第三章 初日

 あれから私は予告通りに二度寝を試みたが、前代未聞の異常事態に昂ぶった精神がそう簡単に落ち着くわけもなく、再び寝間着に着替えてベッドに入り、目を閉じても、思考がぐるぐると巡るばかりで眠りは一向に訪れなかった。

 寝付きは良いほうなのだが、そういう問題ではない。たまにふと目を開けて、閉じたカーテンにちらりと目をやるたびに、その向こう側の光景を思い浮かべないわけにはいかなかった。


 そんなことをしているうちに、七時に目覚まし時計が鳴った。

 七時。私がいつも平日に起きる時間である。着替えて朝食を摂って、祠の運転する車で学校へ向かうのだ。

 このような事態になっても、私はあえてアラームを止めておかなかった。止めてしまったら、登校する時間までにすべてが元通りになるかもしれない可能性を自ら潰してしまうような気がしたのだ。


 とはいえいつも通り七時に活動を始めるモチベーションは無く、私はアラームを止めてからもしばらくベッドの中で考え事をしていた。考え事といっても、一本筋の通った体系的なものではなく、浮かんでは消えていく曖昧な発想の連続だ。

 何もない外界。消えない電気。姿を消した両親――。

 結局、私がベッドからのろのろと体を起こしたのは九時頃になってからのことだった。

 そして、万に一つの期待を込めてカーテンを開ける。……元には戻っていない。私の口元に、そりゃそうだろうな――という自嘲的な微笑みが浮かぶ。


 ◆


 春沙はるささんが厨房にいなかったら自分で簡単な朝食を用意するつもりだったが、幸いにも彼女はそこにいた。

「あ、おはようございます。朝ご飯ですか? いまご用意します」私が目に入るなり春沙さんは言った。「食堂で待っていて下さい。ちょうど羽子うずお嬢様もお食事中でして」

「うずまきが? 食堂で朝ご飯?」

「あ、いえ、雨傘あまがささんがお部屋に運んでいきました」

「でしょうねえ」


 羽子がきちんとした名目で皆の前にきちんと姿を現すのは、原則として夕食のときだけだ。それがいまの羽子にとってのぎりぎりの妥協であるらしい。それ以外はほとんど自室で過ごしていて、たまにあちらこちらで見かけることになる。神出鬼没の隠れキャラのようなことになっている。

 そしてその自室にも、誰かを招き入れることはまず無い。例外は雨傘だけだ。

 必然的に、我々家族は雨傘を経由して羽子の日常の情報を仕入れる形をとってきた。それが必要な気遣いなのか、それとも問題の先送りにすぎないのか、常に自問しながら。


「――なんか、食堂行くの面倒臭いな」と私は言った。「ここでささっと食べちゃっていいですか」

「え? ええ、構いませんよ」

 少しして、春沙さんが朝食を目の前に並べてくれた。普段通りの簡素なものだ。ベーコンエッグにクロワッサン、ポテトサラダ、そしてカフェオレ(うちの家族は朝食に各人の好きな飲み物を選ぶ。私は断然カフェオレ派だ)。

 以前クラスメートが我が家の朝食について物凄い内容を想像してみせて、私を苦笑させたことがある。当たり前のことだが、お金がたくさんあれば何でもかんでも豪華絢爛にするというわけではない。


「使用人の皆さんは、あれから寝てないんですか?」と私は訊ねた。

「ええ。お嬢様はよく眠れましたか?」

「全然」私はクロワッサンを振る。

「そうですか――皆さんもやっぱりぴりぴりしています。やることを無理やり探そうとしている感じもありますね。ぴりぴりを持て余しているといいますか」

「敵が来る気配はありませんか」

「ええ。――って、お嬢様もしかしてからかってますか?」春沙さんが両手を胸の前でわらわらと動かしてみせる。ジェスチャーの多い人なのだ。

「いえ、そういうわけでは――あ、すみません、せっかく貰った武器、部屋に忘れてきちゃいました」

「食べ終わったらすぐに取りに戻ってください」子供を叱るように春沙さんは言った。「冗談じゃなく、何があるかわからないんですから」

「はーい、了解しました」


 私は言い、カフェオレでクロワッサンを喉の奥に流し込む。それからふと思いついて、ほこらはいま何してるのかなあ――と呟いた。

「たぶん、倉庫だと思いますよ」

「倉庫。……ああ、備蓄品のチェックですか」

「これからどうなるか、まったくわかりませんからね。料理人としても、事と次第によっては重要な問題になってきます」

 時間と共に、だんだん皆の状況認識がリアリティを帯びてくる。そう、これからどうなるか、まったくわからないのだ。事と次第によっては――世に言うサバイバルを経験しなくてはならない羽目になるのかもしれない。


