、基本的にサバイバルなのだということを改めて脳裏に刻まなくてはならなかった。


「失敗しました」と最初に非常食――某ホテルが出しているちょっと高級な缶詰のレトルトカレー――がテーブルに並んだ夜に春沙さんは言った。「非常食が非常食過ぎました」

「どういうことですか?」と冠奈かんなが訊ねる。

「食材は入手できないけど調理だけはできる、という状況を想定していなかったんです。主に想定していたのは、火も水も使えず非常食をそのまま食べるしかないという事態でした。だからそういうものが多数を占めるんです。もしいまのような事態があるとわかっていたら、もっとこう長持ちする食材をたくさん買い込んで腕を奮わせて戴いたんですが……」

「なるほどね」

「料理人としてちょっと、いやかなり不覚です。そのせいで皆さんに、こともあろうにレトルトカレーを食べて戴く羽目に陥りました。お米のほうはいつもの通りですし、品質は悪くないんですが――レトルトはあくまでレトルトなので」


「結構いけますよ、これ」と私は励ますように言う。「さすが春沙さん。非常食でもちゃんと良い物に目を付けてるんですね」

「カレーは体に良いんですよ。腸からセロトニンが出やすくなると言われています。精神衛生的な意味でもカレーを食べるのはまあ間違っていません。いませんが――失敗しました。ただ缶詰の中身を温めているだけの料理人なんて、料理人じゃありません」

「気を落とさないで下さい。こんな変な事情、誰も予測できませんでしたよ」

 お気遣いありがとうございます――と言って、春沙さんはカレーを一口食べる。きっと彼女の舌にはまったく響くものがないのだろう。後悔の苦い味しかしないという顔をしていた。


 ◆


 後悔はしたくないものだ。もししてしまったのであれば、できるだけ早く、失ったものを少しでも取り戻したい。

 そのようなわけで事件発生二日目以降、私は自ら決めた課題に、自分なりに試行錯誤をしながら取り組んでいた。

 もちろん、羽子うずのことである。

 普段とは違う接点をできるだけ多く、しかし同時にできるだけ不自然には見えないように持とうと、あれこれ奔走していたのだ。


 テーマは、正直に、軽く、粘り強く。

 盾となって「犯人捜し」の空気を散らしてあげたいという少々堅い志もあるにはあったが、それよりももっと単純に、妹と昔のように打ち解けることができたらいいなと、そう思ったのだった。


 善は急げ。私は二日目の午前中から行動を開始した。

 羽子が図書室で本を読んでいるのを確認してから(読書中に話しかけに行くのは単純にマナー違反というものである)、私は彼女の部屋の前で、祠から借りた小説を読みながら彼女が戻るのを待ち続けた。

 何しろ羽子は物音というものを立てないから、自分の部屋で待っていたのでは彼女が通り過ぎるのも、部屋のドアを開けるのもまったく察知することができない。

 そしていったん部屋に入ってしまったら、彼女は雨傘あまがさのノックにしか反応しようとしない。

 ドアの鍵は最近かけていないようだが、勝手に入ったら信頼関係がどんなことになるか、考えるまでもないだろう。

 だから普段と違う接点を羽子と持ちたかったら、芸能人の入待ちをするように部屋の前で彼女を待ち、正面から気持ちをぶつけるしかないと考えたのだ。


 小説を半分ほど読み進めたところで、廊下の向こうから羽子が姿を現した。

 といっても、例によって足音がまったくしなかったから、私は視界の端に彼女のスカートの裾が入るまで彼女が近づいてきたことに気づかなかった。


「――おっと!」

 羽子の存在を察知したとき、私は驚いて少し間抜けな声を出してしまった。

 羽子はそんなことはべつにどうでもいいという風に、無感情に私を一瞥してから自室のドアに視線を移した。何も見なかったかのように部屋に戻ろうとしている。

「おはよう、うずまき」と私はできる限り普通を心がけて言った。

 もちろん羽子からおはようの挨拶は返ってこない。それは初めから期待していない。

 期待したのは、羽子が昨晩のやり取りで損ねた機嫌をある程度直していて、何らかの反応をくれることだった。機嫌が悪ければ、そのまま部屋に入って、あとは無反応を貫くだろう。


