第二章 異変

 夜のあいだ少しだけ開けていた窓を、反射的に思いきり開ききった。

 風はない。何か特別な匂いもない。ただ、明らかに間違った光景だけが視界に飛び込んでくる。何度瞬きしても変わらない。


「……あのさ、ほこら」と私は隣で同じように外を眺めている祠に言った。「私、もしかしてまだ寝てる?」

「お嬢様」祠は私のほうを向いた。「私にも同じものが見えています。他の人達もまったく一緒です」

「……集団催眠みたいなことかな?」

「集団催眠というものは確かに実在します。ですがいまの私達が急に集団でこんなものを見る理由がありません」

「誰か、あの外に行ってみたの?」

「いえ、まだです」

「じゃあ行ってみよう」


 私は外へ出ようとして身を翻した。しかしその私の腕を、祠が素早く掴んで止める。

「危険です、お嬢様。何がどうなっているかまったくわからないんですから」

「でも眺めてるだけじゃ、幻覚か本物かもわからないじゃない」

「それはそうですが……お嬢様を真っ先に向かわせるわけにはいきません。付き人として」


 私は祠の顔をじっと見つめた。

 祠だってもちろん混乱している。あるいは祠のほうが私より混乱している。でも混乱しながらも、己の役割をいつもの通りにこなそうと懸命に務めているのだろう。

 いまはとりあえずそんな彼女の顔を立てておくべきかもしれない。


「――わかった」と私は言った。「他の皆はどうしてるの?」

「使用人は皆起きています――あ、春沙はるささんはまだだと思いますが」祠は答える。「冠奈かんなお嬢様と羽子うずお嬢様は糸氏いとうじさんと雨傘あまがさが起こしに行きました」

「うずまきは今夜は寝てたの? 最近のあの子の生活リズム、知らないけど」

「わかりませんが、少なくともご自分のお部屋にはいらしたようです」

「そう。……とりあえず他の皆とも話したいから、着替えるわ。どこかに集まったほうがいいんじゃない?」

「そうですね。客間にでも集まりましょうか。糸氏さんに伺ってみます」


 私はクローゼットを開き、服を見繕う。本来なら着替えるのは二時間以上あとのことで、着るのは制服だったはずだ。それがまさかこういうことになるとは、寝る前にはひとかけらも予想していなかった。


 適当に選んだ服に着替えて、私は祠と一緒に自室を出た。ちょうどそこで廊下を通りかかる雨傘と出くわした。

「あれ、雨傘」

「あ、真都衣まといお嬢様――あの、おはようございます」

 雨傘はあたふたしながら深々と頭を下げた。実にいつもの雨傘だ。丁寧は丁寧なのだが、何というか仕草が舌足らずなのである。その感じが現在の状況とまるで合っていなくて、なんだかサイズの合わない服を間違えて着たみたいな気持ちになった。


「うずまきは? 起きてた?」と私は訊ねる。

「今夜は眠っておられました」

「起こしたんでしょ?」

「はい、起こさせて戴いて、何が起きているのか説明させて戴きました」

「で、あの子は?」

「それが――」雨傘は申し訳なさそうな顔を作る。「眠いからもう少し寝る、と……」

「はあ?」思わず私は大きめの声を出してしまった。

「す、すみません!」雨傘が再び頭を下げて謝罪する。

「あ、ごめん、そういうんじゃないの」私は慌てて弁解した。「ちょっとびっくりしただけ。あの子、正常な判断ができてるのかな。気が動転しておかしなことになってるわけじゃないよね?」

「そういうことではないと――思います」


 雨傘は答える。しかしどこか自信なさげだ。その態度に私は物足りなさを感じたが、すぐにそれを胸の奥に押し込んだ。

 羽子の心の内は誰にもわからない。それにいまこの場に至って、いつも通りに心穏やかにものを考えろというほうが無理な話ではないか。私だっていま、いつもなら感じない心臓の鼓動を感じている。日頃から不安定であろう羽子のこと、いまはむしろ眠ってしまったほうが良いのかもしれない。


「糸氏さんはまだ冠奈お嬢様の部屋でしょうか……」

 祠が言い、冠奈の部屋のドアまで歩いていってノックする。どうぞ、という冠奈の声が中から聞こえた。失礼します、と言って祠が中へ入っていく。

「うずまきが夜型のときだったらなあ」と私はその様子を見ながら隣の雨傘に言った。「これが起きたちょうどその瞬間のことが何かわかったかもしれないのに。……感じとして、いつどうやってこうなったのか誰もわかってないんでしょ?」