 ◆


 倉庫の扉は開いていたので、私はそのまま中に入って、「祠ー?」とちょうど全体に響き渡る程度に声を張り上げた。

「はいー」

 奥のほうから祠の返事が聞こえる。それから何かカタカタと慌ただしく物を積み上げる音がし始めたので、私は「あ、いいよ、私がそっちに行くから」と言って歩き出した。


 我が家には、様々なものを備蓄しておくための大きな倉庫がある。水と食料、燃料、医薬品から生理用品から各種機械類の部品に至るまで、生活における大抵のものの予備がこの倉庫に一緒くたになっているのだ。

 これはお父様の意向である。いざ大きな災害があったとき、この屋敷単体でしばらくは生活ができるようにと、日頃から備蓄を絶やさないよう厳しく命じていたのである。


 私がここに来ることは滅多にない。切らした物をここから補充するのも、その分を購入して並べ替えるのも使用人達の仕事であって、家族の者はここの中のことを直接には把握していない。ここに何がどう揃っているかは銀見ぎんみさんの管轄だ。

 しかし私はこの倉庫の感じが割と好きだった。いざというときの備えが充実している様というのは、見ていて確かな安心感をもたらしてくれる。だからたまに気紛れで、祠がここに何かを取りに来るときについてきたことがあるのである。


 祠は食料品の積み上げられたところにいた。それらを調べながら何やらメモを取っていたようだ。やはりいま真っ先に確認すべきは食べるものか。

「改めまして、おはようございます、お嬢様」と祠はお辞儀をした。「よく眠れましたか?」

「さっき春沙さんにも訊かれたんだけど」と私は小さく笑う。「全然眠れなかった。だからおはようございますは要らない」

「そうですか……お体には十分お気をつけ下さいね」

「どっちかというと、いまはあなた達のほうが心配かな。もちろんこんなことになってるんだから仕方ないけど、あんまり張りつめて働きすぎないでね。倒れられても困るんだから」

「大丈夫です。無理はしません」


 祠は言い、それから積み上げられた缶詰やらお米の袋やらに目をやった。これらは皆、賞味期限に従って補充される都度きちんと並び替えられているのだ。

糸氏いとうじさんの指示がありまして、食料品の量を数えていたんです」

「普段から把握してるんじゃないの?」

「一応、再確認しろとのことでした」

 ……なるほど、春沙さん言うところの「やることを無理やり探そうとしている感じ」か。


「リアルな話、何日保つかっていうことね」

「ええ――」祠が真顔になる。「旦那様が想定したのは、たとえば大地震などです。そういうことには十分に対応できるだけのものが、ここには揃っています。ただ――」

「完全に想定外のことが起きてる」

「そうですね……足りるのか足りないのか、という結論は出しようがないです」

「だよねえ」


 そこで会話が少し途切れる。どう好意的に解釈しても、景気の良いトークテーマではない。


「あの、もし何があるんでしたら、何でもご用命下さい。急いで数えなければならないものでもないので……」

「ああ、いや別に、用事があって来たわけじゃないのよ」私は片手を振った。「むしろ逆かな。することが無くて、祠はどうしてるか気になっただけ。急に学校が休みになると持て余すわー」

「お嬢様」

 祠が私の手を握る。私の手よりほんの少し冷たかった。祠は昔から、何かを私にじっくり言い含めるときにはこんな風に私の手を握ってくる。私が十六になったいまでも、その習慣にまったく変化はない。


「私も頭の中が全然整理できていなくて、不安で仕方がないので、偉そうなことは言えませんが――お嬢様はできるだけ平穏にお過ごし下さい。気がついたら自分が思っている以上に神経がすり減っていた、といういうことも十分にあり得ます」

「……祠達にも同じことを言いたいよ、私は」と私は返す。

「私達は――少なくとも私は、お仕事は嫌いではないですし、気を紛らわす手段ならいくらでも持っていますから」祠はちょっとわざとらしい微笑みを作った。「お嬢様の話し相手や遊び相手も、手さえ空いていればいつでも勤めさせて戴きますよ?」