「――なに?」

 羽子はドアノブに手をかけ、私に後ろ姿を見せたまま言った。

 よかった、最低限の回復はしている。

 私は雨傘に感謝した。きっと彼女は昨晩、長いあいだ羽子の側にいて、あらゆる誠意を尽くして包み込んでくれたに違いない。


「ちょっとね――」私は頭の中でテーマを復唱する。正直に、軽く、粘り強く。「たまにはゆっくりお喋りしたいなって。駄目かな?」


 羽子はそのままの姿勢で止まっている。こちらの意図をあれこれ想像しているのだろう。

「――フォローなら、べつにいいよ」

「そういうわけじゃないんだよ」と私は顔の前で手を振る。もちろん向こうを向いている羽子には見えないが、空気は伝わるはずだ。「いや、正直きっかけではあるんだけど、でもそういうことがしたいんじゃなくて。純粋にあんたと話したいの」

「何を?」

「んー……いろんなこと」


 しばらく沈黙が続いた。

 私の申し出と羽子の中にある何かが天秤にかけられ、じっくり量られている。

 そこに時間がかかるだけでも話しかけた甲斐はあったなと私は思った。羽子にその気がまったく無いのであれば、天秤は瞬く間に私の申し出をぽんと上に持ち上げ、そのまま勢いで私に投げ返してしまっていたはずだ。


 やがて羽子はずっと握ったままだったノブを回してゆっくりとドアを引き、体を横にずらして通り道を作った。

 そして私の顔をちらりと横目で見て、短く「ん」と言った。世界一短く貴重な承諾だ。

「おお、サンキュー。じゃあ、お邪魔するね」

 私は思わず顔を綻ばせ、ドアを押さえたままの羽子の横を通り抜けて廊下と部屋の境界線をまたぐ。

 最後にここへ入ってから、一年以上は確実に経っている。ちょっとした高揚感みたいなものが湧いてくる。


 ――久しぶりの羽子の部屋は、若干薄れかけた最後の記憶と特に大きな違いがあるわけでもなく、相変わらず羽子の部屋であった。

 本棚は広く、色とりどりの背表紙の本が並び、引き替えに小物は圧倒的に少ない。机の脇にデスクトップパソコンが、テーブルの上にはノートパソコンが置いてある。その脇には何冊かの本。まあ、女子の部屋としては殺風景な部類に属するだろう。もちろん羽子の希望通りの部屋模様である。


 ぱたんとドアの閉まる音が聞こえ、羽子が風を切るようにして私の真横を通り過ぎ、そのままソファに体を沈めた。沈めたといっても羽子の軽い体はそんなに沈んでいかない。

「相変わらず脚、綺麗だねえ」と私は言った。「細いし、先っぽまで真っ白だし。私なんか最近ちょっと鍛えられ過ぎちゃって、困ってるよ。まだ靴下焼けが消えてないし――ほら見てこれ」

 私が靴下をめくってみせると、羽子は何かのついでのようにそれを見た。

「――好きでやってるんでしょ。部活」

「それはもちろんそうだけど。まあ好きだからといって、その副産物まで何もかも全部好きになれるわけじゃないってことだね。足が速くなるのは嬉しいけど、脚が太くなるのもツートンカラーになるのも勘弁」


 そう言って私は苦笑する。

 私は小学生の頃から運動部一辺倒だ。記録を伸ばすことにそれほど執念を傾けているわけではないが、単純に体を動かすことが好きだし、友達とも体を動かしながらのほうがより打ち解けられるように感じている。