「はい……気づいたらこういうことに」

「あなたは大丈夫?」

「……はい」

「本当は?」

「あの……正直に言って、怖いです」少し揺れる声で雨傘は言った。「何が何だかまったくわかりません。一人で部屋にいたら体に力が入らなくなりそうです」

「客間にでも集まろうかって話を、さっき祠としたところ」と私は言い、雨傘の肩にそっと手をかける。「そこでちょっと落ち着こう?」

「ありがとうございます――」


 雨傘は言い、それから自嘲気味に、お嬢様はお強いお方ですね――と付け加えた。

「そうでもないよ」私は苦笑する。「たぶん、少しハイになってるだけ」

 冠奈の部屋のドアが再び開く。中から祠と、それから冠奈、糸氏さんが姿を現した。

「あの、冠奈お嬢様、おはようございます」

 雨傘が言い、例の深いお辞儀をする。私に対するそれよりも二割増しくらい、緊張感を漂わせている。

「おはよう」と冠奈はそっけなく返し、私を見た。「客間に集まるそうね。……羽子は?」

「おねむだって」

「……そう」

銀見ぎんみさんはいま、屋敷内を見回っています」と糸氏さんが言った。「私は彼を呼んでくるから――雨傘、あなたは春沙さんを起こしてきて」

「は、はい」

 直立の姿勢で返答すると、雨傘は階段に向かっていった。春沙さんの部屋は一階にある。

「わからないことだらけのようだけど」と冠奈は言った。「とりあえず集まってから、なけなしの情報を整理しましょう」


 ◆


 七人分の紅茶をティーワゴンに乗せて、祠が客間に戻ってきた。

 私と冠奈はソファに並んで腰掛けている。銀見さんと糸氏さんは少し離れたところで何やら小声で話し合っている。春沙さん待ちの状態だ。


 普段なら、こんな早起きをしてソファなんかに体を預けたら、あっという間に眠気の襲来を受けるところだが、良くも悪くもそれは訪れる気配を見せなかった。

 胸のあたりがざわざわして、それどころではない。

 同じことは冠奈にも言えるようで、彼女はあらぬ一点を見つめて何か考え事をしていたが、その瞼が落ちそうになるのと戦っている様子は一切見られなかった。


 少しして、春沙さんが雨傘と共に客間にやって来た。

「おはようございます。遅くなりまして、申し訳ありません」

 春沙さんはぺこりと頭を下げる。その手には大量の――何だろう。

「おはようございます。あの……それ何ですか?」私は訊ねた。

「武器です。護身用」

 そう言って春沙さんはテーブルの上に撒くようにばらばらとそれらを置いた。よく見るとそれは色とりどりのカバーに覆われた、様々なサイズの包丁だった。全部で……八本。

「厨房から持ってきました」と春沙さんはやけに意気込んで言った。「何があるかわかりませんから、皆さん一本ずつ持っていて下さい。いざとなったら戦えるように」

「戦うって」

「何か敵っぽい奴がいるかもしれないでしょう?」

「屋敷の中は一通り見て回りましたが」と銀見さんが言った。「不審な人物は見当たりませんでした」

「それでも」と春沙さんは食い下がる。「屋敷の外から何か来るかもしれないじゃないですか。化け物とか」


 それを聞いて、私の想像力が色々と血肉を持ち始める。化け物。それはとても非現実的で、そしてどこか安直な響きを持った言葉だが、実際に非現実的な世界が外に広がっているのだとしたら、一笑に付して終わるわけにもいかなくなってくる。


「あと、包丁見繕っていたときに気づいたんですけど、何か一本足りない気がするんですよ。誰かが盗んでどこかに隠れてる、なんてこと、本当にないんでしょうか?」

「絶対にないかどうか知りませんけど――わざわざ侵入して、武器を持ってから隠れる意味ってあんまりなさそうですね」私は言い、それから窓の外を指差す。「それに――これが誰かの侵入と関係があるとも思えません」

「春沙さん、あなたはこの間も何か食器が見当たらないと言っていませんでしたか?」糸氏さんが言った。

「え? ああ……はい、言いましたね」

「厨房の中はあなたの専門ですが――失礼ながら食器や調理器具を日頃きちんと把握できていないように窺えます。包丁が足りないというのは確かなことなのですか?」


 春沙さんが言葉を詰まらせる。そして懸命に何かを思い出すように腕を組み、小さく唸り始める。

「そう――言われると自信がなくなってくるんですけども……」

 ふう、と冠奈がため息を漏らした。

「とりあえず包丁の件は置いておきましょう。それよりまず――外のことです」

「同感」と私は言った。「まだ誰も外に出てないんでしょ?」

「あの……」と雨傘がそっと手を上げる。「私、新聞を取りに玄関の外までは出ました。それでその、空がこんなで、周りに見えるはずの建物がまったく無かったものですから、それで慌ててまた屋敷の中に入って、銀見さんに報告して……」