 私は祠を見ながら考える。

 祠はこの異常が、持ちこたえられる限界を超えて長く続いてしまう最悪の事態まで想定して言っている。

 もちろん誰の頭にも浮かぶことではあるが、彼女はそのことについて、すでに腹をくくっているように見える。たぶん、私がベッドで悶々としているあいだに、使用人達のあいだで――あるいは冠奈かんなも加わって――そのことについての、いわば覚悟の共有のようなことが行われたのではないかと思う。

 でも祠は、私にまでそれをいますぐには求めたくないのだ。どうせ受け入れなければいけないことだとしても、できるだけその抵抗を和らげたいと思っているのだろう。

 ……ほんの少し冷たい手が、とても温かく感じる。


「――部屋に戻るわ」と私は言った。「寝るか遊ぶか勉強するか、まあ、適当に時間を潰すよ」

「その意気です」と祠は言い、それから慌てて訂正した。「いや、その意気です、は何か違いましたね……ごゆっくりなさって下さい」

 祠がゆっくりを私の手を開放する。何だか「一人で歩けますか?」と赤ん坊のように扱われたみたいに感じたが、悪い気持ちにはならなかった。

「ごゆっくりします」と私は言った。「……ありがとね」


 ◆


 とはいえこの状況下で時間を潰すというのはなかなかに難しいことだった。

 外部とのやりとりができなくなっている――いまのところ具体的に表れている「不便」といえばそれだけなのだが、なら友達と連絡を取らずネットも使わない休日と思えばいいじゃないか、とは割り切れなかった。そこまで私は器用ではない。


 午前中は読みかけの本の続きを読むことに挑んでみた。

 まずは、ちょっと前のベストセラー小説だ。

 読み始めて少し経つと物語の中身に集中することができ始めたように感じた。でも少しでもその集中が途切れると精神状態が一気に元に戻ってしまう。その落差がいまはとても大きい。それが面倒になってきて、小一時間で読むのをやめてしまった。


 読む物を小説から漫画に切り替えてみた。集中する必要のない、コメディ色の強いやつだ。

 先程の小説よりは無理がないように感じたが、ではそのコメディを楽しめているかというと、それも違うような感じがした。捗らない勉強をしているときのような感覚だ。なぞれてはいるが、頭にきちんと入ってはいない。笑えるというより、笑おうと頑張っているというほうが近い。

 薄ら寒い真似事をしている気がして、結局その漫画も投げ出してしまった。


 これから先、もしこの状態が続けば慣れていくのかもしれないが――とりあえず初日の今日はどうしたって落ち着けそうにない。

 諦めて、私はあえて散漫に過ごすことにした。机の引き出しの中を整理してみたり、今日提出するはずだった宿題をもう一度見返してみたり、部屋中を歩き回ってみたり。

 一つ残らず実りのない行為に終わったが、それでよかった。とにかく何かに時間を消費したかったのだ。


 そんな風にして何とか昼食の時間を迎え、私は食堂でそれを簡単に済ませ、それから今度は午後の時間と格闘を始めた。

 午後は行動範囲を屋敷全体及び屋敷の外まで広げた。あちらこちらを歩き回り、誰かと出くわしてその人が暇そうであれば何やかんやと話しかけてみた。

 それで気づいたことなのだが、どうやらいまのところ私がいちばん屋敷の中で落ち着きがないらしい。他の皆は少なくとも私よりは時間の流れというものに対して苦痛を感じていないように見えた。


 時間をゆっくり、じっくり使うということに関して、私は自分が思っていた以上に下手だったのだろうか。

 それもあるかもしれないが、たぶん最も大きな理由は、この状況において私の立場がいちばん宙ぶらりなものだったことにあると思う。仕事もなければ責任もなく、その割には何かをしなくちゃいけないという気持ちだけはある状態。