 羽子も小さな頃はそんな私に引っ張られるように庭や屋敷の中を駆け回っていたものだが、小学校に上がるとすっかり「静の人」になってしまった。

 四年生から入部必須だった部活は読書部。中学では任意だったそうなので、帰宅部。そして半年後には帰宅しっぱなしの人になってしまった次第である。


「久しぶりに入ったなあ、この部屋」私は言いながら歩き回る。「雨傘もちゃんと仕事してるみたいだし、安心しました」

弥々ややはちゃんとしてる」と羽子は即座に返してきた。「皆たぶんよくわかってない」

「私はわかってるよ。あの人、ちょっと頼りなさそうだけど、本当に頼りにならないわけじゃないからね。真面目だし、できる仕事は絶対に手を抜かない――まあうちで働いている人達は全員そうだけど」

「冠奈姉さんはわかってない」食い下がるように羽子は言う。「無能で間抜けだと思ってる」

「うーん……どうだろう。あれは仕事を認めてないってより、単純に嫌ってるという感じなんじゃないかなあ。私も理由はよくわからないんだけど」

「――ムカツク」

「うずまきは姉さんのこと、嫌い?」

「……弥々を嫌いなところは嫌い」

「そっかー」


 もちろんここで、羽子にお説教をすることはできる。

 雨傘が嫌われているのは、あんたが雨傘にばかり頼りきりで、家族と距離を置くようになったからかもしれない。だから雨傘が嫌われるのが嫌なら、まずあんたができることとして、家族ともっと積極的に関わっていくべきなんじゃないか。その努力もしないで不満だけ言うのは筋が通っていないんじゃないか――みたいなことだ。

 でも少なくとも私にはそれは言えない。羽子を取り巻く事情はそんなに単純にはできていない。羽子は賢い子だ。それができるならとっくの昔にやっているのだ。


「隣、座っていい?」と私は訊ねた。

「……好きなところに座っていい」

 ありがたい許可をもらい、私は羽子の隣に腰掛ける。

 先に言っておくが、私は太ってはいない。標準体型ぴったりか、それより少し軽いくらいだと思う。

 しかし隣の羽子と比べると、どうも私のほうがソファの奥深くまで沈み込んでいる……ような気がする。いや、恐らく気のせいだろう。


「ネットできなくて、つらいね」と私は自分をごまかすように話を振った。「皆使ってるものだけどさ、うずまきは特につらそうだ」

「べつに中毒じゃないから、頭おかしくはならない。でもすごく困る」

「だろうねえ。雨傘が言ってたよ。羽子はいろんなことをネットで調べて知ってるって。最新のニュースなんか、自分よりずっと詳しいし、そこで専門的なことに出会ったら専門的な本で勉強しようとするから、どんどん知識が増えていくって。……尊敬してるみたいだったよ」