「私はそのとき、旦那様と奥様のお姿がないことに気づいたところでした」と銀見さんが話を引き継ぐ。「それで雨傘から報告を受けて、この目でそれを確かめ、それからお嬢様方を起こすよう指示したのです」

「じゃあ、全部幻覚って線もまだ消えてないんだ」私は言い、冠奈を見た。「まずはそこから確かめる必要あるんじゃないかな」

「……そうね」


 冠奈は言い、ゆっくりを紅茶のカップを手に取り、口をつけた。こんなときでも、優雅なお嬢様をすることを怠らない。もはや完全に染みついてしまっているのか、あるいは自分のペースを何とか維持しようと務めているのか。


「皆、気づいてるのかどうか知らないけど」と私は言い、今度は天井を指差した。「いちばん不可解なのは、こういうのだよね」

「あの――こういうの、といいますと?」祠が恐る恐る訊ねてくる。

「紅茶を淹れたのに、気づかなかったの? 周りがあんな風になってるのに、明かりは付くしお湯も沸かせるって、どういうことなのよ」

「あ――」

「いわゆるインフラっていうの? そういうのが断たれていないって、おかしくない? 電話はどうなってる?」

「どこにも通じませんでした」と銀見さんが言った。「受話器を取ってもまったくの無音です。機能しておりません」

「ネットは?」

「繋がりません」糸氏さんが言った。「少なくとも携帯電話の回線はそうでした」

「GPSとWiFiも駄目でしたね」祠が付け加える。


「なのに電気とかガスは通ってるわけだ」と私は皮肉るように言った。「おかしいよね。すごく中途半端。何て言えばいいのかな――見た目通りになりきれてないのよ、いまここは」

 それが合図であったかのように、冠奈が静かに立ち上がった。

「外へ出て確かめてみましょう」

「それなら私が行って参ります」糸氏さんが名乗り出る。

「いえ、私が行くわ。自分の体で確かめたい」

「私も行く」私は冠奈に続いた。

「お嬢様――」

「心配なら祠もついてきて。私も自分の体で確かめないと、気持ち悪くて仕方ない」

「銀見さん」と冠奈は言った。「双眼鏡……いえ、望遠鏡を用意して貰えますか? お父様が持っていらしたわよね?」

「はい。いまは倉庫にしまわれていたかと」

「それを持って外に出てみましょう。他にも気になる人はついてきて」


 ◆


 結局、七人全員が屋敷の玄関を出ることになった。

 皆の手には、さっき春沙さんが持ってきた包丁が一本ずつ、カバーを付けたまま握られている。春沙さんの強いアピールで、装備することを余儀なくされた次第だ。


 門に向かって歩いていく。

 敷地の中の構成物は見慣れたいつもの配置をまったく崩していない。小さい頃は暇さえあれば――暇だらけだったが――ここを走り回っていた。いまも目隠しをしたままそこそこは歩いて回ることができる。ホームグラウンドというやつだ。


 目的の場所まで辿り着くと、糸氏さんがいつもと変わらぬ様子で淡々と門を開けた。

 その向こうに広がっているのは――窓の外から見たのと同じ、荒れ果てた地面。

 冠奈が歩き出そうとすると、それを遮るように糸氏さんが制した。

「まずは私が行きます」


 それから糸氏さんは敷地と外界の境界に立つ。

 皆が固唾をのんで見守る。一歩踏み出した瞬間に何が起きるのか、誰にもわからないのだ。爆発するかもしれないし、何かが襲ってくるかもしれないし、糸氏さんがどこへともなく消えてしまうかもしれない。

 あるいは逆に、これらのすべてが敷地内から見える幻覚にすぎず、一歩踏み出した者にはいつも通りの世界が見えるのかもしれない。


 糸氏さんの右足が、敷地をまたいだ。

 ……何も起こらない。

 さらに左足も向こう側へと進める。糸氏さんの体が完全に「あちら側」へと移った。しかし特に異常は見られない。


「どう?」と冠奈が訊ねる。

 糸氏さんはそのまま何歩か歩いていった。そして左右を見渡す。

 それから私達にとっての奥のほうをじっと見つめる。地面の固さを確かめるように何度か足下を蹴り、しゃがんで土のかけらを手に取り、再び立ち上がると私達のほうを振り返った。