 使用人達には仕事がある。冠奈には責任感がある。羽子には屋敷のことに関与しようという意欲がまったく無い。それらに比べると、いまの私はいかにも半端だったのだ。


 結論として、私が取るべき選択肢は二つあった。頑張ってこの立場に慣れるか、さもなくば状況に対して心身を動かすかだ。

 ……私は祠の言葉を思い出す。

 とりあえず今日は彼女の気持ちに従っておこうと思った。細かいことは使用人達に任せて、気ままに、平穏に。ちょっと苦しいけど、何とかそれをまっとうしようと。

 しかしもしこの状況が長く続くようであれば――私も身の振り方を考え直さなければいけないだろう。


 ◆


 夜の七時くらいになって、ドアをノックする音が聞こえた。

 そのとき私は本来今日あったはずの部活の内容をあれこれ想像しながら部屋中を歩き回っているところだった。

 ちょうどドアの近くにいたので、どうぞ、と言う代わりに自分でそれを開けた。ノックの主である祠は、予想外のことに少しだけ驚いたらしい。


「いや、ちょうどここにいたんで」と私は苦笑いを作る。

「夕食の支度ができました」と気を取り直して祠は言った。

「了解」

 私はそのまま部屋の外に出て、静かにドアを閉める。


 少し離れた両隣の部屋のドアに目をやると、糸氏さんと雨傘が同じようにドアを開き、中の主が出てくるのを待っていた。

 夕食時のいつもの光景である。付き人達は同時に私達姉妹を呼びに来る。大抵の場合、最初に私が出てきて、次に冠奈、そして最後にゆっくりと羽子が姿を現す。


 今夜も同じ順番になった。少ししてから冠奈が出てきて、糸氏さんと共に食堂へ向かう。

 それからたっぷり一分くらいして、冬眠中に無理やり引きずり出されたみたいに羽子がのそっとドアの奥から体を出した。

 べつだん不機嫌そうでもないが、お世辞にも友好的とも社交的とも言えない表情。普段通りである。足下は裸足。羽子だけの「特権」だ。


 私はいつも羽子が部屋から出てくるのを待って、一緒に食堂へ向かう。その間に一言二言の会話を交わす。それが唯一のやりとりになる日も多い。

 羽子が夕食にちゃんと顔を出すようになってから、ずっとそれを習慣にしてきた。何となくそれが私の小さな役目であるように思えたからだが、もちろん思い上がりに過ぎない可能性も否定はできない。


 私は羽子と並ぶ。祠と雨傘は私達を二人にする形で後ろにつく。これもいつもの隊列だ。

「どう?」と私は羽子の横顔を見ながら訊ねる。

「スマホで弥々ややを呼べない」と真っ直ぐ前を見たまま羽子は言った。「――のがムカツク」


 弥々というのは、雨傘の下の名前である。彼女を弥々と呼ぶのは羽子だけだ。

 羽子は雨傘にはよく懐いている――というか、よく使う。それも、かなり大胆不敵に使う。

 何か雨傘に用事があるとき、羽子はその場でスマートフォンを使って雨傘に連絡を入れる。それを見て雨傘が飛んでくるという寸法だ。

 基本的に羽子は自分から移動しようとしない。まるで移動することが羽子にとっては何かの敗北であるかのような、一種の意地のようなものを感じることもある。

 羽子が引きこもり始めた頃、それはもっと酷かった。こうして並んで食堂に向かうだけのことも、その当時からすればもう二度と経験することのできないもののように思えたものだ。

 ともあれ、そんな羽子がスマートフォンを使えないという。これは彼女にとっては一大事に違いない。


「代わりにどうしてるの?」と私は訊ねる。

「弥々がしょっちゅう部屋に来てる」羽子は即答する。それを嬉しいことと捉えているのか、そこに何の感情もないのか、その口調からははっきりしない。

 私は後ろを歩いている雨傘に振り返って、ご苦労様――とねぎらう。

「いえ、そんなことは」と雨傘は謙遜してみせる。「お役目ですし、羽子お嬢様のことが心配ですし――」

「状況はわかってるよね?」私は念のために羽子に確認する。

「わかってないということがわかってる」と羽子は言った。そっけない言い方だったが、きっとこの子なりの冗談なのだろうと私は好意的に解釈する。「飛ばされた、残された、閉じ込められた――どれかわからない。スマホは使えないのにトイレは流れる」

「……閉じ込められた?」


 それだけが私には少し不思議な言い方に思えた。私はそれを羽子に訊ねようとしたが、ちょうどそこで私達は食堂に到着した。

 羽子との短いやりとりはここで終わる。それが毎日のお約束だ。

 私達は黙って自分の席に着く。

「今日は皆で食事を摂ることにするから、祠と雨傘も準備が終わったら席につきなさい」

 冠奈が言った。言われた二人は短く返事をして、食堂のほうへと向かっていった。

 我が家の食卓の座席構成は、上座のほうから見て右にお父様、左にお母様、次の列には右に冠奈、左に私、次の列には右に羽子、という風になっている。その延長で、左に――つまり私の席の左隣に今日は糸氏さんが座っていた。となれば、その次の列の右に祠、左に雨傘というのが自然な形だろう。

 少しして、春沙さんが二人を伴って料理を運んできた。気が付けば銀見さんも姿を見せている。今日初めて、屋敷の全員が一ヶ所に集まることとなった。


 ◆


 ――そして時計の針は冒頭に戻る。

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