「――弥々はあまりネットもしないし本も読まない」と羽子は言い、背もたれによりかかって天井を見上げる。

「そりゃあ、うずまきと比べちゃうとね」

「世の中の平均読書量とネット接続時間は調べたことがある。弥々はどっちもそれより少なかった」

「そうなんだ」

「弥々は自分を過小評価してる。自分は馬鹿だから、そういうことしてもしょうがないって思ってる。――だから余計現実がそっちに近づいてく」

「でもちゃんとしてるんでしょ?」

「ちゃんとしてる」と迷いなく羽子は言う。「仕事は。でも私なんか尊敬してる暇があったら、何でもいいから勉強してみればいい。弥々もいつ――」


 そこで羽子の言葉が止まる。私は黙って続きを待っていたが、その口はなかなか開かれない。

 どうやらキャンセルされたようだという結論に至ったのは、しばらくして羽子が一つ大きく息をつき、ソファの上であぐらをかいたときだ。


「……自分がどれだけ恵まれてるかは知ってる」

「うん? うーん……そうだねえ」

「普通の人は私と同じことをしたら、同じようには暮らせない」

「まあ、それは確かだ」と私は認める。認めざるを得ない。「何の因果か知らないけど、とりあえず私達は恵まれてるよ。否応なしに恵まれてる。ありがたいことに」

「お金のない家の中でこんな贅沢に暮らせないし、お金があっても親の思想が変だったら座敷牢みたいなところに入れられていたかもしれない」

「座敷牢――現代でもあるのかなあ」

「いろんな家がある」


 ふーむ――と私は曖昧な返事をし、乏しい知識で座敷牢を想像してみる。六畳間くらいの部屋の入り口は柵で閉じられ、窓にもしっかり鉄格子が付いている。地下牢だったりしたらその窓すらない。中に閉じ込められた人は一生そこから出ることなく過ごすのだ。世間体を保つために、その家には最初から存在していなかったことにされて。


「恵まれてる」と羽子は繰り返し――そして部屋に入って初めて、私の顔を見た。「だから私の言葉が届かないってこともあるよね」

 私は羽子と目を合わせる。そしてその言葉を頭の中で何度も噛み砕いてみた。

 羽子が言っているのはとても抽象的なことだ。雨傘だけでなく、家族だけでもなく、全世界に向けてそれは放たれている。


「……そうかもしれないね」と私は言った。正直に、軽く、粘り強く。「恵まれているからまともに聞いて貰えない話も、いろいろあるかもしれない。金持ちだからそんなことが言えるんだとか、金持ちに何がわかるとか――金持ちのくせに苦しいなんて言うなとか」

 羽子は黙っている。私が何か続きを話すのを待っている。

「私はこれまでずっと他人との巡り合わせが良かったほうだと思うけど、それでも小学生のときに一回そういう因縁つけられたことがあったなあ。相手は軽い気持ちで言ったんだろうけどね。金持ちなんだからそれくらい我慢しろ、みたいなこと、言われたことあるよ」

「難癖にもほどがある」

「そうだね。まさに難癖だ」


 私は笑った。羽子は私のぶんまで傷を引き受けたような苦々しい顔をしている。あるいは私がそれを笑い話にしてしまっていることが気に入らないのかもしれない。

「――うずまきは」と私はいろいろ考えてから口を開く。「毎日、苦しい?」

「……苦しいって言ったら、それは誰かに通じるのかな」

「私には通じるよ」と私は断言する。「家族にも皆通じる。付き人が百人いたってどうしようもないことがあることは、皆よくわかってるもん」


 羽子は少しのあいだ、何かを考える素振りを見せた。自分の心の中の色や形や手触りを、改めて確認するみたいに。

 それから心持ち小さな声で、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「たぶん、そんなに苦しくない。でも苦しくない日もない」

 そこに羽子のいまが集約されているような気がした。

 嫌な表現を使うのであれば、羽子はいま、世の中から逃げ込んでいる。羽子がかつて何に苦しんだのかは定かではないが、その意味では苦しさはいま、和らいでいるに違いない。

 しかし逃げ込んでいるという事実もまた、苦しみたり得るのだと思う。真剣に自分と向き合っていればいるほどにだ。


 恐らく羽子は、そういった苦しみを訴えても仕方ないと考えている。

 そんなことは苦しみにはならないと、一笑に付されるか、さもなくば激怒されることもあるのではないかと――恐らくそういう風に考えている。

 言い換えるなら、自分の苦しみに対してとても突き放した態度を取っている。

 でも私は思う。自分の中にある苦しさを誰にも理解されないと考えてしまうことは、それ自体相当な苦しさではないのかと。そしてその苦しさの重みを自分自身ですら認めようとしないのは、一種の自傷行為ですらあるのではないかと。