「見たままです」と糸氏さんは言った。

「異常空間に異常なしと」

 私は冗談めかして言ったが、もちろん笑ってくれる者はいない。


 冠奈が後に続いて門をくぐり、同じようにあたりをきょろきょろと見渡す。私もその後を追って境界線をまたいだ。

 ……確かに見たままだ。だいたいこんな感触ではないかと想像した通りの地面。特に代わり映えのしない空気。そこには確たる味も匂いも無い。風も相変わらずまったく吹いていない。


「幻覚――ではなかったわね」と冠奈が言った。「本物よ。何をもって本物と言うべきなのかわからないけれど」

「とりあえず、屋敷を一周してみる?」私は提案する。

「――そうね」

「あ、では私も」祠が慌ててこちら側に駆け寄ってくる。


 四人でとぼとぼと屋敷を囲う柵に沿って歩き出す。

 最初の曲がり角を曲がるとき、少なからず緊張した。ここを曲がってしまうといよいよ門から遠ざかる。根拠は何もないが、これっきり二度とあの門のもとに戻れなくなるのではないかという妄想が頭をよぎったのだ。

 しかしそれでも私は足を止めずにそこを曲がって進んだ。まったく迷いが見られない冠奈と糸氏さんに引っ張られた形だ。


 ……いや、本当は二人も様々な不吉な予感と戦いながら進んでいるのかもしれない。どちらも動揺とか躊躇とか、そういった弱いところを人一倍見せないタイプの人間なのだ。

 頼もしいと言えば頼もしいのだが――どうだろう、糸氏さんには確かに純粋な頼もしさを感じる一方、冠奈に対しては同時にどこか無理をしている印象も私は抱いている。それは冠奈の振る舞いのどこかに表れているものなのかもしれないし、彼女が私の姉で、より近しい存在だからついつい思ってしまうことなのかもしれない。


 さらにもう一つ角を曲がる。私達と門のあいだを屋敷が塞ぐかたちになる。

 遠くに裏門があるのが目に留まった。自分が予想していた以上の安堵が降りてきた。ここでもしあの裏門が見えないようだったら、もう二度と表の門の前に戻れなかったかもしれない。妄想がひとつ、取り払われた。


「ちゃんと回れてるみたいだね」と私は言った。

「そのようね」と冠奈が背中越しに応える。「本当に屋敷しかないのね。他は綺麗さっぱり、何もない」

「電線なんかどこにも見えないよ。これで何で明かりが付くんだろう?」

 答は誰からも返ってこなかった。もちろん言った私も答が返ってくることなんて期待していない。一問一答が成立するには、事態はあまりにも奇妙なことになりすぎている。


「……私達のことは心配しなくていいって、私は昨晩、お父様とお母様に言ったわ」と冠奈が独り言のように言う。「私は無責任な人は嫌いだし、だから無責任にもなりたくないの。何としてでも元通りにならなきゃ」

 先頭を歩く糸氏さんが少しだけ歩く速度を緩め、寄り添うように冠奈と並んだ。どちらもお互いを見ることなく歩き続けているが、言葉にならないものが交わされているのがはっきりと感じられる。

 糸氏さんから見た冠奈は、私にとっての冠奈とはまた少し違った存在なのだろう。当然のことながら。そして冠奈から見た糸氏さんも、私の知らない糸氏さんであるに違いない。常日頃から、二人のあいだにはとても強い繋がりを感じる。親友同士も越えた、まるで――いや、これは発想が良くないか。


 さらに二つ角を曲がったところで、出発した正門が見えてきた。やっとのことで一周できたのだ。改めて言うのもなんだが、私達の家はとても広い。

 門の前に到着する。相変わらず存在感のある「六玄木むくろぎ」の表札が出迎えてくれる。そういえば紹介していなかったかもしれない。私のフルネームは六玄木真都衣である。


 敷地内にはさっきと同じように三人が待ち受けていた。

「お帰りなさいませ」と雨傘が言う。自分を家を一周しただけでお帰りなさいというのは普段なら大袈裟に思うところだが、いまはそう言いたくなる気持ちもわかるし、言われた側としてもしっくりくる。それなりに冒険だった。