「――私はさ、もちろんうずまきのことが全部わかってるわけじゃない、というか、わかっていないことが結構あるわけだけど」と私は言った。「あんたが何も大変な思いをしないで毎日やりたいようにやってるとか、そんな風に思ったことは一度もないよ。そりゃまあ、たまに学校サボりたくなるときもあって、そんなときはあんたを見て、良いご身分ですことね、みたいなことをちょっと思ったりはするけど。でもあんただってきっと、何かと戦ってる。それくらいは私にもわかるし――この家の皆もわかってることだと思うよ」


 羽子は何の感想も述べなかった。代わりに両膝を立てて抱きかかえ、そこに顔をうずめたまましばらく固まっていた。

 もしかして泣き出すのだろうかと思ったが、そういうわけではないようだった。もちろん、心の中がどうであったかは確認のしようもなかったが。

 私は私で、少し気持ちが軽くなったのを感じていた。自分で思っていた以上に、私はこれらのことをずっと羽子に言いたかったのかもしれない。半分は羽子のためで、もう半分は私自身のための言葉だったのかなと思う。


 しばらくのあいだ、私達は沈黙に浸っていた。気まずさのない、心地良い沈黙だ。

「……夕食」と私はふいに頭によぎったことをそのまま口にした。「また一緒に食べるようになったのって、雨傘の進言?」

「……そう」

「良い人だね、ほんと」

「うん」

「図書室の本を読むとき、うずまきって雨傘に取りに行かせなくて、自分で行って向こうで読むじゃない。あれは?」

「あれは私の個人的な決めごと」と羽子はそのままの姿勢で言う。「図書室の本は図書室で読むのがいちばん良い」

「お父様は特に本の持ち出し禁止とかしてなかったよね」

「してない。私の独断」

「あの部屋、好きなんだ」

「好き。本に囲まれていると気分が良い」

「たまにさ、私もあそこ行くんだけど、なんか基本的にうずまきのための場所ってイメージが付いちゃっててさ。第二の部屋みたいな。そういう意味では私はちょっと落ち着けなくなってるかなあ」

「私の部屋じゃない」羽子は否定する。「――だからべつに誰が来てもいい。私がいるときでもいい。当たり前」

「今年の夏の話だけど、夜に図書室行ったら、あんたがテーブルに突っ伏して寝ててさ。そのまま寝かせておくのがいいのか、起こすのがいいのかわからなくて――ほら、あんたの寝起きがどうなってるかわからなかったから。そのときはとりあえず雨傘に言って全部任せちゃったけど」

 羽子が足先をもじもじさせる。覚えているというサインだろうか。

「まあそういうこともあって、ちょっと気を遣っちゃうとこあるわ。あの部屋」

「……好きにしていいから」と羽子は少し恥ずかしそうにぼそりと言う。「私は単純にあそこにいるのが好きなだけで、私物化したいわけじゃないから」

「そう。じゃあ今後は何も気兼ねしないよ」


 私はにかっと羽子に笑いかけた。羽子はちらりとこちらを見て、私のそれを確認する。少し間を置いてから、彼女は口を開いた。

「……ときどき、この部屋も本棚だらけにしちゃいたくなることがあるんだけど。でもやっぱりそれは違うかなと思って、いつもやめにする」

「それは正解かもね。自分の部屋は見晴らしが大事だと思うし」言いながら私は壁の一面を占める作り付けの本棚に目を向ける。「まあ、これだけ立派な本棚が一つあれば、自分の部屋としては十分でしょう。二千冊くらい入る? ここにあるの全部読んだの?」

「二千冊は入らないと思う。全部読んだわけじゃないけど、結構読んだ」

「まとめ買いして、全部は読まないパターン?」

「そう」


 我が家にも他の多くの家庭と同じように小遣い制が導入されているわけだが、大方が想像する通り、私達が親から貰う額は一般のそれとはかけ離れている。

 羽子の場合はそれがほとんど本に費やされることになる。

 いまのところ服には興味を示さないし、化粧品もまだちょっと彼女には早い(私だって手を出していないのだ。先を越されたくない気持ちはある)。


「学校の勉強にはちゃんと追いついてるみたいだって、雨傘から聞いたよ」

「たぶん追い越してる」何でもないことのように羽子は言う。

「あんたの学校、高校一年の途中くらいで普通の高校の三年分終わらせるんだっけ? それを追い越してるならたいしたもんだ」

 いつでも復帰できるね――と続くところだったが、それは言ってはいけないことのような気がしたので、私は途中で言葉を止めた。


 でも実際、羽子が単なる読書趣味の一環としてだけの理由で学校の勉強に手をつけているとも思えない。

 彼女はいつでも学校に戻れるように自発的に準備をしているのではないか。そうなのだとしたら、それはとても希望の持てることだ。


 ――そのとき、ドアをノックする音が聞こえた。

「お嬢様」という声がそれに続く。「雨傘です」

「――どうぞ」

 羽子がドアのほうに向かって声を張り上げる。羽子の大きな声を聞くのはすごく久しぶりのような気がした。恐らくこのやり取りが、いまの生活において羽子が標準以上の声を出す唯一の機会だろう。


 そっと様子を窺うようにゆっくりと時間をかけてドアが開き、雨傘が姿を現す。

「お嬢様、何かご用件があればうけたま――あっ」

「お邪魔してまーす」

「え、真都衣まといお嬢様? あの……えっ?」

 雨傘は死んだはずの人間がそこにいるみたいな驚きようで私を見て、それから問い質すように羽子を見た。

 羽子は相変わらず同じ姿勢を保ったまま、雨傘のほうを見ようとせずにただ黙って床を見つめている。

 気持ちはわかる。照れているのだ。


「お嬢様……」

「お客さん」と抑揚のない声で羽子は言った。

 雨傘はそそくさと部屋に体を入れると、駆け寄るように羽子の側に向かう。

 それから羽子の顔を下から覗き込むようにしゃがみ込んで――まるでお母様のように柔らかく微笑んだ。

「お客様なんて言ったら駄目ですよ? 他ならぬお姉様じゃないですか」

「……うん」

「お嬢様が呼んだのですか?」

「部屋の前にいた」少し落ち着かない様子で羽子は言う。「私と話したいっていうから部屋に入れた」

 雨傘はちらりと私のほうを見る。私はにんまりと笑ってピースサインを作る。

「そうでしたか」

「ほらうずまき、何かご用件はないかってさ」

「……特にない」

「じゃあ、雨傘にも仲間に入ってもらおう」

「え? 仲間ですか?」

「そう、仲間」と私は言い、ソファの隣をぽんぽんと手で叩いた。「時間があるなら、一緒にお喋りしていかない?」

「時間は――ありますけど、でも、あの」


 雨傘は羽子を見る。恐らく、自分が邪魔にはならないかと訊きたいのだ。

 羽子は片足だけ床の上に戻すと、私が雨傘に勧めた席を静かに指差した。

「――座って」

 雨傘は現実かどうかを見極めようとするみたいに何秒かその席を見つめていたが、やがて私と羽子の顔を交互に見て、承知しました――と優しく言った。そっと立ち上がり、回り込むようにその席まで歩いていく。