「なーんにも無かった」と私は言った。「四方八方、全部こんな感じ。化け物も出てこなかったわ」

「でも、武器はちゃんと持っていて下さい」春沙さんが念を押すように言った。「いつ異変が起きるかわからないんですから」

「わかってます。持ち歩きますよ」

 私は小さく笑う。笑い事ではないことを承知しながら。

「銀見さん、望遠鏡は使える状態ですか?」と冠奈が訊ねた。

「はい、あとは覗きながら倍率調整をするだけです」

「望遠鏡のことは詳しくないのだけど、これは何倍くらいに見えるのかしら?」

「最大で一五〇倍でございます」

「そう――じゃあちょっと、ここら辺に置いてくれますか? 空ではなく、水平に向けて」


 門から少し出た場所を冠奈は指定する。銀見さんがその位置に望遠鏡を置き、言われた通りに鏡筒を水平に固定する。接眼レンズの位置を手で指して、どうぞ――と言った。

「すでに遮光してありますので危険はありません。始めは低い倍率で広い視野を捉えるのが天体観測の場合ですが――」

「天体ではないから、どうすべきかしらね。銀見さんに任せます」

「では、そのまま覗き込んで下さい」


 冠奈がレンズに目を近づける。そのまま微動だにせず、じっとそのレンズの奥に潜む何かを捕まえようとする。空と大地以外の何かが見えたのなら、それは大発見だ。

「……倍率を上げてくれますか? ゆっくりと、目一杯まで」

 銀見さんが指示通りに調節していく。少しして「これで最大でございます」と言って望遠鏡から体を離した。


 冠奈は自分の手で少しずつ鏡筒を動かしながら観測を続ける。

 二分くらいして、気分を入れ替えるように三脚ごと真横に方向転換し、再びレンズを覗き込んだ。そしてまた黙々と何かを探し始める。

 ……沈黙が続く。

 鏡筒を動かす彼女の手が、時間の経過と共に少しずつ苛立ちを帯びてきているのが伝わってきた。しかし我々には何も手伝えることが無い。何かが彼女の目に留まってくれることを――できれば悪いものではないほうがいい――祈ることしかできなかった。


 やがて冠奈はレンズから目を離し、いたわるようにその目を指で軽く揉みほぐしながら、先が見えない――と放り投げるように言った。

「もちろん、四方を全部見てみないと結論を出すことはできないけど――途方も無い範囲にわたって、何一つ無い。それこそ、見たままよ」


 それを聞いても私はあまり落胆しなかった。恐らくそういうことになるだろうと最初から思っていたのかもしれない。

「可能性のことを考え出したらきりがないよね」と私は言った。「どこかに一ヶ所だけ何かがあるのかもしれないし、百キロくらい進んでいったら急に何かが起きるのかもしれないし」

「……そうね」

「どうする? 何をしようか? というか、何かをしようかすまいか、そこからという感じもするけど」

 私の言葉を吟味するように、冠奈は口元に指を当てて考え込む。

「個人的には――」と私は続ける。「とりあえず様子を見るのが良いんじゃないかと思う。もう少ししたら何か変化があるかもしれない。一番良いのは、皆一斉に寝て起きたら元通りになってるってパターンだけど」

「そう都合良くいくかしら」

「可能性よ。まずはクールダウンすることが必要だと思うの。皆はどう思う?」


「……私は賛成です」と祠が言った。「何が何だか、ですけど――落ち着くのは大切だと思います」

「現状ではできることが限られているのは確かだと思います」と糸氏さんが続く。「遠くへ出向くか、お屋敷にいるか。まずはお屋敷の隅々までもう一度調べてみて、それから対策を考えるのが良いのではないでしょうか」

 あとの三人は何も言わなかったが、特に異論はないようだった。

 少しの間、沈黙の時間が流れる。それを破ったのは冠奈だった。

「……中に入りましょうか」


 その一言がそのまま決定事項になった。呪いが解けたように、全員の体から少しだけ緊張が抜けるのが見て取れた。

 実のところ、何も事態は進展していない。でもとりあえず、いますぐに死の恐怖に怯える必要はなさそうだというのは皆の感じるところであり、それだけでも収穫と言えなくもなかった。


「……なんか、いまになって疲れが出てきた」と私は言い、目をこすった。「うずまきにあやかって、もう少し寝ようかなあ」

「お嬢様方はお休みになっていて下さい」そう言って糸氏さんが腕時計に目をやる。「この空につい誤魔化されてしまいそうになりますが――まだ五時です。周辺の様子は我々が注視しておきますので」

「本当ならあと三十分くらいで目を覚ますはずだったのね、私」と冠奈が遠い日を語るように言う。「お父様達はどこへ行ったのかしら……それとも……」

 それとも。

 私達だけがどこかへ行ってしまったのか。


 玄関をまたぐ直前、私は振り返ってもう一度空を見上げる。

 美術の授業をふと思い出した。筆を洗う水にあらゆる色の絵の具が混ざってできあがる、あの灰色だ。

 いままで曇り空なんて幾度となく目にしてきた。しかし――これほど純粋な灰色は見たことがない。とても虚無的で――そしてとても人工的だ。

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