「失礼します」そう言って雨傘は音を立てずにゆっくりと腰掛ける。

 この部屋の中で見る雨傘は、少しだけいつもと違うように思える。私はいま、他の誰も知らない「羽子にとっての雨傘」の一端に触れているのかもしれない。

「なんか、あんまり無かった組み合わせだよねえ」と私は言った。「この三人だけで顔を合わせたことって、あったっけ?」

「無かったと思います」と雨傘は答える。「真都衣お嬢様と二人だけでお話させていただいたことは何度かありますが……」

「だよねえ。すごい新鮮」私は口の端を笑いの形に曲げる。「じゃあまず、何のお題からいきますかねえ」


 ◆


 これ以降、私は頻繁に羽子と接触するようになった。

 何より変わったのは、羽子が私のノックにも反応してくれるようになったことだ。

 これまではノックの直後に雨傘が名乗らなければ一切返事をしないのが彼女だった。部屋の中にいるのか、部屋を空けているのかも判断がつかなかったのだ。

 でもこの日を境に、私の「真都衣だけど」の一言に対しても、雨傘と同じように反応をくれるようになった。これはとても大きな前進だった。


 もちろん、依然として繊細な接触ではあった。

 あくまでも羽子は、私という個人の踏み込みを、一歩ずつゆっくりと許してくれるようになっただけだ。

 これを拡大解釈してしまうと、失敗することになる。羽子はまた逆方向に行ってしまうかもしれない。そのことには注意しなければならなかった。

 たとえば夕食のときに、皆の前で羽子にいままでとは違った風に馴れ馴れしく話しかけるようなことは避けようと思った。

 秘密というわけではないが、私と羽子の距離が縮まったことはあくまで二人のあいだの話であり、それを皆の前でことさらに示すことは羽子を萎縮させることに繋がるのではないかと考えたのだ。

 だから私はこれまで通りに振る舞ったし、その結果として羽子もこれまで通りのろくに何も話そうとしない羽子だった。このときくらいしか彼女のことを見る機会がない面々は、羽子の変化には気づかなかったことだろう。


 ……いや、多少の気づきはあったかもしれない。私が羽子の部屋に出入りするところを見かけたり、図書室で私と羽子が会話しているのを漏れ聞いた人がいるかもしれない。

 でももしそうだとしても、少なくとも誰もそのことを詮索しようとはしてこなかった。

 いろいろと気を遣ってくれた結果なのか、置かれた状況に比べればあまりに小さな出来事だから興味を持たれなかったのか、実際のところはわからない。

 いずれにせよあまり積極的にサポートされるよりはそのほうが動きやすいので、好都合といえば好都合ではあった。


 祠にこのことを話さずにいるのは不自然なので、彼女にだけは羽子とのやり取りを逐一伝えておいた。

 その日羽子とどんなことを話したのか、羽子のどんなところが以前と変わっている(あるいはいない)と感じたか、昔のどんなことを思い出したか。

 祠は興味深そうに話を聞いてくれて、私達のことを純粋に喜んでくれた。

 彼女は孤児である。やっぱり兄弟姉妹がいるのはいいものですね――としみじみと口にしたときの表情が印象的だった。


 姉妹の絆を取り戻す、などと言えば美しく響くのかもしれないが、身も蓋もないことを言ってしまうなら、私はまず第一に、何も起こらない状況の中で自分なりの仕事を見つけたかったのかもしれない。

 どんなスタンスで時間をやり過ごせばいいのかわからない宙ぶらりの中で、ちょうど――と言うと人聞きが悪いが――羽子の機嫌を損ねる出来事があり、それで色めき立ったのだろうと言われれば、否定できないものがある。


 でも羽子と話をするのはそれを抜きにしても悪い時間ではなかったし、勝手な受け止め方かもしれないが、彼女を再びこちら側へ引っ張ってこようとする行為そのものに、私は家族としての手応えのようなものを感じた。

 もしこのまま羽子とまた親密になれるなら。そして首尾良く元の世界(が存在するとして)に戻ることができるなら。この一連の出来事は私達家族にとってはむしろ幸運とさえ言うことができるのではないだろうか。そんな風に思った。


 これだけのことでよかったのだ。

 これだけのことを躊躇していた自分が馬鹿みたいだ。

 世間のあらゆるケースに同じことが言えるかどうかはわからない。でも少なくとも羽子とのあいだの壁は半分以上幻のようなものだった。勇気を出して踏み込んで本当に良かった。


 ◆


 ――そんなある日、この世界において初めての異変が訪れた。

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